流浪にて盾を三つ持つということ
第四章
※
あれは、いつの事だったのか。
遠い日々の思い出、あるいは過去から迫り来る記憶、心のどこかに淀み沈む原風景。
南方へと向かう風が丘陵を駆け上り、駆け下り、広大な草原に波のような風紋を刻む。
雲が遥かな高みを飛び越えて、山の向こう側に飲み込まれていく。
そして草原の中に少女が佇む。その視線は山の向こう、風の向かう果てに据えられ、僕からは顔が見えない。
ヒラティア=ロンシエラという少女は、いつも遠くを見つめていた。
村一番のいたずらっ子で、大人でも行けないような場所を探検し、一週間ほど姿が見えないかと思えば、大きなイノシシを引きずって帰ってくるような。
端的に言えばとんでもない子供だった。
同年代の子が僕だけだったこともあり、僕はよくヒラティアに手を引かれて探検に出かけた。
僕たちは冒険の中でさまざまなものを見た。水面を走る白いシカとか、宝石を食べる鳥とか、下から上に落ちる滝とか。
僕たちのいた村は人類の支配圏の南限、これ以上踏み込めば大爛熟期の魔法と怪物がひそむ、南方と呼ばれる土地だった。だから、そんな奇妙なものが息づいていたのだろう。
「ねえハティ、いつか南方に行こうね」
「南方に……?」
「そうだよ、この村よりももっと綺麗で、もっと不思議で、もっとすごーーいものがいっぱいあるんだって」
僕たちは暗い洞窟の中に並んで座り、そんなことを話し合った。洞窟の最深部にあったのは巨大なホール状の空間。そこには真珠色に輝く蝶がいて、それは数十匹もが集まり、翅の端が隣の蝶と溶け合って、光で編まれたような幾何学模様となっている。編隊のようでもあり、ひとつの大きな個体でもあるような。まるで童話にある魔法の絨毯のような眺めだった。
お城が一つ入ってしまいそうな巨大なホールを、いくつもの輝く絨毯が飛んでいた。
「不思議なものが見たいの?」
「そうだよ、だって不思議なんだもん。私はもっとたくさんのものが見たいの。どこまでも遠くまで行きたいの。きっと私は、そういうふうに生まれついてるんだと思うの」
ヒラティアという人物を一言で表現するなら、それは無限の好奇心だ。
優美を、奇妙を、価値を、そして不思議を追い求める心。
それがヒラティアの無限の力の根源だった。僕はそんなヒラティアを応援したかった。彼女の近くにいられることを嬉しく思った。
彼女の望みが僕の望みと同じでありたいと思った。
「うん……応援するよ」
「ほんとに? ありがとうハティ。絶対に約束だよ」
「約束するよ。僕はいつか、立派な魔法使いになって、ヒラティアと一緒に南方に行くよ」
そう、僕は。彼女の力になりたかった。
ただ純粋に、そう願ってただけなのに……。
※
僕が手足を縛られ、砂漠の中に倒れている。
またか、と僕は思う。
ん?
いや、違う。
僕は、ではなく僕が、だ。
視線の先に倒れているのは「僕」自身だ。
手足を縛られて、砂地の上に転がされている。
僕は砂色の体毛に覆われた砂漠狼だ。
砂が入らぬよう目を細め、低く伏せるような体勢のままにじりじりと進む。
僕は目の前の「僕」を食べる気のようだ。
やせててあまり美味しそうではないけど、僕も空腹だから我慢しよう。
「僕」は手足を縛られて、砂漠の中で仰向けになっている。
どうやら寝ているようだ、縛られているし抵抗の心配はないだろう。
僕は「僕」の顔に鼻先を近づけ、何度か匂いをかぐ。なぜか香油のようなすごく良い匂いがする。ううん、食欲をそそる。
「僕」は薄い藤色のパジャマのようなものを着ていた。僕は肉球でそれを抑えつつ、爪を立てて引き剥がすように脱がす。しかし狼の手ではボタンを外せない、前身ごろのスキマから色素の薄い皮膚が見えて、僕の狼の本能がむくむくと肥大する。仕方ない、布ごと噛みちぎるしかないか。
噛み付くならどこがいいだろうか。やはり腹だろうか。
柔らかい腹筋を食い破って内蔵を味わうのがいいか。
しかし、手足を縛られてるだけだと暴れだす可能性もある。
首を掻き切ってまず絶命させるべきか、しかし、それだと砂地に貴重な血が流れだしてしまう。
よし、まず心臓の部分を食いちぎって血流を止めるべきだ。
なんだか狼の割には凄く理屈っぽい思考だが、僕は巨大な顎を思い切り広げ、横からその胸部にかじりついた。やわらかな肉と布の感触が牙に食い込む。しかし、「僕」はなんでシルク製のパジャマなんか着ているんだろう? まあ今はそれどころではない。肋骨を噛み砕くために力を込めなければ。しかし僕は非力なので顎の力も弱く。
「ううん……」
僕はその薄い胸にかぶりつきながら、だらしなく唾液を流してその布地を噛みちぎろうと。
「あっ、く、くあ……ん」
布越しに、舌先に突起のようなものを感じて、あれ?
それは女性の体だった。絹のパジャマのきめ細かな肌触り、金色が混ざっているかのような鮮やかな白さ。少年のような穏やかな隆起の胸と、小さな突点。
ってこれ、アドニス!?!
「な、何を……?」
彼女は僕のベッドの上で、むくりと体を起こしつつ目をこする。薄い藤色のパジャマを着ていて、貝殻製の小さなボタンはいくつか無くなって胸がはだけている。
「……………………あ、あの……」
僕がゆっくりと絶望的な覚醒を行い。アドニスは自分の胸元に手を当て、パジャマが僕の唾液で濡れていることに気づいて、やや胡乱げな視線で僕を見つめ。
「…………」
そして体を回転させてベッドから足を下ろし、立ち上がってドアのほうに行く。
「あの、その、ごめんなさい。こ、これはちょっと、寝ぼけてて」
どこに行くのかと思ったアドニスは、しかしドアの前で立ち止まり、
近くにあった大きめの机をずるずると動かしてドアの前に設置。
そして部屋の隅に立てかけてあった、先端に黄金の獅子が乗った黒い杖をがしっと手に取る。
「あ、あの、その、大丈夫だから、全然えっちな気持ちとかならなかったし夢の中で男の子かと思ったぐらいで」
「死いいいいいいねええええええええええええええええええっ!!!!!!」
※
「ど、どうしたのハティ、顔が育ちすぎたカボチャみたいになってるよ」
「な、なんでもないデス」
ヒラティアのオリジナリティーあふれる例えに答えつつ、僕はサラダをもそもそ食べていた。
「ヒラティアさん、明日から私の順番の時は荒縄を貸してください。ありったけ。手足を縛らねば安心できません」
アドニスはコーヒーを飲みながら不機嫌そうにそう言う。
「ハティさま大丈夫ですか? あとで冷たいお水で顔を洗って差し上げますね」
ヴィヴィアンはというと白いエプロンを着て、モップで食堂の床を丁寧に掃除していた。
この宿に下宿することになって、掃除やら食堂の仕込みやらを手伝うようになったらしい。しかしいつものような帯状の民族衣装を巻きつけていると、太ももから下は完全に素足だけとなる、肩から膝までのエプロンを着ると民族衣装が全て隠れるため、何かすごく危うい眺めになる。
「あ、あの、質問」
うまくしゃべれない口で、僕は何とかそれを言う。
「なあに? ハティ」
「あの、なんでアドニスがこの宿にいるの? それに、なんで僕のベッドに」
「えっとね、昨日の真夜中にアドニスが訪ねてきてね」
「私が言いましょう」
と、ヒラティアが言いかけるのを手で制し、続きを語るのはアドニスだった。がたんとカップを机に置く。
「私の実家は30ダムミーキ(約29.9キロ)ほど離れた都市国家にありまして、入学したからにはワイアームの壁内に居住先を見つける必要があったのです。アイレウス家当主代行ではありますが、実家にいなければいけないというわけでもありませんので」
「はあ」
「そこで長期の居住先を探していたのです」
……。
……。
「え、終わり?」
「なにかご不満でも?」
じろりと僕に視線を投げる、うう、まだ殺気が抜けてない。
「まあ、あえて言うなら貴方の竜幻装なる魔法に興味が湧いたからです。それに、聞けばあなたは魔物に襲われるようになり、身を守るために女性をそばに置いておかねばならないというではありませんか」
「う、うん、そうだけど……」
「不潔ですわ。ヴィヴィアンが従順だからといって、今までどんな変態行為を強いてきたのか容易に想像できます。あなたのような変態の星に生まれた生まれついての変態三昧の方には誰か見張り役が必要なのです。それに、あなたには私との約定を果たしてもらわねばなりませんから」
う、それを忘れてた……。
まだ僕にキスを求める気なんだろうか、しかも、これからは毎日?
うう、頭が痛い。
……そういえば、朝は割と危ないところだった。もし僕が寝ぼけたままにアドニスの服を脱がして胸にキスしていたら、竜幻装が発動していたところだ。しかし寝ぼけていたとはいえ何てことしてるんだ僕は。
「そういうわけでして、これからはアドニス様とヒラティア様、それに私が交代で夜のお勤めをいたしますね」
「ヴィヴィアン、妙な言い方をするのは止めてください」
アドニスがやや強めに訂正する。
ヴィヴィアンは、はい、すみませんと素直に謝り、また掃除に戻る。なんだか声が少し残念そうな、寂しそうな響きを帯びていた、と感じたのは気のせいだろうか?
「ん、あれ? ヒラティアも?」
「うん、そうだよ」
ヒラティアは明るく笑って言う。
ちなみに彼女の朝食はローストビーフを挟んだサンドイッチ40人前と黒ビール2リットルだ。あの細い体のどこにそんなに入るんだろう。まあ先日のヴィヴィアンほどではないけど……。
「だって心配なんだもん、ハティのこと。魔物が襲ってきたらちゃんと守ってあげるからね」
「う、うん……」
何だろう、そうやってにこやかに微笑みかけられると、心の中でどこかがずきりと痛む。やはり女の子に守ってもらうというのは男のプライドが痛むのだろうか。
……あらためて秘術探索者を目指すことになったわけだし、僕も何か、自分の身を守るための手段を見つけなくては……。
「今まで襲ってきた魔物の詳細は伺いました。我々でも対処できるレベルのモンスターばかりだったようですが、念のためお聞きします。その秘術、ドラゴンドレスというものは、私達に対しても使える、と考えていいのですね」
「はい、使えると思われます」とヴィヴィアン。
「どうしても必要なときには私にも使っていただいて構いません……ただし、種類は適切なものを選んで頂きますが」
アドニスの鋭い視線が僕を射る、う、やっぱり「深き書の海」でのことは忘れてなかったか…。
「発動条件は秘密とのことでしたが、それは変わりないのですか」
「う、うん、えと……い、一応秘密にしたいな、と……」
アドニスの鋭い眼光を僕は数秒も直視できない、伏し目がちにそう答える。
「……結構です。術者が己の術について秘密にしたいと思うこともあるでしょう。昨日はその……ふ、不意のことだったのであらぬ反応を示してしまいましたが、落ち着いて気を張っていれば、平気です」
「?」
なんだか遠回しな言い方だ、確かに昨日のアドニスは竜の尾の発動にかなり混乱していたけど。
「あ、あの手の術は始めてだったので、あれは決して、その、私の肉体の脆弱さの証左というわけでは」
「? え、ええと、あの術で体がどうかなったの?」
「……緩和です」
「……ほえ? かんわ? 緩和? よく分かんないよアドニス……」
ヒラティアも要領を得ない話に困ったような顔をする。
アドニスは、何かひどく言いにくそうなことを言うときのように、あらぬ方を向きつつ小声で話す。
「行使者である貴方は分かっていないのですね……肉体を変化させる術にはままあることです。急激な肉体変化が苦痛とならないように、局所的に、あるいは全身の感覚を麻痺させる。あるいは痛みを大きく上回る多幸感を与えたり、痛覚を変換して快感に変えたりする術式です」
「ああ、それは分かるよ。私の錬武秘儀も使ってる間はなんだか気持ちよくなるの」
「力の制動を外すためと、戦闘による肉体の負荷を無視するためです。錬武秘儀にはそのような術式が組み込まれています」
まるで狂戦士だが、肉体強化の魔法には大なり小なり組み込まれていることだ。そういえば僕も知識としては知っていた。変化の魔法はほとんどは痛覚遮断だが、稀に快感があるものもあるとか。
……ん?
「あれ、でもヴィヴィアンはそんな反応したことないけど……」
目の前ではヒラティアとアドニスが何やら術について話している、だから僕の呟きを聞いたのは背後のヴィヴィアンだけだった。
「あら、ハティ様、そんなことはありませんよ」
彼女もまた小声になって、僕の後ろから、椅子に隠れるように小さく構えてこっそりと言う。
「私、も」
その艶のある唇から、蝶の羽ばたきのような幽かな声が届く。
はにかむような、ひそやかな、秘密めいた声が。
「い、つ、も、気持ちいいのです……」
「…………」
な、なんと答えていいか分からない。
ただ僕は、顔を真っ赤にして俯くだけだった――。




