貪食の竜、この世すべてを捧げよと言い
「あ、あなた方、この状況では私も魔法が撃てません。ひとまず退きましょう」
巨大な尻尾を振り乱してアドニスが叫ぶ。この滝の真下にあるような豪雨の中では普通には会話ができない。アドニスも顔を僕らの方にぐっと近づけ、ほとんど三人で顔をつきつけ合うようになって言葉を交わす。
「ヴィ、ヴィヴィアンが耳が聞こえなくなってるみたいなんだ」
「仕方ありません、あなたが腕を引いてあげてください!」
「は、ハティ様、ここに……」
と、ヴィヴィアンが僕の顔に両腕を回し、膝立ちになって、僕の頭を上から抱きしめるような体勢になる。
「えっ、ちょっとヴィヴィアン!?」
「お、掟なのです。私からハティ様の顔を押し付けるような事をしてはいけないのです。どうか、ハティ様の意志でされてください、私の言葉が聞こえていますか――?」
「あ、あなた方、いったい何を……うわっ」
足を滑らせたのか、アドニスが水膜の奥に消える。
僕の目の前にヴィヴィアンの腹部があった。その小指で砂地を穿ったような小振りな臍。
むらの全くない均一な浅黒い肌、シフォンケーキのようにふくよかな柔らかさを秘めたお腹を目の前にして、僕は豪雨に撃たれながらも頬が紅潮するのを感じる。呼吸に合わせて膨らみ、またはすぼむその腹部のゆるやかな動きが眼の奥に焼き付く。頭に血が上って視界がぶれている。
僕はわけが分からず、半ば目を回したような混乱のまま、その臍のすぐ脇に口づけをした。僕の唇がヴィヴィアンの腹部に沈み込む。
「ん……」
彼女はくすぐったいのか、それとも腹部を押されて息が漏れたためか短く声を上げて、そして僕の脳裏に閃光が炸裂する。
「竜の暴食 幻装!!」
瞬間、ヴィヴィアンの体内に熱い鼓動が生まれる。
そして体の中が燃えているかのような激しい熱、視界が白く閉ざされる、それはヴィヴィアンの体中から立ち上っている水蒸気だ。灼熱に燃えたぎる鉄塊のような熱量、ヴィヴィアンの内部に強烈なエネルギーの奔流を感じる。
「う……あ……」
ヴィヴィアンの体内が脈動している。その浅黒い肌の内側に、何か途轍もない怪物が生まれたかのような威圧感。そして彼女が上を向いて口を開き、その口腔を世界に向けた瞬間。
風景が、飲み込まれていく。
天から降り注ぐ雨も、周囲を満たす煙霧も、そして広大に広がる湖も。
そのすべての水が、水蒸気が、竜巻となってヴィヴィアンの口に吸い込まれていく。
「――うわっ!」
全身がバラバラになりそうな暴風、僕の体ではなく、僕の体表のすべての水分が体から引き剥がされるような感覚。水だけが選択的に吸い込まれているのか。
僕は必死にヴィヴィアンの胴にしがみつく。服が大きくはためき、細かな水滴が顔面を打ち、水分を過剰に含んだ風が僕を行き過ぎて飲み込まれていく。それは下から上に落ちる滝に巻き込まれたかのような。この世の全てがヴィヴィアンに吸い込まれていくかのような感覚。
凄まじい暴風は数十秒も続き、
やがて、それが過ぎ去った後、
最初に、嘘のように開けた青空が見えた。
黒雲も、煙雨も、湖面をうっすらと覆っていた霧も消えている。空気まで妙に乾いている。
そして、「深き書の海」と呼ばれる湖すら完全に消えていた。
「み、湖が……」
ない。
そこには何万、何十万と積み重ねられた書の谷が広がるだけで、改めて、今の僕たちは書の積層の上に立っていたのだと分かる。
山のように積み重ねた本が地形となり、その谷間に水が流れ込み、本の上に苔やら草やら、あるいは木やらも生えて、そして湖沼が形成されたのだ。
それが完全に枯れ果てている。
本の表面には水の一滴も残っていない。霧が晴れたために分かるが、湖は深さ200メーキ、差し渡しはざっと1ダムミーキ(0.99キロメートル)。これは城塞が1ダースは入るほど巨大なものだ。この水量を飲んだというのか? ヴィヴィアンが……?
「い、今のは……?」
アドニスが目を玉のように見開き、腰を抜かしてへたり込んだままに呟く。座っている、ということで気づいたが、もう尻尾は消えていた。
「あれっ、ハティ? こんな所で何してるの?」
背後から声をかけられる。
振り返れば白い鎧に黒い大剣、ヒラティア・ロンシエラが剣を担いで立っていた。
「あ、ひ、ヒラティア、どうしてこんなとこに?」
「だって急に黒雲が見えたんだもん。何かあったのかなって思って駆けつけたんだよ。うわ凄い、湖がなくなってるよ」
「あ、ああこれは、後で説明するけど……」
ヒラティアの右腕は白い小手で覆われており、それは白地に黄金の花模様が刻まれた見事なものだ。その上に、赤いリボンのようなものが巻かれている。
「とにかく調査しなきゃいけないね、私、ワイアーム風紀騎士団長だもんね」
ワイアーム風紀騎士団。
それは通常の学校で言うような校則や規律だけを司る役職ではなく、魔法や使い魔の暴走から生徒を守ったり、学都ワイアームそのものを外部の脅威から守ることを任務とする委員会だ。委員会とは言っても学園とは契約関係にあり、その活動には報酬も発生するという。いわば学生を徴用した傭兵組織のようなものと言われる。
もちろん、そのメンバーには学園でも指折りの実力者だけが選ばれている。
「で、これってもしかしてハティの魔法で……って、あれ、ヴィヴィもいるの? それに、そこにいるのって魔術科に今年主席で入ったって噂のアド……ニ……」
ヒラティアは彼女から見て奥の方にいたアドニスに気づき、その名を呼ぼうとして。
なぜか急に硬直し、耳まで真っ赤に染めて。
「ハティのバカーーーーッ!!!!!」
「ばぼっ!?」
途轍もない速さで平手が飛んだ。僕は回転しながら水平方向に5メートルぐらい吹っ飛ぶ。
干上がった湖が見えて、空が見えて、地面が見えて、その視界の切り替わりが高速で7・8回行われた後、土と泥をえぐり返しながら地面に突っ込む。
「…………ぎ、急びなび、を……」
「こんなところで何やってるのかと思ったら、ハレンチすぎるよっ!! ハティのエロ大魔神!! 恥ずかしっ子!!!」
半死半生の僕に浴びせられる、やや幼い罵倒語。
僕は絞った雑巾みたいにねじれた状態で、わけも分からずとにかく呼吸のために上を向く。顔のすべての穴に泥が大量に入っている。
「ば、バレンヂなごどなんで、じでないよ」
「じゃあアドニスちゃんのあの格好は何なのっ!?」
え、格好?
アドニスは落とした杖を拾い上げたところだったが、言われて気づいたようで、一瞬きょとんと視線を彷徨わせた後、ゆっくりと顔を下に向ける。
まず髪も体もだいぶ泥だらけになっている。それにシャツは確か自分で脱いでたはずだ。なめし革で作られた胸当ては何度も転んだり水弾の余波を受けたせいで金具がちぎれたのか、どこかへ落としたようだ。
それに下の方は、まず乗馬靴と乗馬ズボンは確か自分で脱いでいた。それに「竜の尾」を急に生やしたために、水色のパンツが確か散り散りに破れていたはずで。
ということは彼女は今ずぶ濡れで何も身に着けてないという状態で。
「っっきゃああああああああっ!?」
叫ぶアドニス、だがさすがは貴族階級の勝気さというべきか、
その両手は自分の体を隠すことより、手にした黒い杖を僕に全力投擲することに使われた。
黄金の獅子が物凄い速さで僕の鼻先に突っ込み、獅子が完全に顔面に埋まって。
ヒラティアの一撃で半死半生だった僕は、さらにきわどく死にかけた。
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