2.顔合わせの後で
顔合わせを終えて、おれは学生時代から愛用しているかばんを持ってスタジオを出た。丈夫で使い慣れたこのかばんは、仕事に行くときもオーディションを受けるときも、いつも持ち歩く。
木下ゆうき、と金の糸で名前の縫い取りがしているところだけが玉に瑕だ。持ち物に名前を書くことを強制される修学旅行生みたいでちょっと恥ずかしい。
最寄の駅に着いたおれはそのまま電車でバイトに向かった。
現在どこの劇団にも所属していないおれは、自分で見つけてきたオーディションを受けまくって仕事を探す以外は、バイトで生計を立てている。
高校生活最後の文化祭で、演劇部だった当時の彼女に拝み倒されて一度だけ舞台公演に参加したおれは、たった一回で、すっかり演劇にはまってしまった。
無難に合格した大学ですぐに演劇サークルに所属したおれの学生時代は、念願の演劇三昧で明け暮れた。その傍ら、おれは時々小さな町劇団にも出入りさせてもらって忙しい毎日を送り、大学の間はろくに勉強もせずに親の仕送りで過ごした。
だが、何の就職活動もせず、卒業後演劇一本でやっていくと豪語して実家に戻らなかったおれはあえ無く仕送りを止められ、安アパートで極貧バイト生活を強いられることになったのだった。
けれど、好きなことをしているのだから、今のおれに不満はない。
将来の生活はまだ見えないけれど、まだしばらくは、自分の可能性を試してみたっていいじゃないか。
バイト先の小さなカフェに到着したおれは、ロッカールームにかばんを置き、指定の制服に着替えた。平日の午後は入れられるだけのシフトを組んでこの都内某所の人気のカフェでウェイターをしている。
厨房関係も割りと得意なのだが、ここに来る幅広い年齢層の客に対して、ウェイターとして接しながら行う人間観察は役者としての自分には得るものが多いと思っている。
だが、おれができるだけこの店でのバイトを入れている理由は、それだけではない。
「ゆうきー。もう打ち合わせ終わったの?」
明るい声がして、エプロン姿で、三角巾代わりにビビットな柄のバンダナを巻いた女性が厨房から姿を見せた。
向井希。この店の人気スイーツを作り出す女性パティシエで、おれの彼女だ。
童顔で高校生と言っても通用しそうな顔立ちの彼女は、自己申告に寄ればこれでもおれより年上なのだそうだ。と言ってもおれの感触じゃ、精神年齢はどっこいどっこいだろう。
でも、おれ的には全く問題はない。年の割りに妙に幼いところも、明るく前向きなところも、きつい仕事だって誇りを持ってやっているところも、全てがおれのお気に入りのつぼなのである。
「ああ。次回は読みあわせだって。その次はいよいよ立ち稽古だ」
おれは、ウェイター用の黒いシンプルなカフェエプロンの紐を後ろ手で結びながら上機嫌で答えた。しばらくぶりにオーディションに受かり、本格的な役がもらえたのだ。
隅々までやる気が漲っているおれを見て、自分のことのように嬉しそうな表情の彼女だったが、おれの返事に少し首を傾げた。
「もう立ち稽古? 早いねえ。公演までそんなに余裕がないの?」
「早い? そう言やそうだな。でも、俳優陣は若手が多いから、早めに立ち稽古に入って演出を練りたいんじゃないかな」
「そっか。ゆうきくらいの年の子もいるんだ?」
「まあ、若いやつはいるけど、一応おれが最年少」
答えながら、そういえば同年齢が一人いたっけな、と思い出した。
「あ、そうそう。一人だけおれと同じ年のやつがいるわ。でも、キャリアは全然比べ物にならないけどな」
答えながら、強烈に目を惹きつけられた西崎恵の立ち姿がおれの脳裏に浮かんだ。
「へえ、誰? あたしの知ってる俳優さんかな」
おれが彼の名前を告げると、希は目を丸くした。
「すごい! ゆうき。そんな有名な人と一緒の舞台に立つんだ」
あれ、でも彼ってゆうきと同い年なの、すごい前からやってるのに意外と若いんだね、と続ける希の声を聞きながら、おれはちょっと胸にもやもやしたものを感じた。
西崎恵は確かに誰にも文句のつけようがない役者だ。どんな役でもこなせると言われているが、経験も実力もその名声に劣らない。
だが、同じ舞台で同じ役者が立つのに、彼が参加すると聞けば大体が彼女のような反応だ。
『西崎恵と一緒の舞台なんて、すごいんだね!』
彼の名前で舞台のクオリティが決まるわけではない。ほかの役者も裏方も、全ての力で舞台の良し悪しが決まるのだ。西崎恵だろうがなんだろうが、その中の1パーツに過ぎないはず……
それが、明日からの稽古できっと証明されるだろう。




