勝者はあられもなく逃走し
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「ええと、それで、どうなったんですか?」
ヴィヴィアンに手短に説明すると、彼女は首を傾げてそう言う。
アドニスはというとベンチの脇に陣取り、腕を組んで僕らを見張っていた。僕の説明が終わるのを待ってくれてるらしい、割と律儀な人だ。
「うん、その日の模試では僕が勝ってね……」
「まったく屈辱的な日でしたわ。しかしこのアドニス、正当なる手段を持って必ず汚名を雪ぐことを宣言したのです」
アドニスのほうをちらりと見てから、ヴィヴィアンは僕に問いかける。
「正当なる手段というのは?」
「うん、次の模試では私が逆転する、もし負けたら二倍払ってやる、ってことに……なぜかそんなことになって……」
「あなたが提案したことですわ!」
うう……、提案した覚えは全くないんだけど。
たぶん妙な会話の流れのせいだろう。入り組んでて流れが早く、熊も溺れるほどの激流だったに違いない。
「しかし、この藁のように貧相な男はその後も悪魔的な力で私の上位をゆき続けたのです。そんなに私に口付けしたいのですか、欲望の赴くままに生きるのですか、実に猪突猛進の変態ですわ」
「そ、そういうわけじゃ……」
「ですが、もはや私もワイアームの学生です。模試を利用しての勝負も果たせなくなってしまいました。こうなれば是非もなし、約定のとおり、あなたの望む場所にキスを許そうではありませんか。屈辱のあまり卒倒しそうですが仕方ありません、アイレウス家の当主代行として、約定を違える不名誉は許されないのです。何時間でも耐えてみせましょう」
「……何時間?」
ヴィヴィアンが頭上に疑問符を浮かべて言う。
「あの、ハティ様、いったい最終的に賭けたキスは何回になったのです?」
「32768回だよ……」
………………
…………
……
「え?」
「間違っておりませんわ、このワイアームでの模試は様々な私塾により行われておりますが、一年あまりの間に私とそこの半分溶けた雪だるまみたいな男が受けた模試は17回、そのたびにキスが倍掛けになっております」
「ですが、そんな数だとキスするのが大変なのでは?」
ヴィヴィアンの妙に冷静な質問に、アドニスはふんと鼻を鳴らす。
「ですので時間に変換いたします。キス一回を唇の接触3秒と考えるのです。つまり1時間が3600秒ですので、1時間接触し続ければ1200回キスしたものと見なします。最終的なキスの回数は32768回ですので、およそ27時間私の体をねぶり続ければよろしいのです」
よろしいのですと言われても。
仮にやり終えたとしたら僕は死んでると思う。何かみっともない死因で。
「さあ、では果たしていただきます」
「いや、そんなこと言われても……」
「なぜ下がるのです? 貴方から提案しておいて拒否するとはどういう了見ですか。わがまま放題の変態ですか。私が貴方のような貧相で小汚くて淫猥でキスに異常に執着する倒錯性癖の持ち主に肢体を許しているというのに」
「いや、その、今はちょっと……」
よりにもよって賭けたものがキスとは最悪だ。
アドニスが上から睨め下ろすように僕に迫る。その絹の表面のように滑らかで、新雪のように白い肌。小ぶりだけど形のよい唇、切れ長の目とライトブルーの瞳。僕のような卑小な男には眩しすぎるほどの女性だ。そりゃ僕だって彼女にキスできるという事実に全く心が動かないわけはない。いやもちろんそんな気はないけど。ともかく今はまずい。
僕の脳裏に白い鎧と、黒い大剣を構えたヒラティアの姿がよぎる。
……いや、なぜヒラティアが……? ヒラティアが僕の素行なんて気にしてるはずもないのに。
とにかく、もう僕は不用意に女性にキスするわけにいかない。
竜幻装の力を得てしまった以上は。
「ハティ様、ここは逃げましょう」
ヴィヴィアンが後ろから僕に密着し、耳朶を噛むような距離で耳打ちする。
「そ、そう言われても」
「私の足にキスを」
言って、ヴィヴィアンが右足を僕の前に出し、マントの裾を少し外側に開く。同時に片膝を屈めてしゃがむような姿勢になる。
彼女の浅黒い内腿がその隙間から覗いて途轍もなく扇情的な眺めだ。長い帯のような衣装を巻き付けているために、その餅のような質感の足が締め付けられて肉が盛り上がっている。いや足にキスするのはいいけどそんな角度で見せるのはやめてっ!
しかし僕に悩んでいるヒマはなかった。アドニスは大股で僕に迫っている、もし唇が彼女の体に触れたらどうなるか分からない。
「ご、ゴメンっ!」
僕はアドニスとヴィヴィアンに同時に言って、大きく身を翻して屈み込み、ヴィヴィアンの内腿に唇で触れる。股下に屈みこむようになって僕の唇が太ももに沈む。うう、なんて犯罪的な姿勢なんだ。それに顔が沈み込むように柔らかい。
そして脳内に光が炸裂し、声が喉の奥から溢れる。
「竜の疾走 幻装!!」
叫ぶ瞬間、景色が川の流れのように歪む。
加速度が一瞬遅れてきた。脳が頭蓋内に衝突するほどの加速。素早く僕の胴を捕まえて駈け出したヴィヴィアンはまさに一足千里を駆けるほどの速度だ。風景の流れが早すぎて認識できない。加速度で手足がちぎれそうなほどだ。縄でくくられて全速力の馬に引かれるような、内臓が偏って息が詰まるほどの加速。
そして止まる。
僕の体が進行方向に大きく振られて制動力が全身にかかる、脳がまた頭蓋にぶつかる。内臓が驚きのあまりぐるぐる回っている。
「もごえっ」
そんな声を出す僕の横で、ヴィヴィアンも驚いたような声音で言う。
「……ちょ、ちょっとビックリしました、あそこまで早く走れるんですね」
ヴィヴィアンも頬を上気させ、胸に手を当てて大きく息をしている。
今の速度は早いなどというレベルではない。もはや瞬間移動に近かった。早すぎて身体感覚が置き去りにされ、三半規管がぐわんぐわんと揺れている。
これが竜の疾走……しかし移動手段として使うのは控えよう、と僕は目を回しながら思う。
「た、助かったよ、まさかこんなところでアドニスに会うなんて……」
「ハティ様、あまり数が大きくなる前にキスして差し上げれば良かったのでは?」
「いや……なんかアドニスとの会話っていつも一方通行で終わってたからね……。キスの回数の倍がけも、なんか僕が提案したことになってるみたいだけど、覚えがなくて……」
「そうなのですか……」
と、ヴィヴィアンは床にへたり込んでる僕をしばらく見つめていたが、その民族衣装は疾走のために巻きが崩れ、ある部分では布が重なったり、巻きが緩んだりして皮膚の露出面積が拡大している。それ以前が手足と顔を含めて30%ぐらいの露出度だったとすれば、今は50%ぐらいだろうか。脇腹や腋下、それに左の胸の下部分が瞳が開くように大きく露出している。もしそのまましばらく歩いたら、そのうち全体がすとんと落ちそうな危うい状態に気づいて、僕は慌てて腕で目を覆う。
「ヴィ、ヴィヴィアン、布がずれてる」
「あ、失礼いたしました。巻き直しますのでお待ちください」
しゅるる、と布を解く音がする。
しゅるる、ささ、しゅしゅ、しゅるるる、ぱざっ
えっ、ちょっと待って音がやたら長いし何か地面に落ちた音がするんですけど、全部ほどいてから巻き直すの!?
そして今度は体に巻きつける音、僕は両手で顔を覆ったまま身動きができない。というか距離がものすごく近い、ヴィヴィアンの腰がへたりこんだ僕の肩に触れるような距離で着替えている。
「んっ、っと、そういえば、ここは何処なんでしょう?」
ヴィヴィアンが衣装を巻きつけながら言う。ぎしぎしと縄を引き絞るような音がする。あの長い一本帯を巻きつけるような民族衣装だけに、それなりの強さで引き絞りながら巻く必要があるのだろう。ぱちり、ぱちりとチェスを打つような音がしているが、ヘアピンのようなもので帯を留めてるのだろうか。僕は台風に耐える虫のように丸っこい体勢のままで、ひたすらに豚肉をタコ糸で縛る様子のことを考え続けて理性を保った。
ふと鼻に届く香り。
なんだか嗅ぎ慣れた匂いがする。これは本の匂いだろうか、それに水の匂い。
見渡せば、そこは湖畔の眺めだった。
僕の視界もようやく目眩が治まってきて、周囲の情景を認識し始める。




