16.ゲネプロ直前
公演初日間近に起こったその一件は、この舞台に関わる全ての人間に暗い影を落としはしたが、その後はかえって空気が引き締まった。稽古後飲みに出かけることはさすがになくなり、倉石も表面的には普通どおり稽古に精を出している。
現場の雰囲気は、クールな普段の顔に似合わず熱い言動で清水をかばった西崎恵に一目置き、逆に、全く不祥事の責任を取らずにいる倉石琢己には冷ややかなものになってきている。
だが、舞台の宣伝やリハーサルの準備などに忙しくなってくると、事件のことはあっという間に過去のことになっていった。今までの稽古場から本公演を行う劇場に移り、場あたりをかねて各場面をさらっている現場の雰囲気にもいい緊張感が満ちている。
明日は、いよいよ本番前の総仕上げの通し稽古、ゲネプロである。
稽古後。お疲れさん、明日は頑張ろうぜ、と挨拶を交わしながら劇場を後にする面々を見送りながら、ゲネプロ一日目のキャストとして出演するおれは、だんだん緊張感が増してくるのを感じた。それに気づいておかしそうに笑う西崎に、今夜ちょっと練習に付き合ってくれないかとおれは必死に頼み込んだ。
いいよ、と気軽に答えた西崎だったが、すぐに、待てよ、と携帯を取り出し何やら操作を始めた。マネージャーからの仕事関係のメールを確認しているらしい。
「ちょっと仕事関係で食事に出てこないといけないから、その後なら、かまわないけど」
次回出演作のプロデューサーと会う予定が入っているのだそうだ。
じゃあ、一応連絡用に、とメールアドレスを交換してから、おれたちは分かれた。
それから、彼を待つ間にと近くの食堂に出かけて腹ごしらえをし、小一時間して帰ってきたおれは、携帯に一通のメールが届いているのに気づいた。新しく登録したばかりのアドレス、西崎からだった。
それには、予定より遅くなりそうだから今日は劇場の方に戻れそうもないこと、劇場の使用許可を取っていないから勝手に残らない方がいい、下手をすると警備会社に通報が行くかもしれないということが書いてあった。
最近移ったばかりの劇場なので、警備関係のことをおれは全く把握していなかった。西崎のメールがなければ、警備会社の探知機に引っかかって警報を鳴らされていたかもしれない。危ない危ない。
おれは西崎に了解のメールを送信すると、慌てて帰り支度をして劇場を後にした。
ゲネプロ当日。
結局、昨夜帰宅後一人でやってみた演技にもあまり身が入らなかったおれは、ほかの役者が来る前に舞台に立ってみて最後の悪あがきをしようと集合の二時間前に劇場に入った。
「うっわ、さぶ」
通し稽古が始まってからはいつもスタッフが先に来て道具の点検や空調の管理もしてくれているが、今日はおれが一番乗りだ。早朝の劇場の中は冷え切っていた。
分かる範囲で空調のスイッチを入れ、控え室に荷物を置きに来たおれは、控え室の棚に誰かの荷物がすでに置いてあるのに気づいた。見慣れたスポーツバッグとシンプルなコートは西崎のものだ。
「なんだ、どうしてこんなに朝早くに?」
その割にどこにも彼の姿が見えない。不審に思った。
ちょっと考えて彼の携帯にかけてみる。数度呼び出しがなってから……唐突にぷつりと切れた。その後はいくら呼び出しても繋がらない。電源が切られた様だ。
「いったい、どうしたってんだ? この劇場に来てるのか?」
通話を勝手に切るなどと結構律儀なところがある彼らしくない。胸騒ぎを感じたおれは稽古のことなど忘れ、あちこちと探し回った。
控え室のそばの、普段は使われていない半地下のレッスン室に続く階段を見つけ、下りていく。
外から施錠された防音仕様のレッスン室の前で中を覗いたおれははっとした。がらんとした暗い鏡張りのレッスン室の壁際に、蹲ったまま動かない人影が目に入ったのだ。