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セシルs・メモリー  作者: 竜司
中編
7/10

煽動するディアブル・アジテーション

 第七章 煽動するディアブル・アジテーション


 1


 時間感覚というのは不思議なものだ。例えば高校時代について考えてみよう。

ある人は「人生で一番短い三年間だったよ」と言い、またある人は「とんでもな

く長い三年間だった」などと口をすっぽかして言う。ここで第三者は「この二人

は体感時間が違っただけで実際には同じ分の時間を過ごした」とさも得意げに言

うが、これは大事なことをひとつ忘れた人間の狂言に他ならない。何故ならば、

彼はある固定概念に知らず知らずのうちに支配されていると気づいていないから

だ。例えば、彼の使った「実際」という単語。彼はさも「実際」こそが真理であ

るかのような口ぶりであった。これは半ば宗教に近いものがあるが、判りやすく

言うとこういうことだ。生物学者が人生を化学反応だと捉え、哲学者が人生を奇

跡だと捉える。さて、二人の見解は相違していると判るが、果たしてどちらが正

しいのだろうか――もっとも、その事象が正しいか間違っているかという思考行

為そのものが、ある哲学者に言わせれば無意義であるらしいのだが、それでも我

々は異なる意見についてどちらかの結論ないし無回答といった反応を示さずには

いられないサガを持っている。

「なるほど、言いたいことは判った。つまりは、世の中全て個人の捉え方しだい

であり、絶対的な真理はないとそういうことだね。トニー君」

「ソウデス」

 さらにトニーは続けた。鬼頭火山きとうかざんこと神崎冬也(かんざきと

うや)は、その判りにくいカタコトの日本語を頭の中で小説らしい文章に変換し

ていった。

 ……それでも人間は無意識にでも何らかの事柄を信じているといえる。正しい

か間違っているかは関係なしに、信じるという行為はその人間の精神を安定させ

るからだ。

「トニー君。どうしたんだ?」

 トニーは突然黙りこくった。しかし、表情は至って平坦で、何の感情もないロ

ボットのようだ。太陽の光がそうさせるのか、鬼頭にはまるでトニーが映画の中

の登場人物であるかに見えた。しばらくすると、ウェイトレスがコーヒー片手に

やってきた。コーヒーが置かれても、トニーは何の反応も見せず、鬼頭と見つめ

合っていた。鬼頭はトニーの顔の前で手を動かしてみた。全く反応はない。

 ――理神論ハ罠ダ。Kハ騙シテイル。

 機械音のような声がトニーの口から出てきた。鬼頭は眉をひそめた。王里神会

の名前の由来は理神論である。理神論は、一般に創造者としての神は認めるが、

神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学論である。それを王里神会

執行部のこの男が否定するとはどういうことなのか。

 ……まさか。

「王里神会ハ神ヘノ信仰ハナイ。代ワリニ皆、教祖Kヲ信仰シテイル。幸セヲ自

ラノ手デ勝チ取ロウトイウノガ我々ノ信条デアッタ筈……ナノニ、ソレガ今ハド

ウカ。幹部デアルオニアタマサンナラ知ッテルト思イマスガ、Kハ日本ヲ乗ッ取

ルツモリデス。革命ト銘打ッテネ。具体的ニ何ヲスルカト聞ケバ、テロヲ行ウト

言ウデハアリマセンカ。他人ヲ不幸ニ陥レテマデ手ニスル幸セナド、ソンナモノ

ハ誰モ求メテハイケナイ。ソンナコトヲスレバソモソモノ大義ヲ失ウ。マトモナ

人間ナラバ、Kガダークサイドニ堕チタト理解デキルガ、信者ノ大半ハ、Kノカ

リスマ性ニ身モ心モ持ッテカレテル。イカレテマス……、ソウ、思イマセン?」

 トニーは棒読みした。眉ひとつ動かさずに。鬼頭は冷静に聞いた。

「……トニー君。それは、君が言っていいようなことなのかね?」

 トニーの発言は王里神会への反発と取れる。トニーはまた口だけ動かして喋り

始めた。先ほどからまばたきをしていない。

「ワタシニハ判ルンデス。目ヲ見レバ……、アナタ本当ハ、Kハ間違ッテイルト

思ッテルンジャ?」

 トニーの悪魔的な眼差しが鬼頭を貫いた。鬼頭は溜め息混じりに口を開いた。

「日本の技術というのは侮れない。アメリカは極秘にUFOを作っているらしい

が……、さて。外国ではよくある話だ。死刑囚が最後まで口を開かなかった場合

、隣の牢獄に似たような男を容れる。そして親身に語らせ、口を割らせる。しか

し、それにしても王里神会というのは底が見えないな。何を企んでいる? 本当

に日本を乗っ取るつもりか? 馬鹿馬鹿しい。そうは思わないかね」

 鬼頭は伏し目がちにトニーを見据えた。相変わらず表情に変化はない。

「トリアエズ、ヒヤマサン。世ノ中ゴミダト思イマセンカ。悪ハ成敗シナイトッ

テネ」

「私は平和主義者だよ。戦争には反対だ。それより教えてくれないか、ボタンは

どこについている?」

 鬼頭はニヤリとした。トニーは全く動じない。

「タンポポハイツ咲クノデスカ。タンポポ。カワイイ名前デス。鬼頭サン。勘違

イハイケマセンヨ~」

 カフェがざわついてきた。人が多くなってきたのだ。時計の針が正午を伝えて

いる。

「タンポポは四月か五月じゃなかったかね? 今はもう咲いてないかもしれない

ね、残念だが。ところで、私は機械に詳しくはないが君はいくらで作られたんだ

? とぼけても構わないがね」

「キク科ノ多年草。斬ルト乳液出マス。朝開キ夕方閉ジル。自家不和合性ガ強…

…」

「タンポポはもういいだろう。そういえば君とこうして話すのは初めてだったね

。だから今まで気づかなかったのか。君は執行部という設定だから表にもあまり

顔を出さない。そうやって発覚を防ごうとしていたわけ……かな? しかし、そ

れだと辻褄が合わない気がするな。これは異常事態かね?」

「アナタハ……」

「見た目は完璧なんだがな。中身はもうちょっと改良が必要なようだ」

 鬼頭はポケットから携帯電話を取り出した。そして何やら操作を始めた。

「火山サン。ワタシハデスネ、Kガ間違ッテイルト……」

「心配しなくていい。君が信用できないわけではないのだ。そろそろまばたきを

しなさい。人間というのはまばたきをしないと目が馬鹿になってしまう。君は人

間じゃないから判らないかもしれないが、まばたきはした方がよい」

「思ッテルンデス本心デ」

 トニーがいきなりテーブルに置かれたスプーンを手に取り片手でねじ曲げた。

「アナタモソウデショウ。ダカラ協力シマセンカ」

 鬼頭は携帯を閉じると、視線を目の前の男に戻した。

「今、なんて?」

 トニーの表情はいつの間にか悔しさに満ちていた。

「ワタシハロボットナンカジャアリマセン……信ジテ下サイ。オニアタマサン」

「ん? 何を言っている?」

「悔シイデスッ……、Kハ、イヤ、今ノ王里神会ハドウカシテイル。マタ昔ノヨ

ウニ、戻ッテ欲シイデス。ワタシハアナタノ側デスカラ、ワタシヲ使イタイトキ

ハ言ッテ下サイ。コノ紙ニワタシノ連絡先ガ書イテアリマスノデ」

 トニーは立ち上がると、メモ用紙を一枚テーブルの上に置いた。電話番号とメ

ールアドレスが記されていた。

「昔……」

 鬼頭は八年程前を思い返した。王里神会に入会した当初のことだ。確かにその

とき、鬼頭は王里神会を誇らしく感じていた。だが、今は……

「信ジテイマス。ヒヤマサン、アナタヲ。アナタトナラ……キット、必ズ、Kヲ

止メラレル」

 トニーの表情の真剣さは、鬼頭の心を多少なりとも揺さぶっていた。やがてそ

の場を去ったトニーは、一度カフェを振り返り、窓際でコーヒーをすする鬼頭を

見た。

 ……クククク。

 六月初頭の日差しは暖かく、風になびいたタンポポが道路脇でゆらゆらと揺れ

ている。

「まだ生えているじゃありませんか。綺麗な花が」

 トニーは呟きながら、タンポポを横目でなぞって歩いた。

 不気味な表情を浮かべるトニーの後ろ姿を、鬼頭は窓の向こうで一瞥した。



 2


 七月八日 水曜日


 関東最大の規模を誇る学校、ここ月代学園では、三年前の中等部設立により校

舎が増築され、全部で五号棟まである。その中のひとつ、五号棟の一階と二階に

またがり第一図書室と呼ばれている二段構造の図書室には、夜になると幽霊が出

ると噂されているが、二宮光にのみやひかりが知る限り確かめた者は一人も

いない。噂には常に尾ひれが付くものだ。図書室というのは物静かなものだから

、一人で放課後に本を読んでいた小心者が小さな物音に驚いただけじゃないか―

―光は、ふとここでどうでもいい記憶を押し留め、本来の目的である本のことに

思いを馳せた。階段を上る足も軽快だ。今日の昼休みに『愛されし楽園』という

本を読み終えた光は、前から気になっていた『セルパスマードの凱旋(がいせん

)』という本を読みに、放課後はるばるここまで足を運んだのだ。といっても、

彼女にとって図書室は通い慣れたもので、行ってきますというよりお帰りという

感覚であった。今日の管弦楽部の合奏は、光が愛する『カノン』であった。心地

良く奏でられた音が、五号棟の隣りの小ホールから空気に馴染むように響いてく

る、いや、染み込んでくるのだ。絶妙な音の神秘だ。

 自身が立てる階段を上る足音に何者かが注意を向けているような気配を感じた

のは、二階に着く直前あたりだった。図書室のドアは開けっ放しで、入ってすぐ

に位置するCDコーナーの前でうなだれる三人の生徒と目が合った。一人は同じ

クラスの隣りの席の男子で、一人はこれまた同じクラスだがあまり話したことが

ない女子で、もう一人は頭が良いという噂の他クラスの男子だった。光は声を掛

けることにした。

「あれ? 皆さん、何してるんですかぁ?」

 三人は、あぁ、とうなだれた様子をあからさまに表情に表し、うつむいた。少

しすると女子が顔を上げて返事をした。

「二宮さんは何しに来たの?」

 質問された側が傷つかないような、優しさの籠もった聞き方だった。光は図書

室に入りながら、

「本読もうと思って来たんです。そしたら皆さんがいて……」

 見ると、三人の他には誰もいなかった。何をしていたのだろうか、と光は疑問

に思った。随分と疲れた様子であった。

「ホントに本が好きなんだね。二宮さんって」

 女子は疲労の上に笑顔を被せたような何ともいえない表情で言った。

「はい! それに、今回はここなら、管弦楽部のカノンも聴けるし快適です!」

 優美に鳴り響くカノン――

「ん? ……なあ、光。今、曲変わったよな?」

「はい?」

 そう言って何やら眉をひそめているのは、隣りの席の男子であり、光と同じ図

書委員でもある外崎暁とざきあきらだった。光は『セルパスマードの凱旋』

について思い馳せていて、すぐに何と答えればよいか窮した。だがカノンには耳

を傾けていたので、答えるのに支障はなかった。

「ああ、ジーグに入ったんですよ」

「ジーグって何なんだ?」

 暁の顔が徐々に真剣さを増していった。

「ジーグは舞曲のことですよ」

「『カノン』と『カノンとジーグ』はどう違うんだ?」

 おれたち、てっきり省略かと思ってたんだが……と暁は小さな声で付け足した

。光はこの手の本を読んだことがあるので詳しい筈だと、暁は以前彼女と交わし

た会話で知っていた。光は悠々と答える。おっとりとした口調で。

「省略……ですか? 若干ズレてますね。『バッヘルベルのカノン』の正式名は

『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグニ長調』なんです」

 暁以外の二人も光の話に注目し始めた。いや、光の話に何かを見いだそうとす

る暁に触発されたのだろう。

「だから、『カノン』と言った場合、後半部に当たる『ジーグ』の部分はカット

されているんです。つまり、違いは『ジーグ』が入るかどうかってことですね」

 そのとき、暁の中の何かが音を立てて覚醒したのが、誰の目にもはっきと判る

よう、その表情に険しさが増した。



「なるほど……」

 暁の声は据わっていて、何か強い思考が感じ取れる。

「ようするに、本来『カノン』『ジーグ』の二つの要素を持っていたのに、いつ

からか『カノン』だけを取り出したものが出回り始めたわけ……か」

「はい。『カノン』があまりに有名なので、『ジーグ』はあまり評価されないん

ですよ。私は好きなんですけどね」

 光は残念そうに言ったあと、一転していつものようなとぼけた口調で「でも、

それがどうしたんですかぁ?」とニコニコしながら言い放った。しかし光のこと

はそっちのけで三人は何やら話し始めた。真剣な雰囲気が漂っている。この三人

は本当に何をしているんだろう? 光は少しイライラしてきたが、思考は『セル

パスマードの凱旋』にしだいにシフトし、いつの間にかぼうっとしていた。

 ……――てないものがある。『ジーグ』が単体で収録されているCDだ。

 管弦楽部の合奏の中、暁の若干興奮した声が光を現実に引き戻した。

「光、そういうパターンはあり得るか?」

 ハッと我に返り、光の頭の中から本の表紙が薄れていった。

「わからないですけど、私はそのパターンは見たことないです」

 光はよく話を聞いていなかったので、適当に返した。彼女は早く本が読みたく

て仕方がなくなっていた。

「……賭けだな」

 暁はさも名探偵気取りに言い放った。

「亜美、竜司、棚のCDを全部調べるぞ!」

 二人がすぐさま作業に取りかかると、暁は光に向き直った。

「光、ありがとう! お前のおかげで希望が見えた」

 ……あぁ、早く読みたいですぅ!

「なんだか、よく判らないですけど、お役に立てたなら良かったです。探し物見

つかると良いですね」

「ああ、うまくいけばいいけど……」

 ……せ、セルパスマードさ~ん!

「それじゃ、私は読む本を探しているのでこれで。何か私が役に立てることがあ

ったらおっしゃってください」

 光はお辞儀し、足早に本棚に向かった。



 七月九日 木曜日


 大学受験。それはいつしか大半の高校生がぶち当たる大きな壁だ。それを乗り

越え前に進ませようとする気風は、確かに他の学校と比べればここ月代学園は高

い方だった。それ故に、朝早くに登校し、勉強している生徒も高一の段階ですら

とりわけ珍しくもない。二宮光もその一人だった。彼女は電車通学なので、駅か

ら学校までの距離をいつも通りのスピードで歩けば、ほぼズレはなく、午前七時

四十分頃に教室に着いた。この日もその電車に乗り、光は本を読んでいた。昨日

借りた待望の本だった。

 ――この日も、二年C組の生徒は見当たらなかった。電車通学のクラスメート

は皆、これより一本遅い電車に乗って、チャイムがなる十分前くらいに登校して

くるのである。それが受験に対する意識の低さと全く関係していないといえば嘘

になるだろう。それでも光が受験に対し真剣であるかといえばそうでもない。彼

女はただ本が読みたいがために朝早く登校しているのである。生粋の本好きであ

る。よって、周りからは毎日図書室に通う本オタクとして有名になってしまった

が、仕方のないことである。

 電車を降り、縛った髪を朝の風に揺らして学校までの道のりを、他数十人で構

成された生徒の列に混じり歩いてゆく。歩くと少し汗をかいた。もう本格的な夏

というものが訪れようとしているのか、いや、もう訪れてしまっているのか。前

を歩く二人組の女子生徒の白いシャツから透けて見えるブラの紐を眺めながら、

光はそんなことを考えていた。

 ……しかし。

「!?」

 教室に着いた光はとんでもない光景を目の当たりにしてしまった。進級してか

ら一度も譲ったことのない、二年C組登校時間トップの座、それがある男によっ

て破られていたのだ!

「すなまーじりの茅ヶ崎」

 などと男は呟いて体を揺らしていた。教室の真ん中で。光はえもいわれぬ敗北

感に支配され、涙を流した。ヒドいですよぉ、暁くん~……と心の中で叫んで。



「暑っ」「暑~い」「あっちぃなぁ」という声が飛び交う平和な一日は、やはり

無事に放課後を迎えた。現代文の先生が出張してできた自主学習の一時間を読書

に当てた光は、お喋りムードと化した教室の中で『セルパスマードの凱旋』を半

分程読み終えていた。思わぬ読者時間の獲得があったと、光は上機嫌であった。

満足した読書のおかげで、早まる読書への気持ちも幾分落ち着きを見せていた。

放課後になったがすぐには図書室には向かわず、水道に行った。手が少しシャー

プペンシルの黒鉛で汚れていたからだ。

「あ、二宮さん、じゃあね」

 廊下ですれ違った人たちの中で、誰かが言った。振り返ると、昨日図書室で会

った篠原亜美だった。

「さようなら、篠原さん」

 光は礼儀正しくお辞儀をした。廊下の真ん中でそんなことをする生徒は稀であ

るから、当然のように注目を浴びてしまった。亜美は声をかけたことを若干後悔

するような表情を見せたが、光が変わり者であると知っている人からすれば亜美

の心中は察することができる。深々と下げた頭を上げると、光は笑顔でスキップ

しながら行ってしまった。

「あちゃー……」

 亜美は、廊下をスキップする光の後ろ姿に悲しげな眼差しを送った。色々と疲

労の溜まっていた亜美は、構うのをやめ学校を出た。光は水道に着くと少し驚い

た。そこで手を洗っていたのは、またしても昨日図書室で会った一人、高山竜司

であったからだ。なかなかの偶然である。竜司は洗い流した手をハンカチで拭き

ながら、視線は窓の外の、どこまでも広がる青空へと向けられていた。その表情

は、何ともいえぬ感情に支配されていて、しばらく光は斜め後ろから観察を続け

た。不意に竜司は何かを呟いた。周りには自分以外いなかったので、独り言であ

る。廊下を行き交う生徒の雑踏に、声にかき消されようとしていたその一言は、

そばにいた光にだけは聞こえていた。

「篠原さんなら、もう帰りましたよ」

 竜司はしばらく呆然としてから勢い良く首だけを光に向けた。いつからそこに

いたんだ、と言いたそうな顔である。光は竜司の隣りに立ち、空を見上げた。そ

こにはただ青空……

「亜美さん、いませんね」

 亜美は普通の人間なので、空に浮くことはできない。もしかして、と光は思っ

た。

「竜司くん、もしかして、亜美さんのことが……」

 見る見るうちに竜司の顔が赤くなっていったので、光は言葉を途中で止めた。

変な空気が流れ始めたので、それを阻止すべく光は話題を変えた。昨日のことに

ついて聞いてみた。竜司は独り言を聞かれていたのがショックなのか、少し動揺

していたが、ちゃんと応えてくれた。

「昨日は、まぁ、ある暗号を探してたんだ」

 ある暗号、という響きに、竜司は苦笑した。

「何ですかぁ? それ。『ジーグ』を単体で収録したCDを探していたみたいで

すけどぉ」

「うん、見つかったんだ。暗号も無事ゲットできた……」

「暗号って何ですかぁ?」

 竜司は返答に窮した。言っていいものかどうか考えるような素振りを見せる。

「ん~」

「言えないことですか?」

 光の声は弱々しかった。竜司は、まぁいいか、と思ってしまった。

「あの~ほら、鬼頭火山っているじゃん。今はもう死んじゃったけど」

「あぁ、はい」

 光もニュースを見て知っていた。

「有名小説家だった彼と、おれたちは真剣勝負をしていたんだ」

 光の脳内にクエスチョンマークが出現した。竜司の言ってることの意味がよく

判らない。

「正確には、まだ終わってないけど」

「どういうことですかぁ?」

「暁に聞いた話だけど、実は鬼頭火山は結構前から小説家を辞めようとしていた

らしんさ。それで鬼頭火山の姪がその理由を突き止めるないし小説を続けさせよ

うと思い、篠原さんにそれを頼んだ? みたいな」

「え……?」

「篠原さんと鬼頭火山の姪は親友なんだってさ。でまぁ、篠原さんは暁に暗号解

読の協力を頼み、暁はおれに協力を頼み……」

「暗号……」

「あぁ、鬼頭が暗号で真剣勝負を挑んだんだよ。私が作った暗号を全て解いたら

、小説家を辞める理由を話そうってことになって」

 光の頭は混乱していたが、何となくは判ってきた。

「へぇー、まぁ……なんかすごいってことは判りましたぁ」

「うん、まぁ、そういうこと」

「でも、鬼頭さん、自殺しちゃいましたよね? 何日か前に。それじゃあ小説家

を辞める理由は闇に葬られたんじゃないですかぁ?」

 竜司は考え込んだ。

「……確かに、彼は死んでしまったが、そんな無責任に終わらせるとは思えない

。何らかの用意はしてある筈だと思うんだよなぁ、多分。手紙とか」

「はぁ……、大変ですねぇ。小説家を辞める理由ですかぁ。そんなに知りたいん

ですかぁ?」

「いんや、別に」

 竜司はアッサリと言った。竜司が暗号解読に協力する理由は、暁の持っている

グラビアアイドルの写真集が欲しいからである。竜司は雇われているようなもの

だと、自身の立場を説明した。

「まぁあの暗号解読の主役は篠原さんと暁だよ。おれはホントに協力してるだけ

って感じかな」

「そうなんですかぁ。でも、なんかすごいです! あの有名小説家と真剣勝負し

てたなんて!」

「まぁね」



 3


 七月十三日 月曜日


「あ~~! マジ、ちょ、どうすッ……あぁ~~!」

 手紙にはこう書かれていた。


 亜美ちゃんへ


 いきなり手紙なんか書いてゴメン(笑)

 でも、どうしても伝えたかったから。

 一年の時に、最初に隣の席だったのが亜美ちゃんで、すげぇ嬉しかった。初日

からいきなり教科書全部忘れたオレに、ひとつも文句言わずに見せてくれて、本

当にサンキュー!

 いや、本当に言いたいのはそのことじゃないんだけど……、まぁ何となく判っ

てると思うけど、もう少しお礼を言わせて(≧ε≦)

 ほら、オレ、クラスでも最初浮いてたじゃん(笑)

 なんせ髪染めてたのオレだけだったからね。女の子どころか男も寄ってこない

ww

 んで寂しい思いしてたわけ。

 でも何日か経って、亜美ちゃんが話しかけてくれた。昼休みに独りでパン食っ

てたオレに。

 一緒に食べようって誘ってくれた時、マジ泣きそうなくらい嬉しかったんだ。

暴露しちゃうけど、そのことがあって以来、亜美ちゃんのこと気になってた。

 女の子集団に混じって飯食ってたのオレだけだったから、やっぱ男には以前に

増して敬遠されてさ、なーんか寂しかったんだよね。ま、代わりに女の子たちと

仲良くなれたけど(笑)×2

 でもしばらくすると、頭髪検査で引っかかる同士で男友達もできたし、そっか

ら輪が広がってって今じゃ友人関係には困ってないから心配しないでね。

 んでもオレが学校の奴らに心開けたキッカケ作ってくれたの、亜美ちゃんだと

思うんだわ。あ~、もう単刀直入に書いちゃいます!


 マジ前から亜美ちゃんのこと好きでしたオレ!


 直で言いたかったんだけど、心臓やられちまってwwwwww

 メールだとなんかアレ、気持ち入ってなさそうなんだよな~オレ的に。だから

手紙にしました。

 オレが亜美ちゃんに今までしたことなんてホントに何もないけど、なんてゆう

か、亜美ちゃんのためなら頑張れる気がする。

 もし、よかったら、付き合って下さい。返事待ってます。


 木原晋也


「でもまぁいいとは思うよ。これで。亜美も喜ぶんぢゃない? でもちょっと文

体がウザいかも。でもその方が晋也っぽいかもねぇ……でも……」

 内山ゆきみは手紙を手に、納得いくのかいかぬのか判らぬ顔をした。

 晋也はしきりに「やべぇ」を連発している。

「まじやっべ、やべぇ、これ亜美ちゃんに見せるとかマジヤバうおッ」

 ゆきみは足を組みその上に肘をついて顎を乗せるといった、如何にもだるそう

な姿勢を崩さぬまま「でもあんまハシャがない方がいいよ。心臓壊れちゃうよ、

でもその方が晋也らしいかもねぇ」と気だるそうに言った。

 晋也の興奮は覚めない。

「いやだってラブレターとか興奮するっしょマジいやマジ」

 ゆきみは携帯を取り出すと画面に見入り、晋也は軽い疎外感をその身に感じた

が、構わず続けた。

「つかさ、亜美ちゃんまじ付き合ってないんだよな大丈夫だよな、あぁ」

 病床の上、晋也の不安が拭われることはなかった。



 ゆきみと晋也が知り合ったのは一年前のことだ。高校入学当初、クラス全体が

まだ馴染めていない頃、誰にでも気さくに声を掛け、コミュニケーションの輪広

げに大いに貢献した篠原亜美が、最初に声を掛けたのがゆきみだった。

 亜美は直ぐに打ち解け、良く話す仲になった。

 入学から数日経った昼休み。それが晋也とゆきみの最初の出会いだった。

「ども、晋也ッス」

 晋也は女子グループが形成するお昼メンバーに強引に割り込まれた。篠原亜美

によって。彼女は笑顔で言った。

「食べよっ」

 最初こそ戸惑いを見せた女子グループであったが、日を重ねる毎に、晋也は欠

かせない存在に変わっていった。

「ハハハハハ」

 晋也が共に昼食をとるようになってからというもの、ゆきみの表情にはいつに

も増して笑顔が増えた。自分と近いものを晋也に感じたのだ。

 ――その晋也に、今、命の危険が迫っている……

「なぁ、おい、ゆきみ、おーい」

「……えっ?」

「何ぼうっとしてんだよ。ラブレターに改善点はないか聞いてるんだよ」

「あ、あぁ」

 心配になって見舞いに来たらこれだった。晋也は死ぬのが怖くないのか、呑気

にラブレターなどよく書けたものだ、とゆきみは思った。いやしかし、少なくと

も呑気ではないのかもしれない。死ぬかもしれないからこそ、最後の断末魔、思

いを伝えるべきだと考えたのか。

「断末魔? なんか言ったか?」

「別に」

 ゆきみの小さな独り言は晋也の鼓膜にキャッチされていた。昔から晋也は耳が

いい方だった。

 ……しかし、実際のところ、どうなのだろうか。

 ゆきみは文字は読まず、ラブレターそのものをぼうっとぼかすように見つめて

考えた。

 自分が死ぬかもしれないとする。好きな人に気持ちを伝えてない。伝えられる

機会が残されているなら、自分なら伝えるか……、否、伝えないだろう。何故な

ら、黙って死んだ方が美しいからだ。死に際の告白なんて、小説や映画の世界な

らさも綺麗に描写されるが、現実の世界でなら話は別で、端から見れば幾分気持

ちの悪いことか。それに、もし両想いだったらどうする。それで死んだら? 死

んだ側も辛いだろうし、残された側も泣くだろう。良いことはあまりない。

「でも、良いことがないからやらない……ってわけじゃないか」

「は?」

 突然の意味不明なセリフに、晋也は鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような表情(

かお)をした。

「それじゃあ、ただの利益主義だもんね、あぁ、でもラブレターはちょっと微妙

。でも、直すべきところは特にないよ。でも、あくまでもあたし個人の意見だか

らね。好きにしな」

 ゆきみはそう言ってから、手紙を返した。そして、立ち上がり、

「バイバーイ。バイトが入ってるから」

 小さくウインクを飛ばした。

「あ、ちょ」

「届くといいね、その想い」

 ガラガラ――ガラガラ

 病室は静まった。忘れられた箱の中のようにしなやかだ。

 晋也はひとつ、大きなあくびをした。そして、独り言のように呟いた。

「人のことは言えねーがあいつは相当のバカだ。いかれてるな。非常識だ」

 ひらり、ひらり、歩くたびに舞う、赤のジルバ。

「……」

 病院を出ると、見覚えのある人間を見た。すれ違い、振り向くと、もう彼はい

なかった。



 ――嵐だ。

 大雨が降っている。

 病室の窓に打ちつける雨の音は、ここ最近では聞き慣れたものとなってしまっ

た。

 そういう季節なのだろうか。

 今は七月。夏だ。

 ゆきみとほぼ入れ違いに入ってきた男は、対面のベッドで眠りこけている。

 晋也は、ふとあるものが気になった。

 外崎暁が持ってきたスクールバックだ。

 ベッドのすぐ横に置いてあるそれは、不必要なまでの存在感を晋也に誇張して

いた。

「…………」

 気になった。

 晋也は体をひねり、スクールバックを持ち上げた。

 中を開けて覗く。

 ――本来、晋也にこういった不謹慎な癖などがあるわけではない。

 ただ、どこからともなく晋也を突き動かすモノが、そのバックには秘められて

いた。

 いや、正確には、そのバックの、中身。

「!」

 ある物が目に留まった。

 紙。

 文字が印刷された紙だった。

 ……何だこれ。

 自分はコレに引き寄せられていたのか?

 判らない。

 しかし、何か釈然としない。

 一体、何の因果でおれはこのスクールバックの中身が気になり、この紙を見つ

け出した?

 軽い悪寒が走った。

 こういった経験は、映画や小説、漫画くらいでしか遭遇したことがない。

 晋也は周りを確認した。

 何者かが、自分を操ってはいまいか……

 フッと鼻で笑った。

 そんなわけがないのだ。これはただの偶然。友達がもってきたバックの中身が

たまたま気になっただけだ。

 しかし、先ほどからくるゾクリゾクリとした感覚は何なのか。これも偶然か?

 想像によって肥大してしまった得体の知れない感覚が、体をおかしくさせるの

か……

 部屋を見回す。

 自分と、友人しかいない、白い病室。

 外は暗い。

 夜中だ。

 既に、暁がやってきてから、約十時間程度が過ぎようとしている。

 現在時刻は、午前四時二十六分……

 十五階から見る夜中の外の景色は、どんよりとしていた。気味が悪い。

 暁は本当に眠ってしまったのか?


 ゴロゴロゴロ……


 雷らしかった。

 雨に混じって雷か、雷雨だな。

 時折、大きな音を立て、空が光った。

 雷の光を頼りに、晋也は、謎の紙面を読み始めた。

 そこに書いてあったのは、本当に気味の悪いものだった。

 この場の状況としては実にマッチしているが、晋也は嫌な顔をして読むのを止

めた。

「あぁ~……」

 暇だ。

 晋也は、かなり前に眠った暁を見据えた。

 そもそも晋也が暁をここに呼んだのは、何日も前のことだった。この男はよう

やく今日来たのである。

 何故呼んだかといえば、篠原亜美と暁の関係を探るのも含め、ラブレターを渡

す担い手になってもらう要請をするためだった。晋也の目には、というより周り

から見ると、暁と亜美は付き合っているようにしか見えなかったから、もし付き

合っているなら、ラブレターは渡さないつもりだった。

 が、暁は亜美と付き合ってないと頑なに否定した。

 ……本当か?

 確かに暁はラブレターを渡してくれるそうであるが、実は二人は付き合ってい

て、ラブレターはこっそり捨てられや……

 いや、そんなに酷い男ではない。

 晋也は考えるのをやめた。

 その辺は考えても無駄だと気づいたからだ。

 流れに任せる他ない。それに――

 ――おれは死ぬかもしれないのだから――


 コツ……コツコツ……


「……」

 何かが聴こえた。

 雷鳴に、雨の音に混じり、何かが……

 誰だ? いや、人なのか?

 幽霊、だろうか。

 別に考えられなくはない。

 夜中の病院なら、有り得そうだが、しかし――

「鳴海……」

「うォツ」

 突然に聴こえた人間の声に、心臓が大きく波打った。おまけに軽い悲鳴を漏ら

してしまった。

 暁の声だとはすぐに気づいた。確かに、鳴海と言った。寝言……か。

「おい、驚かすんじゃねぇよ、暁ァ」

 おれは心臓が悪ぃんだぞ、と心の中で毒づいた。

 しかし、さっきの音は、何だ?

 まるで、足音のようだった。そんな気がする。

 廊下を誰かが歩いたのか。それなら別段不思議ではない。トイレか何かか。

 この状況が、ただの足音を妙に際立たせただけだろう。晋也は勝手に納得した

 ゴクリ……

 しかし、生唾を呑み込む音が、やけに大きく聴こえた。

 何か嫌な予感がする。それを必死に何でもないこととして受け入れようとする

浅ましさが、自分でもよく理解できる。

 あぁ、今夜は何か起こるぞ。

 何かが。


 ……コツ……コツ……


「………………」

 想像によって膨張する類の恐怖ではない。何かが既に、廊下にいる。人間の立

てるリズムではない。バカに気色悪い間隔で、そういう近づき方だ。足でも引き

ずっているのだろうか。

 これはいいネタになる。学校に戻ったらみんなに自慢しよう。そういえば、今

、学校は休みなんだっけか。豚インフルエンザだかなんだか、ウチの学校で感染

者が出たっぽい。誰だろうな。知るかそんなの。

 足音が、どんどん近づいてきた。これは……マズイ。

「おい、暁、おい!」

 暁は熟睡している。

「暁! 起きやがれ!」

 そのとき、ドアが開いた。

 心臓が飛び出そうになる。そしてゆっくりと、ドアが閉まった。

 暗くてよく見えないが、ドアの前に誰か立っている。

 時々、空が光をくれるので、大きさや、服装は少しだけ判った。顔は、よく、

見えない。

「……」

 一体誰なんだ?

 何者だ?

 いや、それよりも非常識だ。何故こんな時間に来る?

 何が目的でわざわざ来たんだ?

 一切判らない。

 晋也には、何も判らなかった。



 4


 その男は、この国の人間ではなかった。

 日本人かどうかは別として、明らかに顔立ちが外国のものだ。欧米人か。

 雷光が彼を照らす度、晋也は目を細めて見入った。

 身長は、高くない。ちょうど暁と同じくらいに見える。暁よりほんの少し高い

だろうか。

 おでこが広い。

 髪は短いが、襟足などは長い。

 目。

 特徴的なのは目のくぼみだ。

 雷の光が一瞬彼を照らすも、目だけは暗闇から出てこない。影を作っている。

 その割には、鋭い眼光だった。暗闇の中から、晋也を射抜くその瞳は、あまり

に冷たく、暗く、そう、悪魔的だ。

 この男には、悪魔という言葉が似合う。

 初めて会った印象がこれだ。

 晋也は若干申し訳ない気もしたが、それ以前に、この状況がうまくつかめない

 ここ、百号室の住民は自分だけだ。つまり、ここを訪れるというのは、自分に

用があるのか。だが、見たこともない男だ。

 変質者か?

「誰ッスか?」

 晋也はなるべく平凡な声で尋ねた。

 男は応えず、近づいてきた。

 晋也のそばで立ち止まると、無表情から一変し、ニヤリと笑った。

 恐怖を感じたが、晋也には見上げていることしかできなかった。

「あ~~、ねみ」

 暁が目を覚ました。

 上半身を起こして、目をこすっている。

 すると男は暁に近づき、首に指をねじ込んだ。

 ビクビクッと痙攣を起こし、暁は白目を向いて、再度横たわった。

 白目。

 暁に何をしたんだ!

 晋也の叫びは心のうちで留まった。声が出ない。否、出せそうにない。

 鋭い視線が晋也を捉える。

 この男からは――何か変なものを感じる。

 さっきから感じていた違和感はこいつの所為なのか?

 不気味だが、不気味でもない。

 意味が、つかみ難い。何なんだ。この悪魔は――悪魔め。

 晋也は当惑する。

 微かに指だけが震えていた。

 ギロリとした視線に耐えられない。

 晋也は目を逸らした。

 ――しだいに男の視線は弱くなり、また無表情になった。

「ア」

 男は、晋也のベッドの中央に置かれたものに気がついた。

 あの何が書いてあるのか判らぬ紙だ。

 これがどうかしたのか。

 男は紙を手に取ると、執拗に見入った。

 そんなに興味深いだろうか。

 いや、確かに興味深いことも書かれていた。

 最初は意味不明な英単語が十ほど並び、その下に、四つの文章。興味深いのは

その下。最後の文章だ。

 その文章の書き手はどうやら鬼頭火山らしいとのこと。

 彼はこの前死んだはずだ。

 その点に着目すれば、文章の気味悪さがわかる。

 そこには、鬼頭の言葉で、待ってるよ、などと書かれている。薄気味悪いった

らない。悪趣味だ。事情はよく判らないが、いい気分ではない。だから晋也はそ

の紙を見るのをやめたのだ。

 だが――この、目の前の男は見入っている。

 やめろ。見るな。

 そんな目で見るのは……

「なん……なん、だ……」

 やっと口から絞り出たのがこれだった。

 晋也は変な汗を背中にじっとりと感じている。

 男はしばらく見入ると、納得したのか、幾分か澄ました顔つきになって、紙を

晋也に返した。

 雷鳴が轟く。

 雨の打つ音をしばらく忘れていた。意識しないと、それは日常へと変わってし

まう。

 暁はベッドに倒れ込んだまま動かない。死んだ? まさか。そんなことは……

 あって、たまるか。

「コノ紙ノ答アナタ判リマシタカ」

 イントネーションが終わった日本語だった。慣れてないと聴き難いだろう。

「日本に来たばかりの外国人か」

 憤りは、軽い自我崩壊を起こし、木原晋也はいつの間にかしゃべっていた自分

にさえ気づかない。

「正解デース。答判リマス?」

「判らねぇ。何もかも、あき」

「ワタシ判リマス」

 暁に何をしたんだ!

「そいつに、暁に何をした?」

 晋也が指を指す。

「大丈夫デース。答考エテ下サイ」

 変質者か。

 晋也は歯軋りした。

 暁を指差したまま、晋也は小刻みに震え、口から出掛かった言葉が、何故出な

い。くそ。

「……っ……き」

「キィ」

 救急車呼んだ方がよくないか――いや、何考えてんだ、ここは病院だ。

 晋也は唾を呑み込んだ。

 動かない暁、謎の外国人、今週の金曜日に手術を控える自分自身……

「ヤハリ……予言ノ通リダッタ……」

「!?」

 外国人は、ビカビカと光る暗黒の空を、ぼうと眺めた。いや、眺めていた。

 大層大きな雷が落ちた。

 轟音が、凄まじい光の到達から数秒経って、病院全体を包んだ――と晋也は感じた。

 雷光に照らされた外人の表情は……何とも言い難い。口を半開きに、目を見開き、ただ――そう、ただ、宙を捉えている。

 心臓が、キシキシと痛んだ。

 暁さんは大丈夫ですよ、寝ているだけですから。

 男の声が脳裏に浸透した。



 窓際に置いてある果物の詰め合わせは、リンゴ、バナナ、オレンジ、小さなメロンと、病人の口にはちょうどいい量であった。暁が見舞いに持ってきたものだ。

 招かれざる客は、リンゴをひとつ取り上げると、大きく口を開いて丸かじりした。うまそうな音が響く。

 それにしても、と晋也は思った。普段夜更かしなんてしないのに、何故今日に限って自分は起きていたのか。巡り会わせ……か。

 偶然? 運命か……馬鹿みたいだ。

 相も変わらず、男はリンゴにかじりついている。

「暁サンハ、失神シタンデス」

 なんて返したらいいか判らないので晋也は黙っていた。

「ソノウチ起キマスカラ怖ガラナイデクダサイ」

 失神させたんだから、きっと見られたくなかったのだろう。それは、おれを殺すからか?

「……コノ状況、判リマス」

 晋也は判らなかった。しかし、外人のリンゴを喰う様を眺めていると、何だかどうでもよくなってきたのは確かだった。

 晋也は、あの気色悪い紙を手に取って眺めた。

 よく判らない。

 元来、頭を使うのは苦手なのだと、晋也は自己認識している。

 考えるのも面倒だ。

「上カラ」

 外人の突然の発声。だが晋也はもう動じなかった。

「上カラ答ハ、イチ、サン、ゴ、ハチ。数字デス。対応スルアルファベットハ、UOSLUNMI」

 外人は窓の外を見ながら言った。これは謎解きだったのか。


 これが最後の暗号だよ。


 鬼頭からのメッセージにはそうある。

 暗号、謎の欧米人、鬼頭、一体なんだというのか。おれは――心臓病なんだから、ほっといてくれないか。しかし、何故、暁がこんな紙を、気持ち悪い紙を持っている。上カラ答ハ、イチ、サン、ゴ、ハチ――やめてくれないか。いい加減に、してくれないか。

「並ビ替エルノデス。スルト、アル英単語ガデキマス」

「英単語」

「ソウデス。英単語」

 ……こいつは謎解きにきたらしい。迷惑な野郎だ。

「答は?」

「LUMINOUS」

 知らない単語だった。

「意味ハ夜行性ノ、デス」

 夜行性の、が答らしい。どうしたらそんなのを答にする気になるだろうか。釈然としない。

「暁サンガ困ッテマシタラ、教エテアゲテクダサイ」

 いきなりやってきて、いきなり頼みごとか。やはり腑に落ちない。この人間は何が目的だ。いくら考えても判らないことは考え続けるんだ――と、昔、鳴海が言ってたっけな。晋也は深く考えるのをやめた。

「おっさん」

「イエス」

 返事のつもりらしい。

「その仕事、引き受けた」

「アザマス」

 外人は微笑んでみせた。晋也も口角を僅かに吊り上げる。

「おっさんさ。誰なの?」

 暁の知り合いか? 

「暁サンノ遠イ親戚デス。暁サンンニハワタシガキタコト秘密デオ願イシマス」

 相変わらず死んでいる日本語だ。こんなのが親戚とは、知らなかった。

 嘘……か。

 まあ、いい。

 晋也は溜め息をついた。

 なんだかこの状況が、おかしく思えてきた。

「アナタイイ人デスネ。嬉シイデス」

「まぁ、見た目はこんなんだが、中身は違うんだぜ」

「……」

 外人は、スッと部屋から出て行った。

 晋也は一人になった。

「あ」

 あることに気付いた。なくなっている。いや……

「あの野郎」

 持って行ったらしい。気付かなかった。あの外人め。よほど気に入ったか、フルーツ詰め合わせが。

 晋也は何だか、狐につままれたような、何とも言えぬ不思議な感覚に、その余韻に浸っていた。

 もう一度紙を見つめた。

 判らない。だが、それは普通のことだ。人間は誰しもが無知の子供なのだ。

 だから、筋は通っている。これでいいのだ。

 晋也は、暗黒の世界を見渡した。

 ――暗い。

 嵐はまだ去らないのか。雷が落ちるのが見えた。

 雨の音は、いつの間にか日常と化していた。




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