世界終焉に至る千分の一の雨
「え……?」
アドニスが体に違和感を覚えるような呟きをした、その一瞬後。
ずおん、と、彼女のお尻が急激に膨れ上がり、角のようなものが下着を押す。まるで下着の内側から乗馬槍で貫かんとするような瞬間的な突出。
「なっ……! がっ……」
変化はしかしアドニス本人のほうが大きかった。
アドニスの全身が弓なりに反る。背後からはよく見えないが口が大きく開かれ、声にならぬ声を上空に放つ、腰ががくがくと震えて、一度全身がビクリと痙攣したかと思うと、地面に這いつくばって尻を大きく突き上げる体勢になる。
彼女のお尻を守っていた薄布は一瞬で引き伸ばされ、あっさりと引き裂かれてバラバラに散る。
「うっ、ぐ、ちょ、ちょっと、な、何」
ずるう、と何か粘性のものを引きずるような音を立てて、それが一瞬で伸長する。
「んぐ、ん、んんんんんうぅっ!!!?」
喉を絞るような声を出し、直後、己の声を恐れるかのように口を押さえる。己の身に何が起こっているのか分からず、しかし腰を突き上げる体勢は本能の動きか、それを崩せないまま尻からそれが突き出すのに任せる。それは人間の表皮を剥いだようなピンク色から、一瞬で赤茶色に、そして濃い緑へと変化する。
それは巨大な尾。
全体は黒みがかった緑色、まるでナマズのように艶めいていて、粘液状のものに覆われているように見える。それが臀部から伸びてL字型にカーブしつつまっすぐ天を突き、その先端は2メーキ近くに達している。根本は彼女の臀部と完全に融合し、先端はふるふると左右に揺れていた。アドニスが全身をびくびくと震わせ、両手で口元を抑えて身悶えている。そんなに苦痛があるのだろうか。
見れば、尾の全体は薄いひだ状の組織に覆われており、それがやはり爬虫類の尾に近いものだと感じさせる。やはりこれも竜幻想の一つか。
「なっ……何ですかっ!? 何ですかこれええええええっ!! 尻尾って何なんですかああああああっ!!」
アドニスは混乱の極地だった。振り返って自分の尾を見ようとするが、体ごと振り返ってしまうので尻尾も動いてしまうという珍妙な動きを数回繰り返した後、涙目になって僕を指さす。
「こ、これはどういうことですっ!?」
「じ、術だよ。でも僕もまだよく知らなくて、そ、それより、今はとにかくあの魔物を」
僕が背後を見て言う。アドニスは目に涙をいっぱいに浮かべて膨れ面をする。
「あ、後でちゃんと説明して頂きますからねっ! し、しかしこの尻尾……何か、全体に触感があるのでむず痒いというか……くすぐったいというか……」
その尾が、ピンと天を指し示している。
あれ、そういえばこれは何の効果があるんだろう? ヴィヴィアンからはまだ教わっていなかったけど……。
その答えはすぐに分かった。天がにわかにかき曇り、周囲の明るさが目に見えて落ちている。
そして頬を水滴が撃つ。一瞬の後、それは凄まじい豪雨となって風景を埋め尽くす。
「何ですっ!? 急に雨……が、ふぶわっ」
アドニスの張りのある声ですらかき消すほどの、タライの底を抜いたような豪雨。全身を撃つ雨粒が圧力に近い。アドニスがまるで大きな動物に乗られたかのように前のめりに転ぶ。それほどの圧力がかかっている。しかし尻尾だけは意志と関係ないのか、ピンと天を突いたまま微動だにしない。
そうか、天候を操る、これが竜の尾の力……。
し、しかし、いくらなんでもこの雨量は、
雨の音しか聞こえない、水が体を打つ感覚しかしない。
僕も全身を雨に打たれて、前のめりに地に伏せるような体勢になる。二十人がかりでバケツの水をかけられるような、滝行のような雨だ。
口を開くたびに顔を伝う雨が口に飛び込んで、まともに喋れない。それに全身を打ち据えるような雨粒のせいでほとんど思考もまとまらない。
「も、もがっ、せ、精神の集中、が……」
アドニスの呪文が中断する。杖の先端で生まれかけていた魔法の光も四散してしまう。ばしゃりという音がかすかに聞こえた。おそらく杖を落としてしまったのだ。
ゼラチナムフィッシュの姿が霧襖の向こうにぼやけている。湖沼の表面を打ちつける雨粒が微小な霧となって周囲に立ち込め、もはや伸ばした腕の先もわからないほどの煙雨の眺めとなる。
すぐ近くの地面が爆発する。
「うわっ!!」
おそらくゼラチナムフィッシュも僕たちを見失ったのだ。この異常な雨、人生で経験した最大のものよりさらに三倍は密度の濃い雨が打ち付け、打ち据え、土も木々も混沌の眺めの中に沈めていく。
爆発音のような、地響きのような音が連続する。
おそらくはゼラチナムフィッシュがめちゃくちゃに水弾を撃っている音だ。この雨では僕たちを見つけられないのだろう。僕は目の前のアドニスの体を掴もうとする。
「アド……ニス、ここは、とも、かく、逃げ……」
頭から流れ落ちた水がだくだくと顔の表面を伝い、あらゆる穴から大量の水が入ってきそうになるため、喋るだけでもむせ返りそうになる。昔は顔に水をかけ続けるだけという拷問があったと聞くけど、なるほどこれは苦しい。
アドニスの姿もよく見えない。たしかこのあたり……に。
のみゅ。
あ、何か柔らかい物を掴んだ感触が、手のひらいっぱいに、これはアドニスのお尻をつか
んだと思った瞬間、僕の腹部に後ろ蹴りが飛んだ。
「ほぐっ!?」
「ど、どこを触っているのですか! この火事場変態!」
しかしアドニスも周囲の状況がよく分からず、動きようがないらしい。
連続的な地鳴りが体に伝わってくる。
「ま、前が見えません。ゼラチナムフィッシュはどこです!?」
「ぼ、僕にも分からない。でも水弾は打ち続けてるみたい、このままだと、そのうち直撃……」
断続的な轟音が届いている。
体のすぐ脇に着弾した。地面をめくり上げるような泥の塊が僕たちにかぶさる。
「うわっ!?」
それは圧倒的な雨量によって瞬時に流されていく。僕の手が地面を掴むが、一度撃ちぬかれた部分はすでに泥濘になっている。
「こ、このあたりを狙っています。では次は直撃……」
霧の奥、空気を引き裂く気配がする。
「危ない!」
僕は手探りでアドニスを押しのけて前に出る。極限の状況の中で時間の感覚が引き伸ばされる。思った通り真正面から水弾が来て、それが突き出した僕の腕と衝突する。
「――があっ!」
「!? 何を!」
叫んだアドニスは、しかし、僕の手の先で水弾が傘のように円形に弾けるのを見て驚愕する。
僕の手の先に本があった、泥状になった地面から抜き出した一冊の辞書、それが水弾を弾いたのだ。
「そ、それは、そんなもので水弾を!?」
「こ、この湖にある本は……絶対に水に濡れない。そ、それは撥水力とか、材質ではなく、魔法で水を弾いているんだ。し、しかも水深200メーキ以上の水圧に耐えるほどだ。き、きっと、できると思った」
だが、衝撃を完全に無くすことはできなかった。
僕の腕がだらんと下がる。肩の肉が変な形状に盛り上がっている。肩が外れるのは子供の頃、ヒラティアと無茶な遊びをして以来だ。うう、やはり痛い。気を失いそうなほどだ。
「む、無茶なことを……」
「さ、さあ、まだ僕らを見つけたわけじゃないはずだ。またここを狙うまでは時間があるはず。何とかここから逃げ」
「ハティさま!」
と、僕の足をつかむ影があった。
ヴィヴィアンだ。その薄紫の髪が顔に張り付き、民族衣装は大量の水を吸って全体的にずり落ちている。しかも体中が泥だらけだ。
「ヴィヴィアン!? この状況で湖を泳いできたの!?」
しかも、ヴィヴィアンだって僕たちの姿はおろか、1メーキ先も見えなかったはずだ。カンで泳いで、泥状になった地面を這いまわって僕たちを見つけたというのか。
「は、ハティさま、ご無事でしたか」
「お、落ち着いて。そうだ、ヴィヴィアン、何か使えそうな竜幻装は……」
「あ、ああ、良かった……。もしハティ様に何かあったら、わ、私は……」
そこで気づいた、ヴィヴィアンの声が妙にカン高くなっている。それに、どうも僕の声が届いていないようだ。
そうか、水中でゼラチナムフィッシュの水弾の余波を受けたんだ。だから耳が聞こえなくなっているのか。雨を防ぐためには水の中に頭まで潜って泳げばいい、だが、ゼラチナムフィッシュの水弾が生む音撃が水中を伝い、無防備な鼓膜を直撃したはずだ、一時的に聴力を失っているのだろう。
水弾は続いている。僕たちを完全に見失っているのか狙いはメチャクチャだが、その頻度はますます上がっている。あるいは威力も――おそらくはアドニスから受けたダメージが回復しつつあるのだ。その轟音が荒れ狂う中で湖を泳いできたというのか――。




