朱炎の姫、氷の靴もて藁を踏む
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「ところで…何か考えがあるの?」
僕が問う。
来ては見たものの、いったいこれからどうすればいいのか? 僕はどうも、マニュアルにないことをその場で考えるということが不得手なようだ。
ジュースを飲み終えたヴィヴィアンは、少し考えてから答える。
「まずはハティ様の受験された魔法科へ行ってみませんか? どなたかお偉い先生に相談すれば、受験させていただけるかも知れません。それでなくても何かアドバイスを頂けるかも」
なるほど。当たってみる価値はあるかも。
というより、竜幻装を誰かに見てもらわないことには何も始まらないよな。そのぐらいは僕も思いつくべきだった。
「じゃあ……この時間だと講義に出てる先生が多いだろうけど、魔法課教員棟に行けば誰かいるかも。氷術修練場から教員用食堂の脇を通って行こう。そっちのほうが近い」
大雑把に考えてワイアーム練兵学園の東半分が魔法科、西半分が戦士科である。大通りを歩く生徒も右半分には知的でおとなしそうな人間が多く、左半分には大柄で快活そうな人々が多い。それがまるで血管を流れる血流のように小道に分かれつつ、練兵学園全体に散らばっていく。
僕たちはあまり生徒の入らない小道に入っていく。
受験すること三度、それ以外にも模試やら手続きやら下見やらで、このワイアームを訪れるのも十数回になる。それなりに地形も覚えてしまった。
僕たちは細い道を行き、木立の下をくぐり、円形にベンチの並んだ休憩所のようなところを通りぬけ――。
「お待ちなさい」
背筋が剛直する。
心臓が肋骨二本分ぐらい跳ね上がる。
「やはりハティ=サウザンディアではありませんか。その冴えない顔があまりに凡庸すぎて道端の木が歩き出したかと思いましたわ」
僕は首の関節をきしませながら振り返る。
そこには目の醒めるような美貌。鼻が高く切れ長の目が怜悧な印象を与える顔がある。長い髪を数十もの房にまとめているが、それは房の半分が朱色、半分がブロンドというビビッドなスタイル。肌は雪のように白く、そこに咲く唇は小ぶりながら紅色に光り、茶色のアイラインが鋭く伸ばされ、上品さと高貴さと、そして気性の激しさが見事に同居している。
着用しているのは雲のように白いシャツと、その上にすっぽりとかぶるように身につけた大きめの革チョッキ、そして股間と内腿が革張りで補強された乗馬ズボンだ。
そして手に持つのは黒い杖。先端には黄金で彫金された獅子が乗っている。その杖を両手で弄びながら、彼女のおそろしく鋭利な眼差しが僕を射抜く。
「あなたはワイアーム魔法科の試験に三度落ちたはずですが、なぜこんな場所をうろついているのです? いえ、もうとっとと帰郷なされたのかと思っていましたわ」
「い、いや、それは……」
「ところで、そちらの方は?」
彼女が杖でヴィヴィアンを示す。
ヴィヴィアンはマントのフードを降ろし、柔和な笑顔で目礼する。
「初めまして。南方より参りましたヴィヴィアン=マニ=ルペと申します」
「南方からですか、私はアドニス=アイレウスです」
そう、彼女の名はアドニス=アイレウス。
魔法科において今年、歴代最高の成績で入学を果たした人物であり、その出自はどこかの都市国家の高名な魔法使いの家系。生来よりの強い魔力を持ち、入学前からすでに10あまりの魔法体系を修めている人物だ。魔法の腕前においてはすでに一流の宮廷魔導師にも匹敵すると言われ、数多くの都市国家や秘術探索者のグループからスカウトの手が伸びている……という話だ。
僕みたいな市井の受験生にすらそんな噂が流れてくるほど、彼女の存在はまさに時代を代表するほど。綺羅星のような存在だった。
「なぜそこの貧相男と一緒に?」
「従者として契約を結んでいただきました」
「……従者? 貧相男は黒パンで建てたみたいな場末の安宿に下宿しているはずですが、何故従者が必要なのです」
「え、ええと……それは」
僕が彼女の迫力に当てられ、しどろもどろになっていると、アドニスはまあいいです、と髪をかきあげる、彼女が僕の境遇などに興味が有るわけもなく、僕の発言を待つことも無いのだ。
「さて貧相男、朝からあなたなどに会うなど泥の雨に降られるより不運なことですが、積年の約定を果たしていただけると思えば幸運とも言えるでしょう」
「ま、またそれ……」
僕が言いかけるのを、勢い良く突き出された彼女の指が止める。
「さあ貧相男! 今日こそ私にキスしなさい!!」
「えええええっ!?」
ヴィヴィアンもさすがに驚いた。
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事の始まりは、1年前、
ワイアームの試験に二回落ちて後が無くなっていた僕は、血眼になって勉強に励んでいた。
それこそ寝る間も惜しむほどに、日の昇ることにも沈むことにも気づかぬほどに没頭した。知識を詰め込んでいるうちに意識を失い、覚醒したらまたがばっと起き上がってがりがりとノートに文字を刻む、そんな冗談のような狂気のような日々。ヒラティアやマザラおばさんに言われなければ食事すら摂らなかったに違いない。
ほとんどの勉強は街が運営する図書館や、宿の自室に引きこもって行なっていたが、自分の実力を図るために私塾の模擬試験を受けることもあった。アドニスと出会ったのはその模試が切っ掛けだ。
ワイアームの街にはあらゆる場所に私塾や企業塾が並び、魔法学を始め数学、理化学、法学、地学、論説文など受験に必要な科目を教えてくれる。願書の書き方や手続きの仕方、面接の受け答えなどを専門に指導する塾もある。
僕もそういった塾の一つに通っていた。しかしあまり月謝を払える身でもなかったので、主に模試だけを受けに行っていたのだ。
ワイアームに散らばる塾では定期的に模試が行われている。僕が受けていたのは40あまりの塾が合同で行う大規模なもので、受験者は時期にもよるが1万5千から1万8千人に上る。
ある時、模試を受けに行った僕に話しかける人物がいた、それがアドニスだ。
貴族階級の出身である彼女は銀で装飾された革のチョッキを着て、拍車のついた乗馬靴をかつかつと鳴らし、今と同じく朱色と金に細かく結い分けられた髪をかきあげた後、僕の机にバンと手を置く。
「あなたがハティ=サウザンディアですわね。前回の試験で1位だったと聞いておりますわ」
「え、は、はあ、一応……」
この時、僕は手元の参考書を読むのに忙しく、またアドニスがあまりに強烈な眼光で睨みつけていたので、顔を上げられず、声もこもりがちだった。
「わたくしはアドニス=アイレウスと申します。前回の模試では不覚にもあなたに遅れを取ってしまいましたわ。生まれて以来、学問で誰かに負けたことなどありませんのに、あなたのような貧相な風貌の方の後塵を拝するなど、カエルに顔を舐められるほどの屈辱ですわ」
「そ、そう……よく分からないけど……」
「しかもこのような場末の私塾の学生だなどと。私だけならまだしも、私の属するメディプール塾の看板に泥を塗る結果になってしまいましたわ」
メディプール塾といえば貴族や大商人の子息が通う、ワイアームでも最も格の高い塾だ。月謝はこの私塾の40倍に相当するらしい。中を見たことはないが、先生も40人がかりで教えてくれるんだろうか。
「よいですか、今日の午後からの模試、必ずわたくしが一位を取りますわ。今日はその宣言をしに参りましたの」
「ベ、別に君と競いあいたいわけじゃないし……」
「何ですって? 『私などとは競い合うに値しない』というのですか?」
「……えっ?」
後で何度か会って分かったことだが、アドニスはどうも人の話を自分に敵対的に解釈する癖がある。そしていつも反り返っているためか、下から響く声はあまり聞いていない。
さらに言うなら、アドニスと向き合った僕はどうも緊張のあまり言語が安定しない傾向がある。声も小さくなってたぶんアドニスには半分も届いてない。
「ち、違う……そんなこと仕方ないことだし、馬鹿らしいし」
「『馬鹿だから仕方ない』ですって!?」
「いや、あの……悔しがるようなことは……次で挽回すればいいし……」
「ほう、『悔しかったら挽回してみろ』とまで言い切りましたね。このアイレウス家の長女にして当主代行、アドニス=アイレウスにそこまで言ったこと、もはや互いに抜き身の構えと考えて間違いありませんね」
「あの……ええと……いいですそれで……」
この言葉は今考えても絶対にまずいが、なぜ僕は認めてしまったんだろう。たぶん早くこの場から逃げたかったんだろう。僕は急ぐと転ぶタイプだった。
「ふ、ふふ……そこまで言うからには互いの名誉を賭けようではありませんか。わたくしが勝ちましたら、あなたには犬のように地にひざまづき、私の靴に口付けをしてもらいます」
「え、そ、そんな、僕だけ……」
「ああ、そうでしたね、あなたが勝った時のことなど考慮するに値しない仮定ですが、何を望むのです。金貨ですか、それとも私に何か屈辱的なことを要求する気ですか」
「いや、口づけ、って……」
「口づけ? ああ、私に口付けしたいというのですか、いかにも低俗で下賎な考えですが、よろしいでしょう、あなたが勝ちましたら、私に口でも頬でも好きな場所に口付けを許しましょう」
周囲が騒然となる。がたがたと椅子が蹴倒されて塾生たちが立ち上がる。
これもあとで知ったが、大貴族の家柄であり、高貴な雰囲気をまとったアドニスはかなりの有名人だったらしい。他の塾生からの嫉妬とも同情ともつかない視線が浴びせられるが、僕は目まぐるしく最悪へと転げ落ちていく状況を、まだ理解できてなかった。
「では、今の約定、ゆめゆめお忘れなきよう」
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