知識の宮、あるいは竜の穴蔵にて
冷たい水で顔を洗うと、ようやく腫れがすこし引いてきた。
アドニスも治癒の術式をかけてくれたが、本当に申し訳程度だったのでまだ顔全体が痛い。
そして机の上には一冊の本がある。
「ええと、これが昨日、ヴィヴィアンが「深き書の海」で見つけた本だね?」
「はい」
それはノートのように薄い本だった。というよりそれはただ紙束をまとめただけのものだ。長方形の紙を束ね、紐で右端をかがっている。ごく原始的なノートのようにも見える。
赤い文字でタイトルらしき記述がある、これは大爛熟期に使われた記録用言語の一つだ。
「『ドラゴニア神話についての覚え書き』?」
「! 読めるのですか……」
アドニスが驚いた様子で僕を見る。
これは大爛熟期でもあまり使われなかったマイナーな言語だ。というより、これはいわゆる速記である。
名前は確かウィナト筆記。口述筆記のための言語で、細かな線のはらい方や、点を打つ位置などで複雑な意味を持たせている。しかしこれは左利きの人間には書きにくい、語形変化に対応できない、不規則動詞の見分けがつきにくい、そもそもそんなに速く書けないなどの理由であまり使われなかった。
古い資料にはこの文字でメモが残されていることがままあり、それを読むために覚えただけで、そんなに詳しいわけではないけど……。
「ハティ様、これを見てください」
と、ヴィヴィアンがその本を裏返す。
そこには紙一面を使って絵が描かれていた。まず積み木で表現するような簡略化された人間を描き、それを蛇のような図案が円を描いて取り巻いている。小さく翼も描かれているから、これは竜たろうか? 人間の周囲を竜が飛んでいる、そんなふうに見える。
「ええと、これが?」
「この図案は、私の村に、いえ、私ども竜の巫女に伝わる模様なのです」
と、ヴィヴィアンはエプロンをめくり、その下端を唇でくわえ、薪のようにみっしりと肉厚な腿を明らかにすると、例の紐のような黒い下着のすぐ下、太ももの付け根に腕をそっと差し入れて。ぎしりと音を鳴らして帯をずらし。
「はいストップ」
と、アドニスが止める。僕の顔面に杖がずぶずぶと埋まる。
「むもぐぐぐ」
「要するに、ヴィヴィアンの太ももの付け根にそのマークの刺青があるのです。私も確認しています」
そんな所に……。付け根って一体どの部分に。
う、そ、想像しちゃダメだ想像しちゃダメだ。
「不思議だねえ、なんでそのマークが『深き書の海』にあったのかな??」
ヒラティアが小首をかしげて言う。
「でもヴィヴィアン、勝手に持ってきちゃダメだと……」
「ああもう、話を前後させる変態ですね」
髪をかきあげつつアドニスが言う。前に見た時と同じ、赤とオレンジの無数の編み髪で構成された髪だ。本来の赤い髪に、それを引き立てるような橙の紐を編み込んでいるようだが、毎日編むだけで大変なんじゃないだろうか。僕の心配することじゃないけど。
「その本は私の名義で借りたのです。あの喫茶スペースで話をした後に、個人的に頼まれました。私もその本には多少の興味があります」
そうだったのか、一体いつの間に……。
「ハティ様、内容を読んではいただけませんか?」
膝立ちになり、机の端を握って上半身だけを出したヴィヴィアンが言う。顎が隠れるほどに胸がせり出している。僕は顔を背けつつ答える。
「わ、分かったよ」
僕は紙をめくる。それは草の汁や泥などが染みこんでボロボロだったが、まるで昨日汚れたように真新しい印象だった。ずっと深き書の海に沈んでいて、空気に触れてなかったために変化が少ないのだろう。通常の図書館より利用しにくくはあるが、確かに保存性という点で見れば優秀さは折り紙つきだ。
「ええと……いや、僕も勉強はしたけど、文章をちゃんと訳すとなると……」
少し考えてから提案する。
「資料を確認したいな、地下に行こう」
「地下ですか?」
「うん、地下の勉強部屋、僕の部屋はもともと宿屋の客間だから、荷物で一杯にするのに抵抗があって……資料とかノートは全部地下にあるんだ」
「もーハティったら、そんなこと気にしなくていいのに、マザラおばさんだって自由に使っていいって言ってくれてるのに」
ヒラティアがあきれたように呟き、そう言いながらも立ち上がって、厨房からカンテラを取ってくる。
「こっちこっち、廊下の突き当たりから降りられるの」
この「花と太陽」亭は、もともとは酒蔵であった。
この学都ワイアームができる前、周囲に広大な麦畑が広がっていた頃、この場所でエールや蒸留酒などを作っていたそうだ。やがて学都が整備されると、酒造を行っていた業者は郊外に引っ越し、この土地と地下空間を含めてマザラおばさんの父親が購入した。
そしてこの土地は食堂となり、宿屋となったのだが、地下はどちらの利用にも適さず、貯蔵庫としても広すぎるので、僕たちが来るまでずっと遊ばせていたらしい。
斜めにかかったハシゴを階段のように降りる。僅かな湿気とカビの匂い。そして本の匂い。それは紙の匂いとインクの混ざった立体的な匂い。わからないという人もいるけれど、僕にはなじみの深い匂いだ。
そこは通路のようになっていた。左右にはオーク樽が貯蔵されていた大ぶりな棚。そこ本が平置きで積み上げられ、あやういバランスを保って左右に並んでいる。棚の上下の間隔が広いのでこういう置き方になる。頭の上には棚が吊られ、そこにも本。
そして隘路を進んだ奥。小ぶりな木造りの机があり。それは足元も、机の上面のほとんども本で埋まっている。真上から300冊ほど本が振って、その場に積もったような眺めだ。
後ろにいたヴィヴィアンが声を漏らす。
「すごい場所ですね……何冊ぐらいあるのですか?」
「ええと……5000冊ぐらいかな。古書店で捨てる本とかを貰ってきたり、一山いくらで買った本が多いけど」
この地下空間の広さを考えても、さすがに手狭になりつつあったところだ。この空間に籠ることはもう無いと思うけど。本はそのうち処分しなければならない。
アドニスは手近の本を手に取っている。
「確かに、本がやたら古いですね……「集約魔術階梯」「オルレオン・ゴーン講義集」「炎の研究」学術書ばかりですが」
「でもあんまりホコリっぽくないね。ハティってば、試験の後も毎日ここに入ってたからね」
「いや、その……秘術探索者になったときのための勉強を」
「本当に凄い……ここで勉強なされてたのですね」
ヴィヴィアンが言い、僕の脇にずいと身を乗り出す。その水が詰まったような柔らかい体にどぎまぎしつつ、僕は目的の本を探す。
「ええと、これだ、ウィナト筆記に関するノート」
「ノートですか?」
「うん、大爛熟期に使われてた速記文だけど、まだ研究が進んでないんだ。もとは既存の言語だから、実例をたくさん集めて整理すれば解読できるんだ」
僕はノートを開く。
一面真っ黒だ、いろいろな資料で見つけたウィナト筆記の写し、それについての考察、既存の言語との比較、ほとんど僕にしか読めない文字だが、この資料で間違いない。それにしても、改めて見ると汚いノートだ、詰めて描きすぎる癖を改めないといけない。
「ハティ様の……ノート」
ヴィヴィアンが、僕の机から別のノートを手に取る。
開けば、僕には感じられる濃厚なインクの匂い。
やはり汚い。左上から右下までびっしりと文字に覆われているだけだ。人に見られるのは少し恥ずかしい。
ぽたり
と、水滴の落ちる音がする。
「? うわあっ、ヴィヴィアン、どうしたの!?」
ヒラティアが頓狂な声を上げる。僕も驚いた。ヴィヴィアンが両目から涙を流して震えていたからだ。
「た、大変だ、何かのアレルギーかな。それとも生理的に何か気持ち悪かった? ご、ごめん、僕の文字は読みづらくて」
「いいえ、いいえ……」
ヴィヴィアンはノートを開いたまま、顔に押し付けるような仕草をする。すうと息を吸い込む音がして、短い嗚咽。
「何でもありません、何でも……」
「???」
本当にどうしたんだろう。もしかして地下の暗がりに当てられて情緒不安定にでもなったんじゃ。
しかしその嗚咽はさほど長くはなかった。しばらくすると本を顔から離し。目元の涙を拭って笑ってみせる。
「すいません、目にホコリが入ってしまいました。お気になさらないで下さい」
「そ、そう?」
「それよりハティ様、本の解読をお願いします」
「ああ、うん」
僕はノートに記された内容を元に、文章を平文に戻していく。ページ数はせいぜい20枚の薄い本だけに、作業に時間はかからない。
「これって、誰かの旅行記みたい。南方を旅している間に、何を食べたかとか、どんなものに出会ったかとか」
時代としてはかなり昔としか分からない。大爛熟期だろうか。その当時に南方を旅していた探検家が、ある村に行き当たった時の記録のようだ。簡単な風景や人物の描写があり、記述はかなり主観的だ。例えば食べたものについては。
『○月○日、朝食はふかした芋と、肉と野菜の料理。美味』
と記してある。これではどんな料理かまったくわからない。旅行記にも学術的な記録にもならないし、日記としても不足だ、後から読み返してもどんな料理かわからないじゃないか。メモ魔でもある僕としては少し不満。
まあ、それについては記録者の勝手だとして……。問題となる記述があった。その探検家が村の老人から聞いたという話だ。
「これは……ある竜が地に染み込み、この世界の鉄のすべてとなった、ある竜は人に言葉を与えた……」
「ドラゴニア神話ですね、私の村に伝わっている」
ヴィヴィアンが目を輝かせて言う。僕もヴィヴィアンからレクチャーを受けているが、神話の内容はこのノートと大差がない。最後に村の老人から聞いたという図案のメモがある、それは竜の巫女が体に刻む図案だそうだ。
僕は少し考えてから口を開く。
「これって、本来はもっと厚い本だった気がする。誰かがこの20数ページ分だけを切り取って、紐で綴じて持ち歩いてたんだ。『ドラゴニア神話についての覚え書き』というのは書題じゃなくて、この部分の章題なんだ」
その発言にはヒラティアが反応する。狭い谷間のような空間で、ヒラティアとヴィヴィアンが僕の肩越しに本を覗き込んでいる。
「ええっ、蔵書を切り取ったの? ダメだよそんなのー」
「いや、あそこにたくさんの使い魔がいたよね、あれは本を修復することもできるんだ。ページが切り取られた本があっても、何日かするうちに使い魔がそれを見つけて修復してくれるんだ」
あの場所では、大爛熟期に生み出された使い魔が今でも働いている。あの湖に投げ込まれた本は情報をすべて記録され、使い魔が特定のキーワードを含む本を探し出したり、破損した本を修復したりするらしい。
近年になって実験も行われた。水に沈んでいた本の一冊を抜き出し、黒インクに浸して全体を黒に染め、バラバラに裁断して、薬剤で完全に溶かしてから水に戻した(そこまでするか、とは思うけど)。
そして一週間後、使い魔にその本のタイトルを告げると、使い魔はすぐにその本を持ってきたそうだ。完全に復元された状態で。
「その話、ちょっと怖いよハティ……」
「僕もそう思う……」
ヒラティアは苦いものを食べたような顔になる。
ともかく、一部を切り離して持ち歩いたとしても、湖に戻せばやがてそれは元の本に接合されるというわけだ。
…………ん?
「ってことは、この本、裁断されているのにまだ修復されていない……何故?」
そんなに瞬時に治るわけではないから、誰かが投げ込んでから数日も経っていないならありえることだけど。
そういえばこの本、ヴィヴィアンが目視で見つけたということは水面下、山脈のように積み重なった本の山の一番上にあったということだ。つまり、この本は、つい数日の間に返却されたばかりということに……。
「まあ、そういうこともある、のかな……」
僕は薄い本の最後の方を見る。それは、これを記した古代の探検家のコメントである。ドラゴニア神話について彼の考えを記録したもののようだ。
「ええと……『老人の語ることは甚だ疑わしきものだが、異様な力で粉砕された魔物の死体があったことは事実である。この地にあるという何らかの超常的な術、それを否定する根拠は見いだせなかった』だって」
「竜幻装ですね。やはり古代にも、私どもの術を伝える術者が存在したということですね」
それはまあ、現代にいるなら古代にもいるだろう。
僕はそのぐらいにしか思わなかったが、ヴィヴィアンにはいたく感じ入るところがあったらしい。自分の胸を抱きしめるような姿勢となって、己の内に沈み込むような感慨深い様子を見せる。つまるところ、ヴィヴィアンとしてはそれで十分な成果が得られたということだ。
「……」
しかし。
何だろう。この違和感は。
これは、古代にヴィヴィアンの村を訪ねた探検家の記録、それは分かる。
だが、この探検家はなぜ術のことを、老人の語る神話のことを疑わしいと記しているのか?
異様な力で粉砕された魔物の死体がなぜ不思議なのか? そして、なぜ超常的な術の存在を否定しようとしているのか?
そして、この本をつい最近返却した人物は誰なのか。
わからない。何も想像がつかない。こんな地下に引きこもっていた僕には、何かが起きていたとしてもそれを想像する手がかりがない。
それも仕方がない。僕は世の中の流れと無縁に生きていたのだから。
僕は穴蔵の中で、本を読みふけるだけの土竜だったのだから……。
この話からarcadia版と大きく異なってきます。
arcadia版を読んでくださっている方へ、以前の設定は一度完全にリセットしたものと思って下さい。




