【緑の青葉亭】
話は急展開いたします。何故なら……彼と彼女の物語に一区切りが訪れるのですから。
「もっと乗ってってよかったんだがなぁ……次の街には暫く居るから、何かあったら遠慮なく言ってもろて構わんだが?」
「おねいちゃん、またのってくぇるんでしょ?」
孫を抱いたキャラバンの主人と、そしてその孫のセスナは名残惜しげにジャニスの袖を掴みながら、朝の町外れまで馬車に同席していた。セイムスはもう一台の方に乗っていたのだが、何故そうなったかは割愛する。些細なことであったので……。
「ん?……そうね……セスナくんが、お姉ちゃんのお耳を掴まなくなったら……かな?」
「え~っ!?だめなの~?ふにゃふにゃしていーのになぁ……」
「あ、アハハハハ……ダメなものはダメだから!うん、もう……!」
不可抗力で回避不能な状態を引き起こす耳タッチが原因で、離れ離れの二人だったが本筋とは関係ない。
(……《緑の青葉亭》かぁ……お酒を出す店……だよな?でも、私もセイムスも……たぶん飲まないから訝しげに見られないかな……?)
そう思いながら、ジャニスは馬車の行程が後僅かなのを感じつつ、隣のセスナを仕返しに擽り始めるのだった。
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「本当にお世話になりました……ありがとうございました!」
快活に声を掛けるセイムスは、まだ名残惜しげにジャニスに抱きついていたセスナが、母親の腕に仕方なく戻りながらも手を振り離れていく様子を見ていた。
「……さぁ、行こう……もうすぐ日が暮れる。あまり遅い時間になると、町の中で宿を探すにしても場末の木賃宿しか空きが見つけられなくなる……」
「……わ、判ってるわよ……そ、それにもう絶対に会えなくなった訳じゃないし……」
別れを惜しむジャニスだったが、今の目的の店が何処に在るのか判っていない今は、兎に角は先を急ぐしかなかった。
幾つか酒場の隣接する界隈を見て回ったが、それらしき店名は見当たらなかった。勿論素面の住人らしき者や酒を扱う商店の主人に訊ねてみたものの、誰もそのような店名に聞き覚えのある者は居なかった。
「……変だな……酒を扱うなら、卸しをしている酒屋が必ず在るし、それを辿るのが簡単だと……思ったのに……」
セイムスはそう呟くと、所在無さげに立つジャニスに近付くが、彼女の背後から突き出された武骨な腕が胴へと絡み付き、抱き上げようとしていた。
「キャッ!?何なのよアンタッ!!」
ジャニスが振り向くとそこには、赤ら顔の禿げた男が下卑た笑いを浮かべながら、予想外の上物に出会えた幸運に興奮を露にしつつジャニスの背後に立っていたのだ。
「ああぁ~ッ!?おまえこそ……んな所で突っ立ってんなら【立ちんぼ】なんだろーがよぅ!!只の味見だ味見!!じっとしてりゃ……っ!?」
ジャニスが力任せに振り払おうとした男の腕力は思いの外強く、女の力では敵いそうになく、しかし人を殺める技を用いるならば、気道を指先で潰せば……不可能ではない。だが、もしそれに失敗した暁には……相手の殺意に気付いた男がどんな手段を用いて彼女を無力化させようとしてくるのか……想像しただけでジャニスの身体からは力が抜けてしまい、グイグイと路地裏へと引き込まれそうになっていた……。
……だが、
それは、その場に誰も居なければ、である。
「……おい、お前……俺の大切な者に何をしている?」
地の底から沸き上がる障気そのものの禍々しさを孕んだ声が、路地裏へと導く男に投げ掛けられ、
「……うるせぇ!!ヒトの邪魔をするんじゃねぇぞ!このクソ餓鬼がぁ……っあぁ!?」
男の肘がぐきり、と音を上げて力無く垂れ下がるのと、その腕からジャニスがセイムスに抱き寄せられるのは、ほぼ同時だった。
セイムスはただ、男の肘の関節を脇から摘まみ、強く握って軟骨と腱を緩ませただけであったが、一度弛んだ関節は直ぐには戻らず、結果的に脱臼させたのだ。
「ぎゃあああああぁ……何しやが……がごぉ!?」
「……煩くて臭い口だな?……あ、閉じなくなっちまったか……」
セイムスは片手でジャニスを抱いたまま、もう片手の掌底で男の顎の先端を横凪ぎにすると、かこっ、と小気味のよい響きを上げながら男の顎が関節から外れて垂れ下がる。
「があぁら、がかあぁいぃ……いぎぃっ!?」
「……殺しはしないから、早く消えろ……ただし、一分以内で、だが……?」
セイムスは背後にジャニスを庇いながら、男の前に立つ。背後のジャニスからは見えなかったが、眼前の男の眼に映っていたセイムスの顔は、殺意に塗り潰された黒い硝子球さながらの暗闇が一対備わった、死神そのものだった……。
「ひ、ひいいいいぁああ……あっ!!」
形振り構わず路地裏に散乱するゴミを蹴散らしながら、男は命からがらの体で逃げ出して行った。
「あ、あの……ごめん……油断してて……か、身体が急に……力が入らなくて……」
力の抜けきったジャニスは詫びながらセイムスから離れようとしたが、彼はそんなジャニスを直ぐに手離すことが出来なかった。
小刻みに震えながら腕の中に収まるジャニスは、彼より頭半分の背丈であり、その身体から腕に伝わる温もりがセイムスの中に渦巻く得体の知れない情念を掻き立てていき……、か細く荒げていた呼吸を戻そうとゆっくりとした動きの鎖骨周辺からは、彼女の発する淡い汗の香りが、彼の脳を刺激する。
「……せ、セイムス……あの、ちょっと待って……ねぇ……ってば……!?」
見つめるジャニスの顔に、セイムスの顔が近付いていくのを言葉で制しようとするジャニス……その抵抗も終わりを迎えるかと思う程……両者の顔が接近した瞬間……、
「……なんだよ、アンタら……何でヒトの店の前で乳繰り合ってんだい?」
二人より若干ながら歳上の女性が、背後の路地に在った扉の隙間から声をかけた瞬間、二人は慌てながら離れていき、
「……あ、いや……これはその……あれ?……その扉の【屋号】って……」
「ん?何だよ……客か?……うちの【緑の青葉亭】に何か文句でもあるんか?」
……ジャニスとセイムスは、結局無言のまま、開かれた扉の向こう側へと吸い込まれるように消えていくと、路地裏に静寂がまた、訪れていった。
さぁ、あと一息です。




