小さな悲劇、または大きな喜劇
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魔力枯渇体質というのは後天的なもので、全人口の1%程度に現れると言われる。
多くは十代半ばから徴候が現れ、人が普遍的に持っているはずの魔力が目に見えて減少し、限りなくゼロに近づいていく。
気づいたのは14の冬、ワイアーム練兵学校に初めて願書を出した日だ。僕の魔力は、朝と夕方で違いが分かるほど急速に減少していた。
当然、その年の試験は落第。
練兵学校への入学は諦めた方がいい、と何人もの人に言われたが、僕はギリギリまで魔法科への望みを捨てず、筆記試験で実技をカバーしようと努力を重ねてきた。
……だが結局は無駄な足掻きだった。
全人口の1%というとひどい不運のように思えるが、大陸全土で見れば何万、何十万という数だ。要するにありふれた不幸であり、退屈な逆境なのだ。
ワイアーム練兵学校とは国王の勅旨のもとに設立された大陸最高の戦士、魔法使い、そして秘術探索者の養成機関であり、受験を志すものは星の数ほどいる。生涯に三回しか受験資格がないというのも、つまりは志願者が多すぎるためだ。そして三回落第する者も、この国には掃いて捨てるほどいる。
入学を果たしていずれ騎士として仕官したり、宮廷付きの魔法使いになったり、あるいは一流の秘術探索者になったり、そんな成功を誰もが夢見るが、そんなものは選ばれたごく少数の人間の栄光であり、大抵は当たり前のように落第し、意外性もなく失敗し、平々凡々な人生に折り合いをつけて生きていくのだ。
だから、僕が三回落第し、後はもう宿屋の仕事を手伝ったり、どこかの職人に弟子入りして立派な靴屋なり鍛冶屋なりを目指すことも。
別に、取り立てて騒ぐほど劇的ではなく……。
「……」
すでに夕方が近い。
僕は賑やかな食堂に居る気になれず、ぶらぶらと街へ繰り出していた。
街はいつもと変わらず活気に満ちていた。広場では若い婦人が集まって雑談を交わし、物売りが威勢のいい掛け声とともに往来を行き交い、子供たちが屋根の上から積み上げた藁に飛び降りたり、浮気がバレた旦那がフライパンを片手の若奥様に追いかけられているような。頭痛がしてくるほどに平和な風景だ。
僕の足は自然とそんな喧騒から逃れるように、道の細い方へ、暗がりの方へと進んでいった。
――約束するよ
進むうちに僕の足は早くなり、風景が視界から遠ざかっていく。
耳に入る雑音は遠ざかり、心の声が、過去の記憶が頭の中で反響する。
――僕が一人前の魔法使いになったら
――君と一緒に、秘術探索者に
「くそっ!」
僕は足元の石を蹴り飛ばす。
と、それが近くにいた少年の脇をカンカンと抜けて飛び、少年がびくりと身を竦ませる。
「あっ……ごめん」
その少年はずいぶん簡素な服を着ており、痩せているように見えた。
少年は僕の方など見もせず、かすかにうなずいただけである。
見れば、少年の脇には樹脂製のボールが落ちていて、少年はそれを拾おうとしているところだった。
「おーーーい! 早く取ってこいよー!」
遠くから声がする。そこでは数人の子どもたちが遊んでいるようだ。
少年がボールを抱えて戻ると、子どもたちの中でひときわ体の大きい子が、その少年からひったくるようにボールを奪い取る。
「よーし、続き行くぞー!」
体の大きな少年がボールに手を添える、するとボールが鈍く青色に輝き、ふわりと宙に浮いて、別の少年の方へと飛んでいく。
あれは確か抱導球という遊びだ。弾力のある樹脂でボールを作り、さらに物体の反発力を上げる術式を使って、あのように投げ合う。
ボールを取ってきた少年はというと、その遊びの輪に入れてもらえず、隅のほうでうずくまってじっと見ているだけだった。
そうか、あの子も魔力枯渇体質ということか。
あの遊びをやるにはごく微力ながら魔力が必要だ。あの子はそれを持たないために遊びに付き合えず、あのようにボールを拾ってくる係をやっているのか。
あれもまた、世の中に当たり前のように存在する、ささやかな寂しさ、あるいは道の石のようにありふれた悲劇ということか。そう、僕のように……。
「……」
僕は歩きだす。
何も考えたくなかった。
消えてしまいたかった。
僕のちっぽけな不運など、あくまで平凡の範疇なのだ。
この世に数多ある不幸のことを思うと、不幸に酔うことすら出来なかった。僕のそんな生真面目な人間性すら腹立たしかった。
「仕方ないじゃないか」
仮に僕が魔力枯渇体質でなくても。
今の何倍も努力したとしても。
それでも、世界有数の秘術探索者なんかに、なれるわけないじゃないか。
彼女みたいな英雄になんて、とても――。
いつの間にか、僕の歩みはだんだんと早くなり、
しまいには走るような速度になった。
僕は息を切らして路地を走る。
路地裏の猫が驚いて逃げていく。
ゴミ箱を蹴飛ばしたような気もする。
僕は目を伏せたまま、風景も見ずに走る。
気がつけば道のどん詰まり、日も差さぬ深い街の暗闇に至り、僕は石壁に頭を打ち付けていた。
「くそおおおおおおおおおおお!!!」
出したこともないような大声が、喉の奥から溢れ出る。
がん、がんと何度も額を打ち付ける。血が流れて電撃のような激痛が走るが、そうせずにはいられない。数秒でも何かを考えようとすれば、自分のちっぽけな絶望に、ありふれた不幸に塗りつぶされてしまう。
どれほどそうしていただろうか。
僕は内側からの衝動を絞りつくし、肺からドス黒い息をすべて吐き出し、
ようやく、少し落ち着いた。
すべてが終わって、僕は少し、驚いていた。
僕がこんなに絶望するなんて、これほどに慟哭するなんて想像もしていなかった。
誰でも一生に一度ぐらいは、こんな激情に捕らわれるものなのだろうか。
「ははっ……」
自嘲気味に笑う。
どれほどに絶望しても、目の前が暗闇に閉ざされても、
それでも当たり前のように日は沈み、昇り、平凡な日々は続いていく。
さあ、僕ももう、立たねばならない。
考えてみれば、これからの人生は少しはマシだろう。
これ以上に最悪な日など、もう訪れることはないだろうから。
「……う」
と、背後から声がした。
「っ!」
僕が振り向くと、そこは狭い路地のさらに窪んだ場所、日の傾いた時刻には道と認識することも難しい闇溜まり。そこに誰かが倒れている。
それは太った髭面の男で、すぐ側には背負い袋が転がっている。顔は泥だらけで白いヒゲには蜘蛛の巣が張り付き、頭はすっかり禿げ上がってそこに野菜くずが乗っていた。どういう経緯でそれが頭に乗ったのかは分からないが、きっと悲劇的で喜劇的な理由なのだろう。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
酔いつぶれただけの浮浪者という感じでもなかったので、僕は声をかける。
服の汚れはここ数日のものという感じではない、よく見れば靴もズボンもかなり厚手で頑丈な作りのものだ、胸元や腰には革のホルダーがいくつも下がっている。旅人だろうか?
「き、君……」
「はい?」
「手を……貸してくれないか」
「……」
僕は少し怖くもあったが、腰をかがめて、ゆっくりと右手を差し出す。
その太った人が僕の手を取り。
――と思った瞬間、その上体ががばっと跳ね上がって僕の顔面に迫り、
その肉厚な唇が僕の唇と密着し――。
「!?!?!??!??!!」
思考が溶融する。
がっちりと両手でコメカミを押さえられて逃げることができない。
むぢゅうううう、と世にも恐ろしい音がして僕は唇を丹念に吸われる。背中が総毛立って、足と手がめちゃくちゃに動くが歯がたたない。
ナンダコレハ
ボクガナニヲシタトイウンダ
カミモアクマモアルモノカ
トオクノヤマニカラスナク
「――ぷはあっ」
たっぷり十秒もの接吻の後、太った男は荒く息を吐いて僕から離れ、元気に立ち上がってガッツポーズをする。先程までの弱って倒れていた時の面影は微塵もない。
「よおおおおおおおしっ!! 男の唇を奪ってやったぞ!! たっぷりとしっかりとなああああああ!!!」
「うるさい黙れこの変態野郎おおおおおおおお!!!」
僕も口を拭いながら立ち上がる。目から滝のように涙が溢れてきて止まらない。くそうこんなデブでハゲのオヤジなんかに。いやそれ以前に男なんかに!!
「わははははは!! 少年よ!! キスとは素晴らしい発明だと思わんかね!! ただの粘膜の接触が愛だの情だのといった特別な意味を持つのだよ! これこそ人類の生み出した至高の発明!! 分かち合うべき魔法だと思わんかね!」
「やかましいいいいいいいい!!!」
もういいこのオッサン殺して僕も死のう。
手近な煉瓦を掴んで全力で投げ飛ばす、しかしオヤジの動きは早く、大通りの方へと駆け出してあっという間に遠ざかっていく。
「さらばだ少年! 悪く思うな!!」
その言葉が曲がり角に吸い込まれて消える。
僕はがくりと膝をつき、滂沱の涙を流す。
なんてことだ、人生最悪の日だ。
あんな通りすがりの変態オヤジに初めてのキスを奪われるなんて。
あの粘着質な唇とか、脂っこい体臭とかヒゲのさらふわ感とかがしっかりと脳に刻まれてしまった。何の弾みに思い出すか分からないから怖くて社会生活できない。僕の心は泥の中で腐った材木のようにボロボロだ。
くそっ、とにかく顔を洗いたい。歯も一時間ぐらい磨いてやる。
これ以上に最悪な日など、もう絶対にあり得な……。
「ハティ……」
目の前にヒラティアがいた。