本作品は、政治的善意によりお勧めできません
その中年の編集者は、タブレットをなでながら俺の短編作品を読み進め、やがて無味無臭な表情をこちらに向けた。
場所は、都内にある小さな出版社の会議室。
俺はある短編歴史小説の持込みに来たのだが、どうも旗色が悪い。
編集者は、哀愁を帯びた頭皮を労るように撫でながら口を開く。
「まー悪くはないよ阿藤君? 個人的には好きだ。でもさ、PCレベルが低そうでなぁ。政治的善意が一つもないから、レベルはきっと零だよねこれ」
やっぱりそこかと、俺は落胆する。
PCレベル。
今の創作界において、これよりも重視される数字はない。
PCとはポリティカル・コレクトネスの略であり、政治的善意という訳で普及している。
二〇一〇年代に欧米から日本へと浸透してきたこの考え方が、今やこの国の創作界を牛耳っている。
業界の自主規制により世に出る創作物のほとんどにはPCレベルの表示がなされ、レベルの高さに応じて財団(PCの普及を目指す意識の高い富豪が設立したらしい)から補助金が出る。
出版不況の時代において、PCレベルの高い作品はたとえ売れなくても補助金でカバーできるため、出版社はそちらを出したがるのだ。
俺の作品のようにPCレベル零ともなると補助金も〇のため、取り合ってくれる出版社はほとんどなく、大半は自費出版になってしまう。
そんな作品ばかり書くものだから、俺の経済状態は常に火の車であり、先日ついにアパートを追い出された。
そんなわけで、俺はコンビニで夜勤のバイトをしつつ、激安ネットカフェにこもって作品を書く日々を送っている。
「登場人物の中にLGBTQを出したらどう? この相棒役なんて、そういうキャラでも作品は成り立つしさ。それとこの嫌みな上司のセリフとして、女性差別的な悪態を吐かせるのも良いんじゃないか? 事件の被害者も白人じゃなくて黒人にしなよ。事件の背後には人種差別があるってことにしてさ」
「舞台は古代ローマ時代で、カエサルの侵攻を控えたガリア(現フランス)の田舎なんですよ? 時代的に無理がありますし、作品が成り立つとはいえわざとらしい要素をくっ付けるのは不自然で嫌なんです」
「うーん。それだとうちではちょっとなぁ」
話はこれで終わりだった。
何度も体験してきたことだから、今更大きなショックを受けたりはしない。
いつものように、俺は肩を落として出版社の自動ドアをくぐって、いつものネットカフェに帰った。
今日も夜勤のアルバイトがある。
このままコンビニとネットカフェを往復して、世の中に認められる見込みのない小説を書いて、その果てにどんな未来が待っているのかと思うと、暗澹たる気持ちになった。
ある日、俺のフリーメールアドレス宛てに、久々に迷惑ではないメールが来た。
送り主は葉隠だった。
大学時代、文芸クラブで共に創作活動に取り組んだ友である。
風の噂ではSF作家として成功し、バイト先のパン工場を辞めて専業作家として食っているそうだ。
昨今のSFはPCレベル目当てでアンチ管理社会や文明崩壊ものが多い中(反体制や自然保護要素でポイントを狙いやすいかららしい)、冒険ものやユートピアな未来を描くことで、SF界隈では変わり種として人気があるらしい。
メールには、久々に一緒の飲まないかという主旨のことが書かれていた。
懐かしい友に合いたい反面、ネットカフェ難民の俺と専業作家の葉隠との格差に躊躇を感じる。
うじうじと小一時間悩んだが、結局は会うことにした。
太陽がすっかり沈んだ頃、とあるチェーンの居酒屋で、俺と葉隠は再会した。
学生時代の頃は俺と同じさえない青年だったのに、プロとしての成功が自信を付けさせたのか、若手実業家のような風貌になっていた。
当初の心配とは裏腹に、いざ会ってみればなんてことはなく、思い出話に花が咲いた。
そうして酒が進んでいくと、隠そうと思っていた思いが言葉となって出てきた。
「俺さ、悩んでるんだ。PCレベルが低いせいで先に進めない。つい先日も持込みで断られちゃってさ」
葉隠はビールジョッキを持ち上げて半分残った中身を一気に飲み干すと、顔を上気させつつ口を開いた。
「なら上げちまえよ。難しいことじゃない。テキトーにレズや黒人、ムスリムのキャラを出して、活躍させれば良い。そんで悪役として人種差別主義者の白人を出せばレベル三は堅いぜ。それとヒロインは美女設定にしない方が良い。女性差別扱いされる可能性があるからな」
「そういうのって変じゃないか? 俺はLGBTQは嫌いじゃないし、差別はおかしいと思ってる。でも、それって創作の世界に持ち込まないといけないことなのか? 俺は面白い作品を書きたいだけなのに」
「俺だってそうさ。俺は説教や教育のために小説を書いたことなんて一度もない。俺がSFを書き始めた理由を憶えているか?」
俺は酩酊した頭を叱咤しながら、学生時代の記憶を引っ張り出した。
「ヴェルヌが小説の師なんだろ?」
「そのとおり。ジュール・ヴェルヌの地底旅行や海底二万マイルを子どもの頃読んで、未知の世界や科学技術の可能性を夢見たんだ。それは今だって変わらない。俺だって面白いものを書きたいから書いてるんだ。それでその作品が出版されるように、政治的に善とされている要素を混ぜている。おまけだと思って割り切るしかないんだよ」
おそらく、葉隠の言うことは正しい。
この世が不条理なのは事実だけれど、ちょっとの妥協と工夫で住み良くできるならそうするのが賢いというものだろう。
わかってはいるけれど、それでもという言葉が俺の脳裏で木霊する。
「……ま、阿藤の気持ちはよーくわかる。俺だって主要キャラの人種配分やヒロインの描写がセクハラに当たらないかどうかに気を使うなんてうんざりだ。お前がお前の信念を貫きたいって言うなら、文芸クラブの同志として応援するぜ」
「ああ、ありがたいよ」
ふと、阿藤はちょっと失礼と言ってスマホを触りだした。
「今、面白い情報をメールで送った。大っぴらに言えることじゃないから内容については黙っていてくれ。お前の励みになると思うぜ」
そして、葉隠と別れた後、ネットカフェの一室で俺はそのメールを開いてみた。
メールにはとある漢方薬局の地図情報と、「レイルロードと言えばわかる」という葉隠の言が書かれていた。
何のことやらとも思ったが、どうせ暇は多い。
夜勤のない日の昼間に、俺はメールで書かれた場所に行ってみた。
自由堂漢方と書かれた古びた木造建築がそこに建っていた。
中に入ってみると、夏の雑草のような臭いが鼻をつく。
得体の知れない干物や色とりどりの草の間をすり抜けて、俺はレジへとたどり着いた。
レジに座っているのは六十歳くらいに見える老人で、顔立ちがどこか日本人と違う。
眠っているのかと思うほど微動だにせず、まぶたの開きが狭い。
「……あの、私は阿藤といいます。レイルロードと言えばわかると、葉隠から教わったんですが」
すると老人はしわの深い顔を崩し、じろりとこちらを見た。
反応の速さからすると起きていたようだ。
「……ついてきな」
老人はきびすを返し、レジの奥にある薄暗い廊下へ入っていった。
恐る恐る、その老人の小さな背中を追う。
そうして廊下を抜け、明るいところに出ると、視界いっぱいに本棚が現れた。
三メートルはありそうなハシゴ付きの本棚がずらりと並び、これでもかと物が詰め込まれたその様子は、かつて神保町に多くあったと聞く古書店のようだった。
呆気に取られていると、老人が俺の肩を突いた。
「アトウとか言ったか? 読むなり見るなり好きにしな。俺はレジにいるから」
「あ、あのお爺さん、ちょっと質問が……」
「俺には毛という名がある。で、質問は?」
「毛さん。ここはなんなんですか?」
「やれやれ知らずに来たのか。葉隠のぼんくらめ。ここは秘密の図書館だ。ご禁制の作品が詰まってる」
言われてみれば、すぐそばの本棚に突っ込まれている作品には見覚えがある。
「これ、スターウォーズのオリジナル版じゃないですか。今じゃもうネットでしか見られないエピソード四がここにあるなんて」
スターウォーズのエピソード四は主要な登場人物が白人しかいないという理由でPCレベルマイナスの烙印を押され、今の世に流れているのはCGで人種配分を調節した「改訂版」だ。
今の時代に同作のオリジナル版を見るには、ネットの動画投稿サイトで違法アップロード版を見るしかない。
本棚の中身を見ていくと、どれもPCレベルマイナスのものばかりだった。
イタリア系マフィアを描いたことが民族差別とされた映画。
主要人物の一人がゲイ疑惑を否定するシーンが問題となったドラマ。
美少女の際どいシーンが多く、女性差別及び児童ポルノと認定されたアニメ。
作中のセリフに差別用語があったため修正されたものしか読めなくなった漫画。
作者が過去に行った発言がヘイトスピーチとされ、出版停止になった小説。
過激な暴力描写が問題になり、銃規制論の巻き添えをくったゲームソフト。
今の世では自主規制の名の下に排撃されているが、公開当時は人気を博していたものが多く、俺のような作家の端くれには偉大な遺産のように見えた。
「凄い! お宝ですよ」
「そうかい。葉隠の坊主もそんなことを言ってたっけな」
「毛さんはどうしてこんなにお持ちなんですか?」
「昔、趣味で集めてた物を隠しているだけのことだ。このことが露見したら、すぐに市民団体が押しかけてきて廃墟にされちまうだろう。昔は禁制でもなんでもなく、この国に溢れてたんだがなぁ」
毛老人の眼がどこか遙か昔を懐かしむように輝いた。
「羨ましいお話です」
「お前さんは好事家か何かなのか?」
「一応作家でして。と言っても全然売れてませんが」
「そうかい。今の世は作家にとっちゃ冬の時代だな。ポリティ何たらだの政治的善意だのがなけりゃまともに売ることもできないなんてよ。親父もそんな気分だったんだろうな」
「お父上も作家だったんですか?」
「ああ。名前からわかると思うが、俺は大陸の生まれだ。俺の親父は作家だったんだが、大陸では政府の顔色をうかがわないと何も書けなくて、それが我慢できずに日本に移住してきたんだ。ところが今となっちゃあこの国もこのざまよ。自由な表現は西側諸国の中核的思想だったはずだ。それがいつからこんな不自由になっちまったんだろうな」
毛老人の寂しそうな顔に、俺は何も言えなかった。
それから、俺はこの秘密の図書館にて作品の閲覧に没頭した。
PCレベルが導入される前の創作物の、なんと多様で娯楽性に満ち満ちていることか!
書きたいものを書き、純粋な面白さで勝負できる時代だからこそ、こういった傑作たちが生まれるのだ。
道徳の教科書のような内容ばかりの最近の小説と比べれば雲泥の差に感じる。
俺が求めていた創作物が、ここにあった。
ネットでこそこそと閲覧するだけではこの感動は味わえない、
現物だからこそ、かつて先人たちが創り出した創作物の数々を目の当たりにして、彼らの熱意と無念が心にのし掛かってくるように感じた。
すっかり夢中になり、気付けば陽はすっかり暮れていた。
表の漢方薬局も店終いのようで、毛老人が出入り口を残してシャッターを降ろしていた。
「すいません。つい長居してしまって」
「良いさ。ここの作品たちも、誰かに見てもらっほうが幸せだろうよ」
「私は売れなくて悩んでたので、良い励みになりました」
「それは良かった。でもよ、売るために膝を折ろうとは思わないのかい?」
「思いません。まあ、誘惑はされましたけどね。でも、それでも自由を曲げたくないんです」
毛老人は闊達に笑った。
しわくちゃの置物のような印象だったのに、笑うと仙人じみた貫禄があった。
「なるほど良い気構えだ。お前さんのような若人の一助になることこそ、正にレイルロードだな」
「それって合い言葉の?」
「ああ。レイルロードは、奴隷制時代のアメリカで奴隷たちを南部から北部へと逃がした結社のことだ。うちにとっての奴隷はお前さんのような作家や禁制品たちだな」
そうだ。
不当な規制や抑圧は今に始まったことじゃない。
そういうものは古今東西に存在し、それに対抗する人々もまた存在した。
俺も彼らと同じことをするだけなんだ。
俺は毛老人に頭を下げ、漢方薬局を後にした。
それから、俺は創作活動の中心を出版社への持込み活動から小説投稿サイトへと移した。
コストがかからない投稿サイト上であれば、出版社やPCレベルの顔色をうかがう必要はない。
作品が溢れ、有象無象の眼に晒されるネットでは、持込みとは異なりまともな読み手の声がなかなか聞こえないが、それでも地道に投稿を続けた。
そうしていくうちに段々と反応が良くなっていき、数年が経つ頃にはランキングの常連作家となっていた。
PCレベルが低いのは内容からして明白なので書籍化の話は来ないが、葉隠や毛老人、そしてクラウドファンディングで有志から寄付を募り、自費出版にまでこぎ着けた。
内容は、中世西欧を支配したフランク王国に生きる騎士の物語で、ヒロインは美女だし、人種は白人ばかりだし、苛烈な暴力描写や当時としては普通だった差別描写を盛り込んでいる。
お陰で出版手続きの際に受けさせられた検査ではPCレベルマイナスとされ、「本作品は、政治的善意によりお勧めできません」という注意書きが付けられた。
幸いにも自費出版の世界ではまだそういう作品でも商業ルートに乗せられる。
既に人気作家として名が知られている葉隠に書評も書いてもらった。
発売日の午前零時、俺はブログやSNSで、PCレベルがマイナスであることを明言した上で、発売を告知した。
世界が「善意」を掲げて不自由を正当化しても、俺は俺の自由を押し通す。
今、その一歩が始まったのだ。