借金取立人と存在
グランデとバッソが一等客室で紅茶とコーヒーを淹れていると、入り口の引き戸がゆっくりと開いた。
入ってきたのは紺色の制服を着た車掌。
顔はなかった。
「よう。お前らが一等客室なんて、珍しいな」
二人がこの列車を利用するときは、大抵二等客室。距離がそれほど無ければ、三等客室を使っていた。
「経費が下りたんです」
グランデが言う。
「ふーん。また、何か考えてるのかね。お前らの上司は」
「さあ」
「……」
グランデとバッソはそろって首を傾げた。
「ああ、そうだ。乗車券」
車掌が腕を二人の前に突き出した。
手はなかった。
「はい」
「……」
二人は長方形の乗車券を渡し、車掌はそれにパチパチと穴を開ける。
「そう言えば、何だか、前乗ったときと、列車の雰囲気が違いますね」
「……分かるか」
乗車券を返しながら、車掌が言った。
「……ちょっと、重い」
バッソが言う。
車掌は溜め息を吐いて、肩を上下させた。
「ちょっとやっかいな客が居るんだ」
「やっかい」
「気になるなら会ってみると良い。一等客室の四番だ」
そう言って、車掌は部屋から出ていった。
二人は顔を見合わせる。
「……紅茶」
バッソが言った時、ちょうどお湯が沸いた事を知らせるベルが鳴った。
「飲んでから、行ってみようか」
「……」
グランデが言うと、バッソはこくりと頷いた。
飾り文字で4と書かれた金のプレートが、飴色の引き戸に張り付けられていた。
グランデの細い手が、扉をノックする。
「はい。どうぞ」
中からは、思ったより明るい声が聞こえた。
カラカラと扉を開けて、中に入る。
「あら? 車掌さんかと、思ったわ?」
「こんにちは」
「……」
中にいたのは女性だった。
真っ黒な何かが蠢きながら、飛び跳ねながら、全身を覆っていて、その黒の間から、真っ白な目がぽつりと二人を見ている。
「ここにお客さんが来るなんて、初めて。嬉しいわ。どうぞ、もっとこっちに来てちょうだい」
「はい」
「……」
グランデとバッソが中にはいると、女性は立ち上がり、飲み物の用意を始めた。
「お構いなく」
「いいえ。あなたたちは、紅茶が好き? コーヒーが好き?」
女性は振り返って首を傾げた。
「僕はコーヒーが好きです。でも、バッソは紅茶が好きです」
「あら。なら、どちらも入れましょうね」
「お構いなく」
「いいえ」
女性が入れたコーヒーと紅茶は、どちらも美味しかった。
彼女は、紅茶とコーヒーを混ぜて飲んで、あら、これも美味しい、と笑った。
「ご旅行ですか?」
大きな缶いっぱいに入ったクッキーを一枚取って、グランデが尋ねた。
「ええ。ちょっと奮発して、一等客室にしてみたの。憧れだったから」
「どちらまで?」
「それは、決めていないの」
「どうして?」
「行く場所が決まらないからよ」
「なるほど」
グランデは頷いて、コーヒーを一口飲んだ。
「いつまで、乗り続けるのですか?」
そう言うと、女性は少しだけ俯く。
「そうねえ。理想の身体がある場所が、分かるまでかしら」
「……理想」
バッソが言うと、女性は頷いた。
「今の私はとてもみにくいけれど、前の私はもっとみにくかったの。それは、もう嫌なの」
「……」
バッソが大きな缶に手を突っ込むと、砕いた赤いキャンディーが乗ったクッキーが取れた。
キャンディーはキラキラしていた。
「綺麗になりたいわ」
今度は女性が大きな缶に手を入れる。
取れたのは、チョコ味のロッククッキーだった。
女性は、ゆっくりと首を横に振った。
二人が食堂車で夕飯を食べている時、ふと、テーブルに影がかかった。
二人はそろって顔を上げる。
「うわーお」
「……ミセスマーダ」
バッソが言うと、真っ青なドレスを着た若い女性はにこりと笑って、長い指を持つ手をひらひらと振った。
「こんばんは、ミセスマーダ。お久しぶりです」
「ええ、久しぶり」
「いつ、この列車に?」
「ついさっきよ。一つ前に、停まった駅」
「なるほど」
グランデは頷き、フォークに刺しっぱなしだったチキンステーキを口に運んだ。
「……」
バッソは持っていたグラスを置き、じっとマーダを見つめる。
「なあに? バッソ」
「……マーダは、ドレスを作れるの」
バッソは、マーダが着ている真っ青なドレスを見た。
「ええ。作れるけれど、どうして?」
「……」
黙ったバッソを見て、グランデはぽんと手を打った。
「ミセスマーダ。お願いがあるのですが」
「何かしら」
「ドレスを作ってくださいませんか。真っ赤な、とびきり綺麗なやつを」
「今?」
「ええ」
グランデとバッソが揃ってマーダを見つめると、マーダはくすりと笑ってから頷いた。
「分かったわ。その代わり、旅の話を、たくさん聞かせてちょうだい」
「分かりました」
「……」
二人は揃って頷いた。
翌日。
カンノーノの駅で列車が止まったとき、女性は扉がノックされる音を聞いた。
「はい。どうぞ」
言ったが、誰も入ってこない。
女性は首を傾げて入り口に向かい、そっと扉を開けた。
そこには誰もおらず、代わりに、真っ赤なリボンの付いた小包が置いてあった。
女性が小包を手に取ると、独りでにリボンが解け、包装紙が消え去る。
「まあ」
現れたのは、真っ赤なドレス。
あのクッキーに付いたキャンディーのようだった。
「……」
「着ないのか」
女性がぼーっとドレスを眺めていると、不意に隣から声がかかった。
「車掌さん」
「よせよ、そんな、他人行儀な」
車掌はドレスと女性を交互に見比べる。
「なあ、もういいだろう。妹よ」
「……」
「あいつらなら、もう降りたぜ」
その言葉に、女性ははっと顔を上げた。
ドレスをぎゅっと握りしめ、部屋に入る。
慣れないながらも急いでドレスを着ると、真っ黒いものは居なくなった。
姿見を見ても、ドレスが浮いているようにしか見えないけれど、
「きれい」
と彼女は笑った。
部屋を飛び出し車両の端っこに走る。
「転ぶなよ」
それを見送りながら、車掌は胸ポケットに仕舞ってあった懐中時計を取り出した。
この駅が、燃料補給地点で幸いだった。
発車まで、あと十分だ。