17.不調
「おい……おい! 西崎!」
階段を下りた先の、底冷えのするレッスン室で壁に背を預けて座り込んでいた人影は、さっきからおれが探していた西崎恵だった。
眠っている様子の彼を起こそうと肩を掴んだ俺は、そのあまりの冷たさに総毛だった。いったいどれくらいここに座っていたのだろうか。頬にも手を当ててみたが、体温が感じられない。
おれは大声で名前を呼びつつ彼の頭ががくがくと揺れるくらい乱暴に肩を掴んで揺すった。 やがて、かすかな呻き声とともに西崎がけだるそうに目を開けた。
「木下……か?」
かすれた声が白い息とともに漏れた。
とにかく、事情を聴くより先に冷え切った西崎の体を温めなければならない。おれは寒さでうまく体を動かせないでいる彼に手を貸して、暖房が効き始めた控え室まで引きずって行った。
おれが買ってきた暖かいコーヒーを飲んでだんだん体が温まってきた西崎は、ぽつぽつ昨日からのことを話してくれた。
夕べおれに届いたメールは彼が送信した覚えのないもので、西崎自身はおれとの約束どおり仕事の予定が片付き次第、劇場に戻ってきたのだそうだ。荷物を置いておれの姿を探すうち、レッスン室の方から物音がしたため、そちらに向かって階段を下りていったのだという。
「……で、レッスン室に入った途端外から施錠され、閉じ込められた……ようだが」
彼は自信なさそうな口調で言う。おい、はっきり覚えていないのかよ、と思わず口にしたおれは、そこで漸く西崎の異変に気づいた。
顔が火照るように赤く、目が充血している。呼吸は浅く速い。吐く息はやけに熱っぽかった。どうやら発熱しているようだ。この寒さの中一晩過ごせば当然と言えば当然だった。
「西崎、お前……」
とにかく、マネージャーに連絡を取ってやるから携帯をよこせ、と言うおれに、西崎はだるそうに首を振った。
「ないんだ。昨日から。おれの携帯からお前にメールをうったやつの仕業だろう」
「くそっ、どこのどいつだ。何のためにこんなことを!」
怒りで手が震える。この状態では今日のゲネプロの舞台に彼が立つことはできないだろう。 演劇に関してはいつも真剣で仕事に全力を傾けている西崎が、普段から体調管理に人一倍気を使っていることを、おれは最近知ったばかりだ。
ジムに通って体力を維持し、発声のためのトレーニングも欠かさない。喉を守るため夏でも冷房をかけないし、そのほか体調維持のためいろいろな決まりごとを作り、忙しい中彼はストイックにそれらを守っている。おれもそれを知って以来できる限り彼を見習うようにしてきたつもりだ。だから彼の努力がどれほどのものか知っている。
こんなことをやらかしたやつ! お前はそれを知っているのかよ!
悔しさをにじませるおれをよそに、西崎は何とか立ち上がり、控え室の洗面台でうがいを始めた。しつこく、何度も。それが終わると、自分のバッグを開けてメイク道具を取り出し、鏡に向かって舞台用のメイクを始めた。
あっけにとられるおれを完璧に無視して、数分でメイクを終え、振り返った西崎の顔色はいつもと変わりがないように見えた。立ち上がり、軽く咳払いをした後、今度は滔々と長台詞を言い始めた。少しずつ声量を上げていく。高音が少し掠れるものの、時に熱く、時に淡々とした台詞回しはいつもと全く同じ調子だった。
「なあ、西崎お前、まさか……」
おれの言葉を引き取るように彼は答えた。
「ああ。もちろん。おれは今日の舞台に立つ」
絶対に迷惑をかけるようなざまにはならないから、このことは誰にも黙っていてくれ、と、いつものクールな表情とは全く違う、熱のこもった真剣な表情で訴える西崎に、おれは頷くしかなかった。