波紋
第六章 波紋
1
季節は巡り、秋。
暑い季節が通り過ぎ、人々は束の間の安堵を得る。
しかし安心してばかりもいられない。もうすぐ冷たくわびしい冬がやってくる
のだ。
だが四季に恵まれている国というのはいい。
五歳まで毎年暑さしか感じていなかったセシルは、改めてそう思った。
十数年前、初めて日本にやってきて冬というものを体感したとき、世界の終焉
を感じてさえいたことが、今ではいい思い出だ。
寒過ぎて死ぬかと思った。世界がおかしくなった、世界が終わる、本気でそう
思ってしまったものだ。
一度は恐惶をきたしたセシルであるが、二度目には違っていた
。
冬が訪れるのが待ち遠しい。冬よ早く来たれ――そう、冬好きになっていた。
肌寒いあの感覚は衝撃であり、いつしか快感へと変わっていったのである。
今年で十八歳になるが、冬好きは変わらない。
――と、ぼんやりと過去を回想していると、ある物が目に止まった。ここは王
里神会本部ビルのロビー。ここに何故あんなものが……
いつかの春と同様、足の疲れを癒やすためソファーに座っていたが、思わず立
ち上がってしまった。
周りの人間は、まだアレに気づいていない。
だが、すぐに一人の男が拾い上げた。
その男は何事もなかったかのようにソレを懐にしまうと、
「……!」
セシルと目を合わせた。
僅かに口角をつり上げ、歩み寄ってくる。
「ドウモドーモ。ゴ無沙汰シテマス」
男は、背の低いテーブルひとつ挟んだ向かいのソファーに座り込みながら言っ
た。
一度も見たことがない。誰だ?
ここにいる以上、王里神会の信者ではあるだろうが。
不審を拭えぬままセシルも座った。
「失礼ですが、お名前は?」
「スイマスイマセンデシタスイマ。トニーデス。ハジメマシテ」
そう、この男はどう見ても外人だ。見た目から喋り方まで。
この男が自分に何の用だろう。ただお喋りがしたい外人か?
「アナタ、セシルサンデスヨネ」
「そうですが」
男はニヤニヤしながら続けた。
「アナタに大事ナ話ガアルノデス」
「私に?」
何故、名前を知っているのか。それ以前に、初対面の人間に大事な話とは、一
体こいつは何者なのか。疑問は絶えない。
「シカシ、イキナリ私ノヨウナ訳ノ判ラナイ外国人ニ聞カサレテモ、アナタノ
頭ハクルクルニナルダケデス」
「というと?」
「プライベートナ話デス、結構。アナタハ信ジナイカモシレマセン」
まるで話が見えない。とりあえず聞くだけ聞いておくか。
「話して下さい」
周りには、人がまばらに散らかって居る。プライベートな話らしいが、ここで
平気だろうか。
「デハ話シマスガ、最初ハ意味ガ判ラナイカモシレマセン。デモ聞イテ下サイ」
「はい」
「北アフリカデ起コッタ抗争ニ巻キ込マレタ経験ガアリマスヨネ? 実ハ、アノ
トキ私モ現場ニイマシタ」
びっくりして腰を僅かに浮かしたのは、言葉を受け入れて一瞬後のことだった
。
最初は頭に意味が浸透せず、噛み砕くのに時間がかかった。
だが思考とは裏腹に、体は無意識に警報を鳴らしていた。じっとりとした汗が
染み出てくる。
鼓動は徐々に早まり、手がぷるぷると震えだした。
「…………」
秒針を心拍数が抜いた辺りで、ハッと我に返り、先ほどの光景を思い出してい
た。
床に落ちていたのは……黒光りする拳銃。まさか。
額から頬にかけて一筋の汗が流れた。
……そ、そうだ。こいつは、銃を落とし……拾い上げたんだ。
セシルの目が大きく見開かれた。
北アフリカでの一件のことを知っている。それはつまり、板垣に自分が引き取
られたことを、この男は知っているのかもしれない。もしそうだとすれば……
板垣の差し金であることがバレているかもしれない!
「き、貴様……! まさか……」
まさか、こいつは。
自分を殺しにきた……
「……まさか、執行部、か」
「クク」
狼狽するセシルを嘲笑するかのように、トニーは悪魔的な笑みを浮かべた。
「マダ話ノ途中デス。落チ着イテ下サイ」
セシルは汗を垂らしながら目の前の男を上目遣いで見据えた。
王里神会執行部。
汚い裏の仕事を受け持つ、主に戦闘に長けた者で構成される、秘密部隊である
。公には知られておらず、一般の信者にもその存在は知られていない。知ってい
るのは上層部のみだ。
セシルは、既に幹部の座を得た藤原に「執行部には注意しておけ」とキツく言
われていた。
――ゴクリ。生唾を呑み込む。
「汗、ヤバイデスヨ」
「……私をどうするつもりだ」
トニーは相変わらず薄ら笑いを崩さない。
「安心シテ下サイ。殺シマセンカラ。神様ニ誓イマス……アーメン」
セシルはハンカチで顔の汗を拭った。トニーは続ける。
「北アフリカデノ抗争、アレハ酷カッタ。板垣サント過激派ノ闘イ、凄マジカッ
タ」
「板垣……だと」
どうやら、このトニーという外国人は、本当に全てを知っているようである。
「十三年クライ前ノコトデスガ、私ハ今デモ覚エテイマス。タクサンノ一般市民
ガ死ニマシタ。アナタノ両親モ、友達モ」
「一体どこまで知っている? 何者なんだ?」
セシルは周りを気にしながら言った。
構わずトニーは続ける。
「辛イ過去ヲオ持チデ。可哀相デス。デスカラ教エマショウ。真実ヲ」
セシルは混乱していたが、トニーは至って冷静だ。
「ちょっと待て。あんたは一体何者なんだ? 王里神会執行部か?」
「落チ着イテ下サイ。確カニ私ハ執行部デス。アナタニハ話シテオキタイコトガ
アルノデス」
「何なんだ、クソ」
「イイデスカ。コレハアクマデモ私タチノ問題デス。王里神会ハ関係アリマセン
。イイデスカ、私ハデスネ、目ヲ見レバ判ルンデスヨ。ソノ人間ノ哀シミガ」
「悲しみ?」
「アナタハ不当ナ死ニ打チノメサレテル。違イマスカ?」
両親やリビのことを言っているのだろう。しかし、この男はどこまで知ってい
るんだ。
「誰モガ不当ナ死ヲ追ウベキデショウ。不当ナ死ヲ招クノハ、コノ世ニハコビル
憎シミ。コノ世カラ不条理ガ無クナラナイ限リハ、憎シミハ無クナラナイ。ソシ
テ憎シミノ連鎖ガ始マル。ダガ私ハ思ウノデス。コレガ地球トイウ星ニ生マレタ
ヒューマノイドニ課セラレシ宿命ナノダト。
アナタニハ、権利ガアリマス。復讐スル権利ガ」
……復讐。
トニーの言葉がセシルの脳裏に浮き沈みした。
「誰ガアナタノ両親ヲ殺シタノデス? 誰ガアナタノ友達ヲ消シタノデス?」
セシルは、今まであの事件のことについて調べたことはなかった。というより
、全てを失ったセシルにとって、事件を究明しようなどという気は全く起こらな
かった。ショックが大きく、どうでもよくなってしまったのである。
ただ、自分が生きているという事実にすら虚無を感じ、漠然とした心持ちで今
まで生を歩んできた。
時々、孤独を感じることは確かにあった。
誰が殺したのか?
それを改めて問われてみると、大体の察しはつく。
「地上ニイタ過激派ハ虚ヲツクタメ住民ノ格好ニ扮シテイマシタ。過激派ハ黒イ
服ヲ着タ板垣サンタチガターゲット。モウ判リマスネ? 住民ヲ敵ダト誤リ殺シ
タノハ板垣サンタチナンデスヨ」
この話が本当であると示す証拠はどこにもない。だが嘘であるとも断言できな
い。それをセシルに推し量ることは無意味だった。
「それで私にどうしろと?」
「悔シクアリマセンカ? 間違ッテ殺シテシマッタトハイエ、板垣サンタチノヤ
ッタコトハ立派ナ殺人デス。ソレモアナタノ家族デス。ムカツキマセンカ? 板
垣サンハ今モノウノウト生キテイマス。オ金ニモ困ラナイ豪勢ナ暮ラシヲシテイ
ル。アンナ惨劇ヲ引キ起コシテオイテ」
セシルは頭を抱えた。うつむき、黙ったまま。
「確カニ過激派ノ人タチモ悪イノデスガ、アナタガ復讐ヲ果タセルトシタラ、板
垣サンヲ殺ス。ソレダケデス」
「!?」
……殺す?
トニーの笑みに邪悪さが増した。
「頭がおかしいみたいだな。主を殺そうなどと。今では誰も我々と張り合おうな
どとは考えない。海外マフィアも手を出さん」
「…………」
「現場にいたと言ったな。何をしていた?」
「私ハ過激派ニ雇ワレタ傭兵デシタ。板垣サンノ兵ト闘イマシタ」
「なるほど。その生き残りか。その元傭兵が私に何の用なんだ。今度は主の暗殺
を任せられたのか。誰に雇われたのかは知らないが」
「イエ、違イマス。私ハ誰ニモ雇ワレテイマセン。傭兵ノ仕事モ辞メタシタ。ア
ナタガアマリニモ可哀相デシタカラ、復讐ノ手助ケヲシヨウト」
セシルは引きつった笑みをこぼした。
「どうかしている。自分が何を言っているのかわかっているのか。そんな根も葉
もない話を鵜呑みにしろと? あんたとは今日初めて会った。信用できない」
するとトニーは「クククク」と抑えるように笑いだした。
「根モ葉モナイ……ソレハドウカナ。アナタヲ信用サセルコトガデキル要素ハア
ル。スパイデス。板垣サンノ組織ニ送リ込ンデイマス」
「何だと」
セシルの表情が一変した。
トニーはあごをさすりながら、済ました微笑みを携えている。
「イワユル冬眠スパイ。ソノトキヲ待ッテイル。今デハ側近アタリニハ昇リツメ
テイル。ソレデモ彼一人デハ板垣サンヲ殺スノハ無理デス。運良ク成功シテモ彼
モ消サレルノガ落チ。死ンダラ意味ガナイ。スパイニハ生キテ国外ニ逃ゲテモラ
ウ。ソレガコチラノ決ダ。
ソコデアナタノ手ヲ借リタイ。両親ノ敵討チガデキルノデスカラ、アナタガ断
ル理由ハナイ。ソレニ板垣サンハ極悪人。多クノ人々ガ喜ビマス。彼ガ死ネバ。
アナタモ作戦ガ終ワッタ暁ニハ国外ニ行ッテモライ、豪勢ナ暮ラシヲ堪能シテモ
ライマス。悪イ話ジャナイハズデス」
セシルは目をつむって聞いた。ゆっくりとした口調で。
「それで、そのスパイってのは、誰だ」
「梅田デス」
セシルは梅田を知っていた。よく話もする。今では「北アフリカの生き残り」
として名を轟かしている男だ。抜け目がない誠実な人間で、とても優秀だ。
まさか梅田が得体のしれない組織のスパイだったなんて思いもしなかった。も
っとも、この男の言っていることが本当かどうかはわからないが。
「彼ニ話ヲ聞ケバ私ノコトモ少シハ信用シテクレルデショウ。彼ニハ私カラ話ヲ
通シテオキマス。マタ詳シク話シマショウ。フフフ」
そう言うと、トニーは立ち上がってテーブルにメモの切れ端を落とした。そこ
には連絡先が記してあるようだった。
「アナタハ必ズ……そう、必ずこの話に乗るでしょう」
そう言い残し、トニーは去っていった。
トニーの落としたメモを手に取り、セシルは呆然とその後ろ姿を眺めていた。
無性に喉が乾いた。
立ち上がり、すぐ後ろにある自動販売機でジュースを買い飲んだ。
喉の飢えは癒せたものの、しかし不安にも似た焦燥感のような――不確かな悪
寒は拭えず、セシルはうなだれた。
だが、同時に思い出してもいた。十数年前のあの忌まわしき光景。忘れるはず
もない。ストリートに倒れた母の姿。父の姿。リビの姿。
あのとき、己の中に芽生えた感情がどんなものであったか、セシルは今思い出し
ていた。
瞳の奥に熱い何かを感じる。
それが野望であると彼が気づいたかどうか、それは誰にもわからない。彼以外
には。
2
地下鉄のホームはいつになく薄ら寒かった。今日は気温が低いらしい。
ポケットに手を突っ込み、固まる。彼はそうして寒さを忘れようと努めた。
「やあ」
しかし、これからデートである。彼女の到着を待つこの間だけ寒さを忘れたと
しても無意味だろう。なんせ都会をひた歩くのだから。
それにしても先ほどから誰かが自分に呼びかけている気がする。
「こんにちは」
別に自分にとは限らない。だいたい、挨拶の言葉を発している男は少し離れた
場所にいる。左に三メートルくらいの位置か。
「酷いなぁ、これじゃあ僕は、頭のおかしい奴じゃないか」
声に聞き覚えはあった。こういう演出が好きな男は、知る限り一人いる。
男はようやく歩み寄ってきた。隣に立つと、彼と同じようにして電車を待つ人
となった。
目の前を通過列車がもの凄い勢いで通過した。風が二人を押す。
「そういえば」
という切り口で、男はどうでもいい世間話を語り出した。しかしあまり興味は
なく、十分な返事もしないでいると、彼女はふらりと姿を現した。
「誠也」
ボーイフレンドの名を呼び、その女子高生は近づいてきた。
隣で男が毒づいた。
「噂のガールフレンドはJKだったか。援交だと思われないよう気をつけなよ」
「うるせえ」
上條はニヤリと笑みを作った。
「どちら様?」
聖蘭第一女子高等学校の制服に身を包んだ平沼凛は、上條の隣の男を知らなか
った。
「あぁ……こいつは」
上條が説明しようとすると、
「上條、自己紹介くらい自分でできる」
と割ってきた。
黒い帽子に、黒いロングコート。コートの隙間から見えるが、上下とも黒い。
どうやら相当な黒好きのようだ、と凛は思った。
「神屋聖孝です。はじめまして。上條の友達です」
胡散臭い笑みを浮かべてそう言うと、神屋は腕をまくった。腕時計の針は、チ
クタクと時を刻んでいる。
「あぁ、もうこんな時間か。じゃあ、ご挨拶だけで恐縮だけど、もう行くよ」
身長約百九十センチの上條の肩にポンと手を軽く弾かせると、神屋はスタスタ
とその場を去っていった。
「何しにきたんだ、アイツは」
「何か変な人。でも超イケメンだったね。あ、なにその顔、妬いてるの」
いつしか空は暗くなり、夜は更けていた。
二人は遊び疲れ、これ以上ないくらいに満足した面持ちで、夜の街を寄り添い
ながら歩いた。
「今日は楽しかったぁ~」
凛はうっとりした目を上條に向けた。
寒い夜だ。
だが満月は強く輝いている。
その淡青色の月光が、街全体を照らし――上條の鋭い眼光が月を睨んだ。
……いい夜だ。
一人で歩いていたらつまらぬ一夜であったろうが、腕に女がくっ付いている。
それも最高の女が。
月から視線を前に戻すと、数人の不良が目に映った。
凛も静かになっている。
向かってくる二人に気づいた不良たちは、ニヤニヤしながら絡んできた。
「君は処女かな?」
金髪でピアスを着けた男が凛を見て言った。その瞬間、顔面が潰れ、その場に
崩れ落ちた。血が滴り落ちる。
「なんだおい」
残りの連中がざわめいた。
上條の手の甲に、金髪ピアスの血が付着していた。早過ぎて何が起こったのか
よくわからない様子だったのは、一人や二人ではない。高速の裏拳だ。
「いでぇっ! いでぇっ!」
金髪ピアスがわめきジタバタしている。その間にも向かってきた数人がいとも
簡単に粉砕された。月光に照らされる野獣――上條の剛腕によって。
最後の一人を残して、他四人は全員葬られた。まるで無傷の上條は聞いた。
「お前はこないのか」
最後の一人だけ醸している空気が違った。それなりにその道を歩いてきた強さ
が、全身から感じられる。体格も別格だ。ヘビー級のボクサーのような、無駄な
肉は削ぎ落とされ、筋肉の鎧をまとった肉体。上半身裸のスキンヘッド。その色
白な肌は月の光にざわつかない。
スキンヘッドは静かに言った。
「お前、強いね」
ゆっくりと立ち上がり、上條に近づいてきた。
凛は澄ました顔で、倒れてうめく男たちをつま先でつついたりして遊んでいた
。どこか楽しそうでもある。
「友達がやられて黙ってはいられないな」
上條の前まで来るとそう言った。
「冗談だろ? 手下みたいなもんだろ」
上條は笑った。男の身長は上條とほぼ変わらなかった。
「どこで格闘を習った? 危ないニオイがするよ、お前」
上條は応えず、高速のストレートを放った。拳はクリーンヒットし、スキンヘ
ッドの顔面を壊した。
二人はまた何事もなかったかのように歩き始めた。
「やだもう。家まで送って。ああゆうのキライ」
「やけに楽しそうだな」
凛は意味あり気な視線をよこした。
しばらく駅までの道を歩くと、不意に凛は立ち止まった。そして、チラリと眼
球を動かした。その視線の先には、
「おいおい」
上條は半ば呆れた失笑を漏らし、早く帰ろうと催促した。
仕方がないので、凛もすぐに諦めた。
「まだラブホテルは早いだろ。お前、仮にも高校生なんだぞ」
「あたしの友達でラブホに行ったことある人いるけどね」
「援交じゃねぇの? それ」
凛はまだ名残惜しそうであった。
「もう、奥手な男なんだから」
「ばか」
駅に着いた。
電車が来るのを待っている間、二人は無言だった。
キキーと音を立て、電車がやってきた。一緒に乗ろうとする上條を押しやり、
凛はニコリと笑みを作った。
「おい」
「大丈夫。やっぱいい」
そしてドアは閉まった。上條は笑顔で軽く手を振った。ドア一枚挟んだ至近距
離で、凛は上條の両目を覗き込んだ。
「素敵な目……」
まるで狼のような静寂をまとった瞳であった。
3
湘南新宿ラインに籠原から乗り込み、乗り換え無しで渋谷まで各駅停車で移動
する。
渋谷に降り立ったら、いつまで経っても人の群れ絶えぬスクランブル交差点を
横断し、冷たい十二月の風を黒の革ジャンでしのぎつつ、ひたと歩く。沢山の大
きな建物に囲まれながら、とかく歩く。
そして遂に上條は疲れた。無尽蔵の体力の持ち主として周囲に認知される彼ほ
どの人間が疲れた訳は、先日の仕事のせいだった。
彼の仕事は主に抹殺だ。不安分子の消去、死人に口なし……、王
里神会の引き起こそうとしている〈革命〉を嗅ぎつけた輩の処分が最近のそれと
なっている。
彼に与えられたのは天性の武力であった。トレーニングを特別していたわけで
はないし、格闘技も習ったことはない。彼の肉体は大人になるにつれ、まるで闘
いを欲するかのようにその完璧な体躯を完成させていった。無駄な脂肪は存在せ
ず、これ見よがしに筋繊維は膨張していった。体脂肪率五パーセント以下で体重
九十五キロ、身長百九十三センチのパーフェクトボディを維持して一年になる。
無論、食事制限やトレーニングは特別に行ってはいない。体がもうひとつの意志
を持ってそうしているかのようだ。闘いを、血を欲するかの如く。
「おれは未だに体験したことがない。血まみれになって闘う至高の殺し合いとい
うものを」
「当たり前だ。普通はそんな体験をすることはない。君にとっては周りの人間は
ゴミクズにしか映っていないんだ。暴力こそ最強の力、能力であることを君は知
っているから」
「そんなことはない。確かにおれが軽く撫でてやれば大概の奴は死んでしまう。
しかしゴミクズだとは思っていないぞ」
「そうかな?」
神屋はメモ帳を取り出し、何かを書き込んだ。
「またそれか。それが何の役に立つかは知らんが」
「上條誠也にとって人間はゴミクズではないらしい」
神屋は書いた内容をそのまま読み上げたようだった。
「お前は努力が嫌いなんだよな。なのに努力しているのは何故だ」
「バカだなぁ。これだから腕力バカは。いいかい、嫌いだからといってやらない
というわけではない。嫌いだがやる。ところで僕が何を努力してるって?」
「そのメモだよ。おぶざべいしょんだか何だか」
しばらく前の神屋との会話を思い起こしながら、上條は徐々に目的地にたどり
着こうとしていた。こんな状態で果たして仕事はうまくいくだろうか
。上條は疲れた頭をブンブンと振った。相変わらずいつやってきても渋谷の街は
人がいっぱいだった。どうして世の中にはこんな暇な奴らが大勢いるのか……お
れもその一人か。やっていることの根底にはみな突き詰めれば同じ理由がある。
人生は死ぬまでの暇つぶし。おれはただ遊んでいるだけだ。
……寒いんだったら家に帰れよ。
「ねぇ、シズ~!」
「ん」
「この服かわいくなーい?」
「かわいいかも! でもアミっぽくない!」
「そうかぁ? わッ寒!」
ガラスの向こうでマネキンに着せられた服を見つめる女子高生たちの会話が耳
に入り、上條は呆れてそう思った。よく見れば一人は見慣れた制服を着ていた。
――あと二分くらいで着く。
携帯のディスプレイに表示された時刻は午後四時ちょっと前だった。それなり
の緊張が胸を走った。何だかいつもは感じない変な予感めいたものを胸の奥で感
じた上條は、大きく息を吸い吐いた。建物に着いた。ヤバい、始まる。殺し合い
が始まる。それなのに胸が何故か、いつもは感じない謎の痛みに軋んでいた。ど
ういうことだ? これは物理的な痛みというよりかは、嫌な予感に近い、そう、
奥深いペインだ……
今日は降りるか。勝てる気がしない。変だ。こんなことは一度も今までなかっ
た。いやしかし今更引き返すことはできない。不意に友人神屋のかつての言葉が
想起された。
――いつかツケは回ってくる。
確か、おれが初めて人を殺したときの夜だったっけか……
上條は小さく笑い始めた。端から見ると不規則に息を吐いているように見える
かもしれない。
まさか、今日が命日なんてことは……
「上條君」
王里神会執行部の長が上条にこの話を持ちかけたのは、つい先日のことだった
。
「君に大切な任務を命ずる。Kもこの任務には注目している。だから私は君を選
んだ」
籠原での仕事を終えたばかりの上条に、長は微塵も配慮するつもり
はないらしかった。長直々に電話がかかってくることが何を意味しているか、考
えなくともわかる。面倒クセェヤマだ。上条はうなだれながらも、それを悟られ
ないよう相槌をうった。
「ぶっちゃけ私は、執行部で一番強いのは君だと思うのだ。ゆえにある闇の組織
の代表と殺し合ってもらいたい。そして勝ってくれ」
「はぁ」
「これは組織同士の力の見せつけ合いでもある。敵に我らの暴力がいかほどなも
のかを判らせギャフンと言わせたい意味もある」
そんなこんなで今渋谷にいるのだ。詳しい話は聞かされていない。でも、この
地下へと続く薄暗い無機質な階段を見たら、何もかもどうでもよくなった。何も
かもというのは言い過ぎか。彼の心にはもう一人の女が住みついているのだから
。
コツコツと音を立て階段を降りる度に、自分が不幸な道へと足を踏み入れてい
くかのような気がした。
……凛。
上条は、錆びた扉の前で立ち尽くした。
4
相手は完全にこちらをナメていた。時間も場所も勝負の条件も王里神会側に決
めさせた時点で、上条はそれを理解した。
「変なプライドか?」
「かもな」
扉の向こうでは、既に仲間の執行部も何人か集まっていた。
ここはある建物の地下一階。四方八方が所々寂れた鉄の壁で囲まれた広い空間
。天井についた蛍光灯の光が弱々しく光っていて、何やら不気味な雰囲気だ。
相手はマフィア気取りのつもりか、黒スーツに黒ネクタイ、ブラックのサング
ラスときた。この場所にこれる人数はそれぞれ五人と決めていたがどうせ外には
何人も隠れているのだろうと上条は思った。
上条は相手を一人ひとり注意深く眺めた。あの五人の内、誰が相手なのか……
いやそれよりも、何かよからぬことを考えてそうな顔はいないか。仲間の一人
が前に出て説明を始めた。
「全員時間通りにそろった。さっそく始めよう。確認しておくが武器はナシだ。
素手でやり合ってもらう。それ以外に特にルールはない。破ったら取引は不成立
ということで認識させてもらう」
上条が前に出ると、相手も一人出てきた。ガタイがいい男だ。身長は上条より
やや低い。
「始め」
闘いは始まった……かに思われたが、誰もが目を疑った。どちらもピクリとも
動かないのである。上条が口を開いた。
「なぁ、おれは詳しい話を聞いてないんだが、これは何の冗談なんだ?」
相手は鼻で笑う。
「ふざけてるのか? それとも、それが王里神会のやり方なのか?」
「いや、おれは本当に何も知らない。できればこんな殺し合いはしたくない」
上条が言い終わらないうちに血の気の多い男が後ろの方で罵った。
「今更遅ェ! 覚悟決めろ!」
口うるさい落武者め。上条は仲間のふざけた野次に舌打ちした。王里神会執行
部にはロクな男がいない。唯一まともなのはあいつだけか。鋭い眼光が特徴的な
オーストラリア人。図体だけが頭の成長には比較にならず突飛した。それが故に
大切なネジが何本か緩んではいるが、馬鹿親切という不器用さが周りに好評とい
うから笑ってしまう。影のアダナはキラーマシン。これでも執行部の中では一番
マシな男だ。上条は納得いかないといった風に後ろでぼんやりと突っ立っている
キラーマシンを見据えた。何故おれがこんな目に……奴の方が適任だろうに。
「お望みなら楽に逝かせてやるぜ」
「ふざけんな」
パァンという乾いた音が鳴り響いた。一斉に全員が動き出す。目の前の男は袖
口から鋭利なナイフをのぞかせ、思い切り斬りかかってきた。馬鹿みたいに発砲
音が辺りを包んだが、幸いにもここは防音設備に恵まれているらしいので、外か
ら要らぬ邪魔が入ることはない。
最初のナイフは防げたが、追撃で右目をパックリとやられた。血がドロドロと
溢れ、右目が何も見えなくなると同時に、上條は相手の腹を蹴り上げた。男は吹
っ飛び、その威力を半ば信じられないといった表情で宙を舞った。そしてキラー
マシンの撃った弾が頭に二発ほど当たり死んだ。
上條は倒れ込んだ。弾に当たるわけにはいかない。弾避けの遮蔽物が一切ない
閉鎖空間であったため、そう長くは続かず、闘いは幕を閉じた。
「…………」
全員死んだようだ。まだどこからか呻き声が聞こえるが、上條は立ち上がり、
空間を見渡した。全員倒れて動かない。
意味が判らなかった。こんな下らないことで右目を失明するとは、とんだ誤算
である。こいつらも馬鹿だ。自分も馬鹿だがこいつらもアホだ。危険な遊びに身
を投じて普通に死んだ。命はもっと大事にしたらいいのに。上條は虚ろな頭で崩
れた屍たちを見てそう思った。
ひとつしかない出入り口のドアに足を運ぶと、キラーマシンが虫の息で這って
きた。まだ生きていたらしい。気づかなかった。
「大丈夫か、鈴木」
「ハァ……ハァ……」
「駄目みたいだな」
右目の出血をハンカチで押さえながら気持ちの悪い死体空間を抜け出した。敵
の一人が何かを叫んでいたが、すぐにドアを閉めた。そして静けさが訪れた。変
な男たちも訪れた。
揺られながら、何となく先日の仕事のことを思い出していた。他にすることが
なかったからかもしれない。
――彼は上條が苦手なタイプだった。テンションが無駄に高く、無駄に場を盛
り上げようとするからだ。芹沢という名の中年だった。
芹沢は事ある毎につまらないギャグめいた発言で空気を悪くした。彼は黙ると
いうことを知らなかった。自身がKYとして上條に認識されたことをすぐに理解
したが、それを今後改善する手立てを喋る以外に彼は思いつかなかった。その必
死さが逆に上條の精神を逆なでしていることに彼は最後まで気づかなかった。
そんなオヤジと丸々一週間も一緒に過ごしたせいで、上條は精神的にやられて
いた。叱責することも、無視することもできないかなり微妙な関係が、出会って
から彼が死ぬまで変わることはなかった。任務自体は成功したが、中年オヤジは
死亡した。しかも惨い殺され方だった。それが余計に上條の心を痛ませた。ああ
いう不器用な優しさを持った人間が激しい拷問の末に朽ちていったこと、最後ま
で仲間を売らなかったことが、無性に歯がゆかった。このように、数年前に王里
神会執行部に配属された上條は、そのときから今日まで普通の人間が送るべき人
生を歩めていなかった。それが故か、彼は教祖Kの言葉に身を任せ、後に大きな
代償を背負うことになる。すがるモノがなかったといえば、仕方のないことだっ
たのであるが……
芹沢のせいだと上条は決めつけた。あいつがおれの精神を下手に痛めつけるか
ら、こんなことになった。本調子ならあのナイフが目を裂くことはなかった。そ
う憤慨混じりに決めつけた。
しばらくすると揺れが収まった。車が停車したようだ。静かだ。トランクが開
いた音がした。上条は引きずりだされた。
「取れ」
上条の頭に被さっていた黒い布が取り払われ、左目に光が差し込んだ。ここは
どこだ?
「いや~馬鹿な奴らよ。我々に抗うとは。交渉決裂! 死んだよオマエ」
手にはロープが巻きついていたが、上條の力ならいとも簡単に千切ることがで
きる。しかし、今はダメだ。機を見極めねば死ぬのはこちらだろう。
派手なスーツに身を包んだ男が高らかに笑った。
「あんたら宗教団体がうちの組に手を出すなんて、いや、極道なめなさんなぁッ
」
血がついた黒いベルトが上条の肩にベチンと当たった。
「ケジメ取れよ。あは」
上条は椅子に座らされ手足と腹を縛られた。
「あの辺はうちが占めてんのよ。あの土地は、でしゃばっちゃ。いけません……
」
「おいおい、クセェ息を嗅がせるのが趣味みてぇだが、よくない趣味だぜ。なぁ
?」
上条の顔面に強い衝撃が走った。二度と舐めた口をきくな、そう吐き捨て、黒
人が睨みをきかせた。
……馬鹿が。
上条は辺りを見回した。
「ここは新宿にある我々の経営するバーの一室だよ」
それから十分が経った。騒がしい音が周りから響いてきた。ひとしきり痛めつ
けられた上条は、安堵の息をもらした。
「馬鹿野郎。付けられてたんやないやろうなぁッ」
バタンと扉が開く音を聞くと上条は渾身の力で椅子をバキバキいわせて立ち上
がり、派手な男を一発殴った。男は目玉を両方とも飛び出させながら床に倒れた
。
「オセェよ。馬鹿野郎」
それから程なくして全てが丸く収まった。キラーマシンが執行部に連絡して、
交渉決裂を伝えたそうだ。執行部は敵を殲滅したらしい。そんな簡単にいくなら
最初から潰せばいいのにと上条は思った。おかげで自分はこのザマだ。長が電話
の向こうで謝った。
「すまなかった。だが君たちの時間稼ぎのおかげだ。君たちが頑張ってくれたお
かげなのだ。感謝している」
後片付けをする仲間を眺めながら、上條は右目の出血を押さえ続けた。
「大丈夫デスカ」
トニーという外人が話しかけてきた。こいつはよくわからない奴だ。
「ドコカ怪我ハアリマセンカ」
とぼけた冗談がうまいようだ。
上條は立ち上がり、凄惨な現場と化したヤクザバーをあとにした。
「…………」
心がおかしくなってしまった気がした。
この世界は狂っているんじゃないのかと疑ってしまった。
いかれているのは自分か世界か……どっちだ。
顔半分が血まみれのまま新宿の街を歩くと、ある人は驚き、ある人はどうでも
よさげに目を背けた。
そんな人間たちが上條には中身のないブリキに見えた。だが、彼ら以上に中身
が消えているのは自分なのだとそう思った。上條は笑いもしなかった。ひとつだ
け言えることがある。おれは世間でいうところの荒くれ者以外の何者でもない。
上條の足取りは至って普通だったが、心は変にうずいていた。
「誠也……誠也!?」
凛の声がした。幻聴か?
どっちでもいいな。
「何してるの?」
凛のか細い白い手が二の腕を触れた。
しかし、上條はこの世界のだいたいが判ってしまっていた。
「凛……?」
凛の瞳が潤んでいた。
二人は見つめ合った。
「こんな所で何してる」
「ど、どうしたの、その……」
凛は言葉を失っていた。
「いいんだよ、凛。心配しなくて」
そのときだった。後ろから誰かが首を締めてきた。が、肘で腹を打ちつけると
、襲ってきた者はうずくまった。もろに上條のパワーを腹に受けたのだから、た
だでは済まない。
「ガァァ」
「生き残りか」
上條はやってきた仲間に任せると、凛を連れて歩き出した。
「……さっきの……」
凛にはもう何が何だか判らないようだった。
「いいんだよ、凛。心配しなくて」
しばらく歩くと、ラブホテルの前に着いた。
「凛」
「何?」
「おれといると危険が及ぶ。別れよう」
いつもと変わらない風景。
そこにあったのは紛れもない普通の日常。
野獣は美女に別れを告げた。
いつしか野獣はそこから消え去り、名残を惜しむ間もなく美女は微笑を忘れ涙
した。
頬を伝う澄んだ雫は、消え去ることのないカルマを象徴しているか
のように……――




