6.背伸び
期末試験が無事に終わり、春休みまでは試験返却を残すのみとなった気楽なある日、真兄から映画に誘われた。
「真兄、この間はごめんね」
「ん? この間って?」
「その……余計なこと聞いたかなって」
チケットを買う列に並んでいる間、真兄を見上げて言うと、真兄は笑った。
「なんだ、そんなことか。一ミリも気にしてない。答えたくなければ答えない」
「そっか。ならよかった。でも、今日のポップコーンはわたしに買わせてね」
「おっ。サンクス」
「っていってもチケット代は真兄が出してくれるんだから、全然意味ないんだけど」
「いや、値段の問題じゃないよ。まさか茜から奢ってもらう日がくるとは」
何となく照れ臭くなってえへへ、と笑う。真兄も嬉しそうに笑みを返してくれた。
映画は真兄チョイスの洋画で、ところどころクスりと笑えるヒューマンドラマだった。全編フランス語だったけど、真兄はフランス語がわかるので、字幕では拾い切れていないらしいセリフで笑っていた。
映画を見終わって街を歩いていると、真兄が唐突に「ちょいここ入っていい?」と言って路面店に入って行った。
店内は穏やかな色の間接照明で照らされていて、店員さんもお客さんも小声で話している。母の買い物に付き合って入ることはあっても高校生が気楽に足を踏み入れるようなお店ではないので、少し緊張していた。
「倉持さま。お待ちしておりました」
怖じることなくスタスタと歩いていく真兄の後ろで小さくなりながら、奥の部屋に通された。
真兄が何か買い物をするのだろうかと不思議に思う。メンズを取り扱っているイメージはないのに。
「こちらでよろしいでしょうか」
すぐに店員さんが持ってきてくれたバッグを見て目が点になった。
「茜。どう?」
真兄が何か聞いてくれているけど、何が何だかさっぱりわからなかった。
「茜、おーい、生きてる?」
目の前には、ずっと憧れていたバッグ。
「明後日、十七歳の誕生日だろ。プレゼント」
嬉しくて悲鳴を上げたのは、初めてだった。
「あー……まだ耳が痛ぇ」
お店を出て歩きながらも耳を押さえて迷惑そうな顔をする真兄に、もう何度目かわからない「ありがとう」を言った。
「いいってことよ。ホワイトデーと誕生日の合わせ技
一本な」
「どうしてこれが欲しいってわかったの?」
「写真をスマホの待ち受けにしてんの見えたから」
「ゼンデイヤのやつね!」
真兄の腕に飛びつきながら言った。
真兄は迷惑そうな顔をしたけど、こういう顔をするときは全然迷惑がっていないことを、わたしはちゃんと知っている。
「ゼンデイヤ? 何だそれ」
「ハリウッドのティーンセレブ。あの写真で、このバッグ持ってた女の子だよ!」
「ふぅん」
ガサガサ、肩から下げた大きな紙袋が音を立てる。
真兄が持ってくれるというのを「自分で持ちたい」と断ったのだ。
バッグは箱に入っているから、紙袋を覗いても見えない。さっき見たばかりなのに、もう開けたくなった。
「あの色ね、限定色なんだよ」
「らしいな」
「知ってたの?」
「店の人に聞いた。オイ、くっつくな。暑い」
真兄は少し照れているらしく、わたしの手を振り払いながら言った。たしかに随分暖かくなったけど、まだ暑いっていうような季節じゃないのに。
「もしかして、取り置きにしといてくれたの?」
「取り置きっていうか、日本発売の日に買いに来た。んで、店に置いといてもらった。問い合わせたら『たぶん発売初日で売り切れます』って言われたからな」
「そうなんだ」
「一緒に取りに来る方が嬉しいかと思って」
「嬉しいよ! ドキドキした。本当にありがとう」
「おうおう。喜んでもらえて何よりだ」
「わたしが別のやつを欲しいって言ったらどうするつもりだったの?」
「言わないだろうっていう自信があった」
「自信満々だね」
「今更だろ」
真兄は背が高いので、ときどき街行く人が真兄を振り返っていた。
たぶん、背が高いだけが理由ではないと思うけど。奈津美を見て振り返る人と同じ。私の周りには、どうしてか容姿の整いすぎている人が多いのだ。
「それにしても、待ち受けの写真を見ただけでよくブランドまでわかったね。さすが真兄」
「いや、俺はわかんねぇよ。茜の待ち受けを写メって、友だちに聞いた」
「そうだったんだ。詳しいお友だちがいるの?」
「ファッション雑誌の編集してる奴がいてな」
聞かなかったけど、絶対に女の人に違いない。ただの友だちかどうかも怪しい。もしかすると元カノかもしれないし、そうでなくても未来の彼女かもしれない、とひっそりと思った。
少し意地悪なことを考えたせいか、ぴう、とビルの間を抜けてきた風に首元をさらわれてくしゃみがでた。
「……っくしゅん」
「風邪か?」
「ううん。平気」
そう言ったけど、真兄はジャケットを脱いで肩にかけてくれた。
「ほれ、着とけ」
「ありがとう」
それからも何度も何度もお礼を言って、最後には「さすがにうざい」と言われ、ようやく口をつぐんだ。
家に帰ってからも、バッグを眺めてウキウキした。バッグが紫だから、補色の黄色を合わせてもいいかもしれないし、寒色で淡くまとめてバッグで引き締めるのもいいかも。
ファッション雑誌をめくりながらそんなことをあれこれ考えていたら、落ち込んでいたのが嘘みたいに元気になっていた。
つい二週間前は悲しくて仕方なかったのに、我ながら単純だ。
真兄はきっと、わたしが単純だとわかっていてこのプレゼントをくれたんじゃないかな。
そんな気がした。
***************
ほどなくして始まった春休み、初日に真っ黒のストレートだった髪の毛を栗毛に染めてパーマをかけた。パーマも染毛も校則で禁止されているけど、長期の休みの間ならおとがめはない。両親は驚いた顔をしていたけど、「春休みが終わるまでには戻すから」と言ったら、叱られはしなかった。
「俺が昔から色々やらかしたおかげでうちの人たちは免疫ついてるからな。ちょっとやそっとのことじゃ驚かないだろ」という真兄の言葉はあながち間違っていないのかもしれない。
それから、大人びた服も買った。体にぴったりと沿う、つるんとした生地のワンピースだ。
数日後のバイトに、そのワンピースを着て、買ってもらったばかりのバッグを持って行った。奈津美にコーディネートの相談をしようと思ったのだ。
集合場所に着くと、集合時刻の二十分も前なのにすでに鳥飼さんが立っていた。
深呼吸をし、歩み寄る。
「おはようございます」
鳥飼さんは驚いていた。
「あ……倉持さん。誰かと思った。髪……変えたんだね」
「はい」
それきり会話はなかった。
みんなが集まるまで、ただ並んで立っていた。
二つ並んだ影は近いのに、心は遠い。
バッグの持ち手をぎゅっと握りしめた指の感覚がなくなった頃、集合時刻きっかりに西さんに伴われてやって来た奈津美は、開口一番に言った。
「その頭どうしたの?」
「気分を変えようと思って」
奈津美はそれ以上何も聞かなかった。代わりに「よしよし」と言いながら頭を撫でてくれた。
――大人っぽく見えるかな。
美容院でも、服を買う時も、気になったのはそのことばかりだった。美容師さんもショップ店員さんも、「大人女子ですね」と褒めてくれた。
スタッフさんたちからも「どうしたの? 今日は大人っぽいね」とか「あれ、このあとデート?」と声をかけられて嬉しくなった。
休憩時間には、奈津美とバッグの話で盛り上がった。
「これ、買ってもらったの?」
「うん。誕生日とホワイトデーだって」
「いいなぁ。お兄さん?」
「ううん」
「ってことは、真吾さんかぁ。さすがのチョイス」
オシャレな奈津美に褒めてもらえるのは嬉しくて、ちょっとこそばゆい。
「それでね、奈津美にコーディネートを考えてほしくて。色がこれだから、奇抜な感じにならないような合わせ方を知りたいなぁって」
「あ、それなら任せて。せっかくだから後でスタイリストの亀田さんにも相談してみよう。プロの意見はやっぱりすごいよ。思いもよらないようなアイデアがポンポン出てくるんだから」
「うん!」
たぶん奈津美は何かを察してくれていた。
写真集の撮影も、それとは別に雑誌のタイアップ広告で鳥飼さんの撮影が入ったときも、休憩時間の度、わたしの隣には奈津美がいた。そしてふたりでコーディネートを練った。
奈津美は何も聞かずにいてくれた。
――いい友達を持ったな。
その日も朝からバイトだった。
ようやく終わり、駐車場で車止めのコンクリートブロックに座って真兄の迎えの車を待ちながら、心は奈津美への感謝の気持ちでいっぱいだった。
四月の奈津美の誕生日にはお礼もこめて何かとびっきりのプレゼントをしよう。
バイトでもらったお金で買い物に行こうとか何を買おうかとか、そんなことをひとり考えていたら、すぐ隣に停めてある車の向こう側から声がした。
「ほい、あげる。大好きなエナジードリンク」
「あぁ……ありがとう」
明るい西さんの声と、静かな鳥飼さんの声だった。
わたしは座り込んでいたから、向こうからはわたしの姿は見えていないようだった。
「で? ここんとこ、シケた顔してんのは何なの?」
「なんでもない」
「当てようか。恋でしょ」
「……バレバレか」
「何年の付き合いだと思ってんの」
真兄がわたしに言ったみたいな言葉だった。
学生時代からと言っていたから、大学生の頃からの知り合いだったのだろうか。それなら本当に、わたしと真兄くらいの長い付き合いということになる。
落ち込んでいることに気付いてしまうところも、ちょうど真兄とわたしみたいだった。
でも、真兄とわたしは従兄妹だけど、西さんと鳥飼さんは違う。
もと、こいびとだ。
元気になっていたはずの心が、じくじくと痛みだす。
できかけていたかさぶたを剥がされたみたいだった。
「守、気付くの遅すぎ」
――守。
鳥飼さんの下の名前だ。
大好きな西さんの、大嫌いな一言だった。
答えた鳥飼さんの声はかすかに震えていた。
「気づいてはいた。その上でこの道を選んだはずだった。でも、これほどとは。失って思い知った」
喉の奥に何か引っかかってるみたいに、声が潰れていた。
「自分の理性を信用してた。でも、全然ダメだ。忘れられないし、諦められない」
「……守のそんなに苦しそうな顔、はじめて見た」
「俺だって、自分の気持ちが手に負えないのなんて初めてだ」
西さんは、鳥飼さんの恋の相手が西さん本人だと知っているのだろうか。知っていて、それでも「守」と呼ぶのだろうか。他の人がいるときは「鳥飼さん」と呼んでいるのに。
「手を伸ばせば手に入れられる場所にいるんだから、本気で欲しいなら手を伸ばせばいいんじゃないの? お互いにそれを望んでるのに、気持ちを抑える必要なんてないでしょう。守は真面目すぎよ」
「沙理奈……」
西さんの「守」よりも、鳥飼さんの「沙理奈」の方が堪えた。
西さんは結婚しているのに。
鳥飼さんが西さんに手を伸ばすのは、許されないことなのに。
〈もうちょいで着く〉
真兄からのメッセージを受け取って立ち上がろうとしたけど、立ち上がれなかった。今立ち上がったら見つかってしまうというのもあったけど、それ以前に足にどうやって力を入れるのか忘れてしまっていた。
〈駐車場の白いバンの隣にいるね〉
何とかそう返信した。
スマホの待ち受け画面のゼンデイヤが揺れ、ぼろぼろと涙がこぼれた。
何に対してかはわからなかった。
もう結婚している西さんに手を伸ばそうとする鳥飼さんに対してなのか。
その手を受け容れようとしている西さんに対してなのか。
それを理解できない自分に対してなのか。
――大人はちっともわからない。
膝を抱いて、そこに頭を入れて丸まった。
声が出そうになるのを必死でこらえた。
急に視界が明るくなって顔を上げると、真兄の車が駐車場に入ってきたところだった。
ヘッドライトがまぶしくて、真兄の顔は全然見えなかった。
バタン、とドアの開く音がした。
「茜!」
怒鳴るような声が聞こえた。
砂利を踏む足音が近づいてきた。
「どうした。立てるか?」
耳元で声がしたと思ったら、ぐいと体を引き上げられた。
真兄は大きくて力持ちで、子どもなわたしなんか軽々持ち上げられてしまう。
「茜、どうした」
「なんでもない、なんでも」
「怖い目に遭ったわけじゃないな?」
もう声も出なくなって、こくこくとうなずいた。真兄の首にすがりつくと、ぽんと頭を撫でられた。
「帰るぞ」
ボロボロこぼれる涙が、真兄の肩を濡らす。
「うっ……」
「大丈夫だ。大丈夫だよ」
背中を撫でる手があったかい。
真兄は車に向かって歩いていて、わたしは後ろ向きに抱き上げられていたから、肩越しに鳥飼さんと西さんが立ってこちらを向いているのが見えた。
顔を伏せた。
車に乗って走り出してすぐに、西さんから電話がかかってきた。スマホを放り投げたくなったけど、バイトに関することだったら、と思い直して何とか電話に出た。
「……はい」
出るなり、西さんがまくし立てた。
『茜ちゃん、平気? 大きな声が聞こえたからびっくりした。抱えられてるの見て、一瞬誘拐かと思っちゃって』
電話の向こうには、鳥飼さんもいるのだろうか。
「あの、大丈夫です。迎えに来てくれただけですから」
『あの人……お兄さん?』
「いいえ」
それ以上声が出なかった。
西さんのことは、ついさっき大嫌いになったはずだった。
それなのに、優しい声で心配してくれるなんて、ずるい。嫌いになれない。
『……わかった。気を付けて帰ってね』
「……はい」
電話を切るまで、嗚咽は我慢した。
電話を切ってスマホをバッグにしまうと、すぐに横からタオルが差し出された。
「ほい」
声を上げておいおいと泣いた。真兄の前で泣くのはへっちゃらだった。
しばらく泣き続けて、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになってから泣き止んだ。
わたしの顔を見て、真兄は笑った。
「アイス落として泣いてたときと同じ顔してる」
「何それ、知らない」
「まだ茜がちっこいときに、俺がアイス買ってやったんだよ。なけなしの小遣いで。なのに、一口も食べずに地面に落とした」
「えっ」
「で、泣きやまなくて大変だった。新しいやつ買ってやったらすぐ機嫌直ったけどな」
「そんなことあったっけ」
「あったんだよ」
真兄は一旦コンビニの駐車場に車を停めた。
「コーヒー買ってくるから待ってて。茜もなんか飲む?」
「ううん、いい」
コーヒーを買いに行ったはずの真兄は、コーヒーの代わりに氷を手に戻ってきた。それで冷やしタオルを作り、差し出してくれる。
「目に当てとけ」
「泣かせるのに慣れてると、対処法にも慣れてるんだね。さすが真兄」
「そりゃどうも。お褒めいただいて光栄だ。お礼にいいことを教えてやろう」
「なに?」
真兄はジトーっと私を見た。
「背伸びするな、余計ガキに見える」
「えっ」
「その格好。頑張ってます感が出てんだよ。子どもが無理矢理大人の服を着たみたいな。今のお前に魅力を感じるやつなんてロクな男じゃない。年相応の似合う服を着て、年相応に笑ってろ」
「でも」
「茜、今の自分、好きか? その服、本当に好きか?」
返す言葉がなかった。奈津美はバッグを褒めたけど、髪型を褒めてはくれなかった。美容師さんもショップ店員さんも「大人っぽい」とは言ったけど、「似合っている」とは言わなかった。スタッフさんたちもそうだった。
「自分を見失ってんだろ、誰がそんなやつ好きになるんだよ」
「……西さんみたいな大人の女性になりたかったんだもん」
口に出して初めて、自分がどんなに馬鹿げたことを考えていたか思い知った。
大人っぽい服を着たから西さんになれるわけではない。そんな当たり前のことに、どうして気づけなかったのだろう。
「西さん? 鳥飼が好きなやつ?」
「うん」
じわ、と涙が出る。
ふぅ、と真兄はため息をついた。
「茜は茜のまんまでいいんだよ。お前の魅力に気づかない男なんかほっとけよ。サラッとしとけ。茜らしく」
「……どんな服がいいかな?」
「さしあたり白いワンピースってとこかな」
「どうして?」
ニヤリ、真兄お得意の顔が飛び出した。
「年取ると着れない服だ。今のうちに存分に着とけ。眩しさで目がくらむくらい、さわやかで若々しい服を着てろ。うまくいけば、眩しさでクラッときて血迷ってくれるかもしれない」
「血迷うって、失礼な」
ぷぅ、と頬を膨らませると、真兄は呆れたように言った。
「茜。お前そんなこともわかってなかったの? 血迷わなきゃどうやって高校生なんかと付き合うんだよ。特にああいう仕事にはな、社会的な信用がむちゃくちゃ大事なんだよ。自分の腕一本でどれだけの人間の生活を支えてると思ってんだ。自分が何かやらかして負う代償は、自分だけにとどまらないんだぞ。女子高生に告られて簡単に『オッケー』なんて言えるわけない。他に好きな女がいようがいまいが関係ねぇよ」
「そっか」
瞼の腫れはだいぶマシになった。
バッグからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。
「まぁ、あいつは大丈夫だと思うよ」
「え?」
「鳥飼」
「大丈夫って、何が?」
「たぶんクラッとしてくれるってことだよ」
鼻を拭きながら問う。
「どうしてそう思うの?」
「俺の勘」
あまりにも不確かなものを呈示され、ちっとも気は晴れなかった。
「まぁ、これからもできる限り俺が迎えに行ってやるよ。その度に面白いものが見れそうだし」
「どういうこと? 全然わかんない」
「わかんなくていいよ。俺を信じろって。俺が今まで嘘ついたことあるか?」
「……あるでしょ」
「……あるな」
ぷ、と思わず笑ってしまった。
「まぁ今回は大丈夫だって。結構マジで自信ある」
「鳥飼さんにはほかに好きな人がいるのに?」
「その真偽込みでな」
そう言ってから真兄は急に怖い顔をした。
「ただし、仮に鳥飼がクラッとなったとしても絶対にお子ちゃまの域は出るなよ。自分が高校生だってことを忘れるな。相手の男を社会的に抹殺するぞ」
「真兄が言うと怖いね」
「本気だからな。相手を抹殺されたくなかったら自分を大事にしろ」
「うん、ありがとう」
真兄の勘を信じていいのかはわからなかった。
でも、白いワンピースは悪くない気がした。