11.努力の人
二日酔いがだいぶましになってきたおれは、夕方からバイトを入れることにした。
バイト先のカフェには自宅に戻るよりも西崎のマンションから向かう方が断然近い。そこで、あつかましいかなとは思いつつ、夕方までここにおいてくれるよう頼んでみた。
「別に、いいぜ」
あっさりと了承をもらったおれは、この機会に、もっと西崎恵のことを知りたいと思い、シャワーを浴びてくるから、と部屋を出ようとする彼に断って室内をあちこち見て回った。
対面式のキッチンスペースと一続きになった広いフローリングの部屋の真ん中に、西崎が寝ていた大きなソフトレザーのソファが置かれ、その正面にはおれの家のものの2倍はありそうな液晶テレビが据えられている。
壁際の棚一面にはビデオやDVDがずらりと並んでいた。天下の西崎恵だって男だよな、どれどれ……。興味を覚えてタイトルをチェックしてみたが、健康な成人男性が愛好するような類のものは見当たらず、それらは全て映画や舞台関連の映像だった。
中には出演作の稽古中に撮影したものも多く、おれは西崎の演技力の高さに漸く合点がいった。家で自分の演技を繰り返しチェックする、そんな努力の積み重ねで彼は芝居を舞台栄えのする完璧な動きへと高めているのだろう。
反対側の棚は本棚になっており、いろいろなジャンルの本に混じってかなりの量の台本が並べられていた。一冊手に取りぱらぱらとめくってみると、細かい文字でいろいろと書き込みがしてあった。
それも、おれが自分の台本によくやるような、自分の台詞にラインマーカーを引いたり、自分の動きをメモしたりといったものではない。自分の役はもちろんだが、それよりむしろ、ほかの出演者の台詞や動きへの解釈を書き込んでいるようだった。
中には、今舞台稽古と平行して撮影しているという映画や、クランクインさえ発表されていない新作映画の台本もあり、その中身も同様にすでに細かく書き込みがしてあった。
おれは台本を手にしばし立ち尽くした。
長めの髪に水滴をくっつけたまま部屋に戻ってきた西崎を、おれは質問攻めにした。恐らく、余裕のない必死の形相だったのだろうと思う。
「稽古のビデオをチェックする時の着眼点は?」
「台本に共演者の分の台詞や動きについても書き込むのは何のためか?」
「演劇関係以外でも専門書が多いのは、演技の参考にするためなのか?」
「映画の撮影や舞台稽古が始まる前の台本にすでに書き込みがされているが、いったいどれく
らい前から準備するのか?」……
おれの質問に面食らった様子の西崎は、ストップ、と手を広げた。ちょっと待ってて、と言い置いて、タオルで髪をごしごしやりながら大またでキッチンスペースに消えていく。まもなく片手に、スポーツドリンクのペットボトル二本を持って戻ってきた彼は、一つをおれにすすめ、自分の分のキャップを開けるとごくごくと勢いよく飲んだ。
一息ついた後、西崎はおれがバイトに出かける時間まで、ひっきりなしの質問に辛抱強く答えてくれたのだった。
マンションを出てから、バイトにどうやって向かったのか覚えていないくらい、おれの頭はフル回転で思考していた。
今回の共演で、立ち稽古までに全て台詞を覚え、ぶれない演技を見せる彼の力を見せ付けられても、今までのおれは彼との才能や経験の差だと思っていた。西崎恵は恵まれた、天才なのだ……そう思い込もうとしていた。
だが、それは大きな思い違いだったのだと今日初めて理解できた。
演技力の高さを見れば、西崎はやはり天才なのだろうが、努力をしていないわけではない。現場には一切台本を持ち込まない彼は、周到に家で準備を重ね、自分自身の演技を追及してから稽古に臨んでいたのだ。むしろ、人に見せないだけで人一倍努力を重ねているのだということがはっきりと分かった。
『お前の稽古につきあうよ。おれの方は完璧なんだから』
そんな彼の台詞も、演技を完璧にするための努力に裏打ちされたものだったのだろう。
自分は、まだ納得がいく演技ができていないというのに、彼のような努力をしてきただろうか? そう思うと、おれは猛烈な焦燥感に駆られて仕方がなかった。