18.ゲネプロ
おれも西崎も実のところは思っていた。この卑劣なことをしでかしたのは倉石琢己ではないだろうかと。
本人が手を下したものかは分からないが、とにかく、その日の彼は挙動不審だった。
おれの次に早くやけに辺りを気にしながら現場入りしたのも倉石である。彼が恐らくレッスン室のものであろう鍵をこっそり事務室に返しに行くところをおれは見た。また、稽古直前、倉石が一人で出てきた後控え室に入ると、西崎のバッグに無造作に突っ込んで返された携帯がすぐに見つかった。全員が集合し、最後の打ち合わせを行っているときも始終ちらちらと西崎の方を見ていた。
恐らく、そのときに監督なり演出家なりに訴えてよく探していれば彼が卑劣な行為をしたと言う確実な証拠が出てきていただろう。だが、西崎は犯人探しよりも、あくまで舞台に立つことを選んだ。
やがて始まったその日のゲネプロで、名優、西崎恵は完璧に主役を演じきった。共演者も、数人来ていた演劇関係の雑誌記者も、誰も彼の具合の悪さには気づかなかっただろう。朝の彼の不調を知っているおれでさえ何事もなかったのかと錯覚してしまうほどだった。
一度だけ、一場の途中で、例の、主人公の青年が倒れるシーンにさしかかったとき。舞台上で前のめりに崩れ落ちる姿を見て、朝の西崎の体調を思い出したおれは、具合が悪くなったのではと一瞬ひやりとした。しかし、一瞬の暗転の後、彼はまた何食わぬ顔で舞台に立ち続けていた。
だが、実際はかなりの無理を押して舞台に立っていたのだろう。
最後の芝居を終えた西崎は、舞台袖にはけた途端、よろめいて膝を崩した。そのまま壁際に座り込む。全身が小刻みに震えていた。
近くにいたおれは、西崎の体調の悪さが目立たないように、自分の立ち位置を微妙に変えつつ、彼の首筋に手を当てた。……かなり熱い。
これは間違いなく熱が上がっている、と確信したおれは今度こそ彼の携帯を使ってマネージャーと連絡を取ったのだった。
「おつかれー」
「明日もまた通しかあ。気が抜けねえな」
「まあ、ダブルキャストだから仕方ないか」
その日の通し稽古が終了し、本番に向けてのミーティングを終えると、早めに解散となった。
西崎は、次の仕事があるから、ということにしてミーティングをサボり、迎えに来たマネージャーの車で病院に向かった。マネージャーも彼の性格は知っているのか、わざわざ周囲に西崎の不調を悟らせることもなく話を合わせ、彼を連れて行った。
明日の二度目のゲネプロでは倉石がおれと同じ役を演じることになっている。明日の通し稽古が終われば翌日はいよいよ初日を迎える。西崎の体調が早く回復すればいいが……
帰り支度をするおれの肩を誰かがぽんと叩いた。見ると、清水だった。以前よく一緒に飲みに繰り出していた役者仲間の姿も見える。
「木下。今日のお前の演技、よかったぜ。なんか自然体でさ。西崎さんと稽古したかいがあったな。ラストの幽霊の彼女との再会場面なんか、息ぴったりだったぜ」
おれが今まであの場面に悩み、自主練習を重ねてきたことを知っている清水は温かい言葉をかけてくれる。それがおれには嬉しかった。
だが、今日のおれは自分の演技より、今朝の西崎の体調不良が気になって舞台に十分集中できていなかった。それが、かえって力が抜けてよかったのかもしれない。しかし、そんな結果オーライな状況は不本意である。もっともっといい演技ができるようになりたい、とおれは切実に思った。
お疲れ、と帰りかけた役者仲間の一人が、ふとおれに問いかけた。
「なあ、仕事に向かう前、西崎さん、具合悪そうじゃなかった?」
お前仲いいだろ、何か知ってる、と訊かれ、おれは黙って首を振った。
「あ、そうそう。倉石さんもそんなこと言っていたな。おれはまったく気づかなかったけど」
近くにいた役者が言う。具合悪くてあれだけ完璧な演技ができるわけないだろ、いつも通りだったじゃん、と誰かが答えるのを聞きながら、おれは倉石の姿を探した。
今日の舞台稽古中、出番がない倉石は客席に座っていた。芝居の終了後には舞台裏に姿を見せ、みんなを労っていたようだが、今は姿が見えない。
今日のことは、彼の仕業かどうか証拠はない。しかし、誰がやったにせよ、このような妨害行為をしても、プロ意識の高い西崎が舞台に立つことを止めることはできない。それがいやと言うほどわかっただろう。
だが、もしまたこんなことをしやがったら、おれは許さない。今度こそ証拠を調べ上げ、プロデューサーや演出家に突きつけてやるからな!