12.彼女の力
西崎のマンションを出て、もやもやした落ち着かない気分のままバイトに向かったおれは、バイトでも些細な失敗の連続で、さらに落ち込む羽目になった。
「ゆうき、どうしたの? 稽古で何かあった?」
ミスだらけで店に迷惑をかけどおしだった今夜のおれに、本来ならもらう資格もない休憩時間中。ちらちらと雪が舞う店の裏口の前にしゃがみ、肩を落として缶コーヒーを飲んでいるおれに、希が声をかけた。忙しい売れっ子パティシエのはずの彼女だが、わざわざおれの休憩時間に合わせて時間をとってくれたのだろう。そっとおれの横に座り込む。
無言のおれを急かすでもなく、黙って話し出すのを待っていてくれる。おれなんかにはもったいないくらいの彼女だ。
「……じつは、さ」
ため息交じりに、おれは昨夜から今日にかけてのことを希に話した。自分でもまだ整理がついていない、西崎に対してなのか、自分に対してなのかわからない強烈な焦りといらつきも。
「ゆうき、あんた、幸せだね」
支離滅裂に近いおれの話にじっと耳を傾けていた希が、ぽつんと言った。
「え?」
思わず聞き返したおれに、彼女は笑って言った。
「ゆうき、前から演劇大好きじゃない。大好きな演劇で、目標にできる人を見つけたんでしょ」
その焦りは、西崎さんに追いつきたいっていう気持ちだよ、と希は言う。西崎さんの演技力だけじゃなくて、努力家の部分も知って、尊敬してるんでしょ、彼のこと……。希の言葉に、おれは漸く自分の気持ちの正体が分かった。
この焦燥は、彼のような役者を目指し、早く彼に追いつきたいという思いか。だったら、うじうじ悩んでいないで、追いつけるように努力あるのみだ。しかも、お手本はすぐそばにいる。
「せっかく、あの西崎恵さんと仲良くなれたんだもの。ゆうきなら、彼のそばで、見習うべきことをたくさん吸収して、もっともっと素敵な役者になれるよ」
がんばれ、と笑顔で応援してくれる希に、たまらなくなっておれは彼女をぎゅっと抱きしめた。
彼女からは、ふわりと甘いバニラと、ほろ苦いカカオの匂いがした。
その途端、今までの包容力はどこに行ったのか赤くなってじたばた慌てだす彼女が愛おしくて、おれはくすっと笑いながらさらに腕に力をこめるのだった。
すっかり気分が浮上したおれは、次の日、改めてやる気パンパンの気分で稽古場に向かった。
稽古場にはすでに数人の役者と演出家が来ていた。なぜだかみんな硬い表情だ。いつも気安く話しかけてくる清水も、いつになく緊張した風におれを見つめるだけだ。
生真面目に稽古開始一時間近く前にいつも稽古場に入る西崎恵は、今日は前の仕事が押しているようで、まだ来ていなかった。
妙な緊張感の中で、やがて稽古開始時間となり、直前に到着した西崎も含めて全員が集合したとき、演出家が一人の役者を伴って姿を見せた。そして、驚くべきことを全員に告げたのだった。