そしてジャニスはセイムスと
少々バタバタとしたお話が続きますが、ジャニスはグラスと、そしてセイムスはナノと共に市場を歩き、そして何かに気付くのです。
……さて、と荷物を担ぎ直したセイムスは、目の前をででっ、と走っていた筈のナノが、突然立ち止まると急に左右をふい、ふい……と不規則に中空を見詰め、それから暫く後からは、さっきまでの勢いを無くし薄氷を踏むように静かに、そしてゆっくりと歩き始めたので……、
「ナノちゃん、どうかしたの?急に静かになって……おトイレ?」
「……しっ!ナノ、いま……とってもしんけんなの!!」
尋ねるセイムスを制しながら振り向いたナノの表情は、幼い口調とは裏腹の……【追跡者】そのものであった。
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市場の軽食であっさりと済ませた二人は、お茶しながら話を続けていた……勿論、ジャニスとセイムスの呼称問題について、だった。
「……いつもですか?……せ、セイムスさん、って呼んでます……(違うけど……)」
「うっ!?……まさかのサン付けなの?……も、もしかしてセイムスって……亭主関白ぅ!?」
「ち、違いますッ!!べべべ別に亭主関白とかそんなんじゃなくて……その……どう呼べばいいかその……判らなくて……」
言葉に詰まりながらジャニスは、しどろもどろになって答えようとするが、思い返してみると彼のことは【剣聖】か、アンタねぇ……や、お前ッ!!としか呼んでなかったかも……と不安になる。それは例え偽の夫婦だったにしても、実に不自然極まりないことに思えた。
二人の時は、彼のことを名前で呼ばなくても、セイムスから「ジャニスは……」とか、「……で、ジャニスなら……」等と普通に問い掛けられ、受け答えだけで会話が成立していた。
……な、何だか不自然な感じがしてたまらない……何なんだろう、この違和感は……?
「ふむ……ジャニスちゃんは真面目過ぎて……彼のことを愛称や略称で呼んだことがない……つまり、そーゆー訳なんですねぇ?ふむむ……真面目なジャニスちゃんですね……うん!そーね!」
まるで推理するような口振りだったグラスは一瞬考えた後、突然納得したかのようにジャニスの前でぽん、と手を打つと、
「セイムスだから、短く……《イム》とか《シム》とか呼んでみたら?それとか二人だけの愛称を決めてみるとか!!うわぁ……ラブラブぅ~♪」
最後の辺りではくねくねしながら嬉しそうに話し出すグラスに、若干の不安を感じるジャニス。だが彼女は言われてみると確かに悪くはないかも?と思い始め……、
「……イム……ううん……シム?……シムぅ……シムゥ……うん……シムかぁ……」
市場の往来のど真ん中で、シムシムと繰り返し始める。
「や、別に今すぐ決めなくちゃいけない訳じゃ……ねぇ、ジャニスちゃん、聞いてますか?」
「シムシム……シム!うん、いい感じかも!!今日からセイムスをシム、って呼んでみますッ!!」
「……あ、そうなの?ジャニスちゃんがそれでいいなら別に……あの、練習とかしなくていいわよ?」
「シムッ!!シムッ!!はい!シムッ!!そこのシムッ!!右見てシムッ!!左見てシムッ!!」
突然意味不明なスイッチの入ったジャニスは、ビシッ、ビシッ!!とポーズを決めながらその場で九十度ターンを繰り返しつつ、愛称呼称訓練を開始し始めた。日頃から厳しい訓練と鍛練で培ってきた集中力は、市場のど真ん中だろうと何処だろうと構わぬ鋼の精神力を育み、彼女に羞恥心等の大切な心をガン無視する弱点となっていた……つまり、確実に【痛い娘】だったのだ。
「あわわわ……どうしよ?ジャニスちゃん壊れちゃった!……こうなったら……よし、召喚しよう!!」
あたふたしていたグラスだったが、瞬時に冷静さを取り戻すとひゅっ、と息を思いっきり吸い込んでから、唇に輪にした指を宛てると、
…………ぴいいいいいいぃぃ~~ッ♪
澄んだ高音の指笛を鳴らして何者かに向かい、合図を告げたのだった。
「シムッ!!シムッ!!シムぅッ!!」
「……なんで毎回、右腕を振り下ろすの?」
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「……やっぱり!こっちでし!!」
「どうしたの、ナノちゃん!さっきから何を探してるの!?」
ナノは明らかに何かを探しながら、時々鼻を鳴らせて匂いを嗅いでは考えて、そしてセイムスが呼び掛けても直ぐには返事しなかったのだが、
「ママがよんでた!!さっきゆびぶえきこえたの!!」
「えぇっ!?ゆ、指笛……?それって、大切な合図とかなの?」
「うん!!ゆびぶえピぃ、はすぐきて!で……ピぃピぃ、は……もうかえるよ!おくれたらごはんぬき!!のあいずなの!」
ナノ曰く、今回の指笛は一回だったけど、聞いたことのない長さだったから何かを意味していたのかもしれず、だからこそ慎重且つ速やかに戻るべき、らしい。
「じゃあ、俺が肩車しよっか?割りと速いよ?たぶん……」
「……よし、ナノちゃんは、おにーたんのかたぐるまにのることにしよう……」
何故か重々しく頷きながらそう言うと、よいしょよいしょと足から腰、そして肩へとよじ登り、肩の定位置へと納まると、満足げにセイムスの頭をぽんぽん、と優しく叩いてから、
「……にいたん、よろしくやってくれたまえ……!」
ビシッ!と前方を指差し、しゅっぱつしんこーっ!!と叫んだ。
「……よしっ、しっかり掴まってろよ!!……ふぉおおおおぉ~ッ!!」
ぐぅん、としゃがみ込んだ瞬間、斜めになった姿勢を維持しながら猛然と駆け始める。つまり、肩の上のナノが風を切る最先端になってセイムスの行き先を指示する役割を担っていくのだが、
「きゃははははははは~♪はやいでしっ、はやいでしっ!!」
……もう、物凄く嬉しそうに笑っていました!……ナノちゃん、大丈夫……?
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「……おっ!?もう来たっ!!……って、まさかの肩車で全速ダッシュ!?」
「うおおおおおお~ッ!!」
「きゃはははははははぁ~♪あ、ママだぁ~♪」
「シムッ!!シムッ!!シムッ!!シムッ!!」
……まぁ、あれだ。何だこりゃ?どうしてこうなったんだろうか……?
「ママぁ~!!おりゃあっ!!」
「……ほいっ!!お帰りナノ!!」
全速力のセイムスから射出されたナノは、無事にターゲットの柔らかく弾力性に満ちたポイントに着地すると、がっしと両脇に手足を回してしがみつきながら、
「ただいまっ!!ナノ、ちゃんとなびげーと、してきたよ!!」
「うんうん良くやったわねぇ♪偉い偉い!」
ナノはむにゅむにゅと頬っぺたをくっつけながら報告を済ませた後、しばらく安心するのか無意識にグラスの胸元に顔を埋めていたが、ぷはぁ!と顔を上げて息継ぎをしてから、
「ママっ!!そう!あのあいずなーに!きいたことなかったの!!」
「あ、そうだった!あれはね?新しい合図!!《みんな集まれ!》の合図だったのよ♪」
尋ねるナノに答えるグラスだったが、セイムスの耳には届いていなかったので、たぶんアラミド家での、という意味だったのだろう……セイムスは、そう納得することにした。
「……あ、そうそう……セイムス、ジャニスちゃんが言いたいことあるんだって、聞いてあげてくれない?」
「……シムッ!!あ……せ、し、……しぃ……、」
ビシッ、ビシッ、と音がなりそうな手刀を振り下ろしていたジャニスは、現れたセイムスにやっと気付くとさっきまでの勢いは綺麗に霧散し、繰り返していた言葉もしおしおと音を立てて萎れていった。
「どうしたのジャニス?……何か、言いたいことがあるって……」
「…………あの……その……せ、せ、セイムスのこと……もう少し、親密な感じで呼びたくて……」
「……!!」
そうジャニスが言うと、セイムスの心の中では様々な思いが駆け巡っていた。
(……親密な言い方!?今までずーっと名前で殆ど呼ばなくても会話が成立してたことに気付いたの?今!?……うーむ、箱入り娘の剣の達人って、みんなこんな感じなのか?)
いや、君の推測は最初以外はこんな感じも何もないから。箱入り娘の剣の達人なんて稀少種も甚だしいからね?あとその辺りはさっきジャニス自身が回想してたから被ってるし……。
(……まぁ、ジャニスが親密な感じで、と言うことは……言うことは……な、何かあるのか?)
……セイムスは経験したことがないので、ジャニスの心の機微に気付けず悶々としていた。その様子は端から見ると、モジモジするジャニスとモジモジするセイムスが向き合っているだけだった。
「……ママ、のどかわいた。」
「ん、たぶん暫く動かないわね……よし、そこの果物屋さん見てこよっか!」
グラスはそう当たりをつけてから、ナノと近くの果物屋に行きオレンジを幾つか買うと、戻ってから皮を剥き、二人で酸味の強い果汁で喉を潤した。皮膜の下に隠された細やかな果肉は、まるで宝石のように瑞々しく、薄皮を取って外側へと反らせば鋭いオレンジ色の剣山のように屹立するのだが、口に含めばやや酸味が有りながらも甘く弾ける果汁が口に広がり……、
「ママ、もういっこむいて!!」
「はいはい、ちょっと待っててね~♪あ、やっとこ動いた……」
「……あのっ!!せ、セイムス……これからは、あなたのこと……シム、って、たまに……呼んだりしても……いい……?」
「……お、おぅ……シムか……いいよ?良く判らないけど、短くて呼びやすそうだし」
「……っ!!う、うん!……これから、たまーに、シム……って、呼ぶからね?」
膝の上にナノを載せながら、グラスは市場の噴水脇に腰を下ろし、二人でオレンジを食べながら二人を見守っていたのだが、結局二個目を二人で食べ終えた頃にやっと交渉が成立したらしい。まぁ、悪くはない。良くもないが。
「ママ、あれなーに?」
「はい、オレンジ剥けたわよ?……うーん、恋愛下手同士の不慣れなコミュニケーションってとこね、見たところは……」
「ふーん……それって、いいことなの?」
そう尋ねるナノの顔を見ながらグラスは暫く考えていたが、直ぐに答える。
「いいことよ?誰だって最初は初めてなんだから……それに二人とも、全然慣れてないことをしてるんだし、みんなで見てやらなくっちゃ……危なっかしくて堪んないのよ♪」
「ふーん……おとなもたいへんねぇ……」
そう言うとナノは、グラスの剥いたオレンジを口へと運んだ。その房はたまたまだったのか、かなり酸味が強くて酸っぱかったので、ナノはうへぇ……と舌を出しながらぎゅぅ、と目を瞑って堪えるしかなかった。
……市場には今日も河からの涼しげな風が吹き、初夏に入る直前の昼下がりとしては悪くない爽やかな陽射しであった。
少しだけ作者風のいつもの感じになりました。ま、たまにはね……それではまた次回、ゆっくりとゆっくりと進んでいく物語を、宜しくお願いします。