ジャニスが【奥様】に……。
今までジャニスとセイムスは別々のベッドで寝ていました。
……今日からは?
普通なら玄関先で待つ妻の元に、帰ってきた夫は「ただいま」と言って帰ってくるだろう。
そう言われたら「おかえりなさい」と出迎えて妻は食卓等へと誘い、今日一日に起きた様々な事を聞いたりするだろう。
ジャニスはそんなことを夢想していたのか、と聞かれたら……ぼんやりとそうなのだろう、と思いつつ正確に事柄を想定していた訳ではない。
……で、あるからこそ、玄関先で出迎えたセイムスが息を切らしながら……戦場の匂いを纏ったまま現れたのならば、
……ジャニスの中の【邪剣】が顔を覗かせた、としても何一つ恥じることもないだろう。
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玄関の扉を開けてジャニスはセイムスを出迎えた。満面の笑みを浮かべ、珍しく耳にリボンまで付け、薄くながら口紅まで塗って……ジャニスは彼を待っていたのだ。
「シム、おかえりなさいッ!!疲れたでしょ……っ!?」
ジャニスは彼の肩越しに怪しい人影を見た瞬間、自分でも驚く程簡単にスイッチが入ったことを自覚し、そして……満足した。
あぁ……まだ、私は錆び付いていない……私の中に唯一残っている【邪剣】の欠片は……消え失せてはいないのだ。
「あの、ジャニス一体……」
セイムスの声を片手で制し、台所に駆け込むと贈り物のギルモアの包丁を手に取ると踵を返して玄関へと舞い戻る。
呆気に取られるセイムスを他所に、ジャニスは知覚全てを全開にして扉の向こうを探る。一瞬で時間が引き伸ばされ、対価として視野が一気に狭まるが、そんな細かいことは気にしていられない。
指先に触れる包丁のひんやりとした刃先……その先端の滑らかな曲線は、きっとセイムスの使っている片手剣と同じであろう。そう思うと普通の夫婦より更に深い絆で結ばれているように思えてならない……まだ実際に結ばれては……いないけど。
だからこそ……彼女は二人の未来の為に、
「あの、ジャニス?聞いてる?」
だから……えっと、二人の為に……、
「ただいま!!聞いてますか~ジャニス?」
……ジャニス?あれ?……セイムス?
「さっきからどうかしたの?……包丁持って……昔を思い出してたの?」
「どっ!?どうもしてないよッ!!……あ、セイムス……お疲れ様……」
後ろから見慣れた顔のアラミドとリューマ、そして酔っているとおぼしき見知らぬ鉱人種の男性が、心配げにジャニスとセイムスのやり取りを眺めていた。
……しかし、どうすればこの面子でジャニスは我を見失ったのか?それを解明するには少しだけ、時間が必要なのだが。
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セイムスとジャニスは食卓を挟んで話し合い、どうやら酔って絡むドルクを煩わしく思ったリューマが、彼を肩車して連れていたことに端を発した……と判り、ジャニスは暫し呆然とする。
「……そ、それじゃ私の勘違い……?」
怪しい人影が居もしなかったことで、彼女は先程までの万能感が萎んでいき、猛烈な劣等感に押し潰されそうになる。
(…………一生懸命、疲れて帰ってきたシムをもてなそう、って思ったから……久し振りにお化粧もしたし……リボンまでっ!!……変装以外で着けたことなんて間が空き過ぎて覚えてない位だったし……)
料理もまだ満足に出来なくて、家事も半人前……おまけに今まで出来てきた筈の生存技術まで片手落ち……。涙が出て来る…………ッ!?
不意に頭に載せられたセイムスの手が、ジャニスの耳を優しく撫でる。
「……ジャニス、リボン似合ってるよ?」
その瞬間、ジャニスは躊躇う事無く、セイムスの胸へと飛び込んでいた。彼の革鎧からは今は乾いた血の匂いが薄く漂い、手入れすることを促して来るが、それすらも何処か懐かしく、遠く感じてしまう。
……そう、私にはセイムスが居てくれるんだ……独りぼっちじゃない……。
そう思うと涙が止まらなくなり、ジャニスは声をあげて泣き始める。止めどなく溢れていく涙もやがて枯れ果て、彼女が泣き止むまでセイムスは頭を撫で、静かに彼女を抱き締めてくれた。
「……もう平気かい?落ち着いた?」
「…………んぐ、もう……大丈夫……ゴメンね、シム……こんな私で……ホント、ゴメン……」
彼から離れたジャニスは、忘れていた事を思い出し、慌ててセイムスに向かい合うと、少しだけ俯いて言葉に詰まっていたものの、
「……し、シム……おかえりなさい!!」
人目を憚る事の無い、二人の我が家である。ジャニスは躊躇うこと無く改めてセイムスに抱き着くと、
「…………無事に帰って来るおまじない、ちゃんと効き目有った……?」
「うん!ちゃんと効いたよ!!……でも、危なかったんだよ?……最初は……」
言葉を交わしながら彼の革鎧を脱ぐ手伝いをしつつそれを預かり、湿らせた布を用いて汚れを拭き取ってから保湿の油を擦り込み、仕上げの磨きを掛ける。
手元を見なくても身体は自然に動き、目はセイムスと合わせたまま手入れを続けるジャニスの姿に、セイムスは彼女の存在の大きさを改めて感じていた。
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まだ上手に料理はこなせない。だからついつい出来合いの品も混ざってしまうけれど、彼から得る愛情に少しでも応えてあげたい。
そう自然に沸き上がる気持ちを自覚しながら、ジャニスは彼の好物を揃えた食事を配りつつ、話に耳を傾けていた。
「……その時、頭の中に君の顔が浮かんで……絶対に帰らなきゃっ、て思ったから……力が湧いてきて……何とかなったみたいだったよ」
「うんうん!それがおまじないの効果だよ!あ~、よかった……でもね?……そこ、カミラさんにもグラスさんにも……最初から見られてたみたいで……」
「うっ!?……そ、それ本当……!?」
慌てて言葉を濁すセイムスの姿に、思わずジャニスは笑ってしまう。でも……物凄く……幸せを感じていた。
あっと言う間に時は過ぎ、そろそろ寝る時間を迎えた二人だったが……ジャニスは意を決して、セイムスに言ってみる。
「……今夜は、一緒に……寝ませんか?」
それは、ジャニスが初めて自分を【妻】として、セイムスに認めて欲しい、そう願って自然と口に出た言葉だった。
明日からは……一緒に寝られるのでしょうか?物語はやっぱりゆっくりと進んでいきます。




