野蛮な国
第一章 野蛮な国
1
ここは野蛮な国。
北アフリカに位置し、国に面した地中海が美しい。
その野蛮さとは対照的だ。
笑って人を殺す連中が常にはこびり、その町から死が途絶えることはない。とあるスラムの一角。部屋の窓の外に見える景色を眺め、今日も少年は呟いた。
「あの海、キレイ……」
夕日に照らされた地中海は不必要に輝き、赤く、眩しいくらいだ。目を細めてしまう。
そう、思えば、この国に道徳があるなら、明日、この少年に不幸が訪れることはなかったかもしれない。いや、この世に道徳があるのなら。真の道徳が。
しかし、少年は知っていた。
真の道徳などはない。人は野蛮な生き物だ。太陽が沈み、また日が上がるとき、彼らはこの国にやってくる。そう、この町に。
パァンッッ
突然の銃声。乾いた音が少年の耳に届いた。ふと思う。さて、今日は何人、死んだだろうか。少年は指折り数えてみた。
銃声だけなら七発聴いた。ストリートの真ん中で袋叩きにされた人は二人見た。多分、九人くらいは死んだだろう。
夜は長い。
太陽が沈み切り、辺りが夕闇に包まれた頃、ここより遥か遠い上空で、一機の飛行物体が、確かなスピードを持って、この国に迫っていた。
少年はベッドに落ち着き、瞳を閉じた。
明日は嫌な日になるだろう。
少年以外は気づいていない。
月は恐ろしいほどに輝いている……、恐ろしいほどに。
2
空気を切り裂き、雲を蹴散らし、死を運ぶ外道が空に浮かんでいる。
見る者を恐怖させる、その剣幕。深い皺が老いた肌に食い込み、年相応の貫禄が醸される。
殺人依頼請負人、総大将、板垣権三郎。
この飛行機は貸切だった。搭乗しているのは、板垣ら一味だ。この世に怖いという言葉があるのなら、彼らを置いて勝るものはないのではといったぐらいの恐怖を感じながら、キャビンアテンダントの女は業務を行った。
「……お飲み物は如何ですか」
「オレンジジュース」
板垣は窓の外の暗い世界を見つめていた。
その薄く細く開かれた目の奥に何が映っているのだろうか。それは誰にもわからない。
父、一郎が心血を注いで創りあげたその組織は、今より三十年以上前に設立された。年々規模を拡大し、今日では裏世界で知らぬ者はいない強大な組織となっている。
主な仕事は、殺人の依頼を受けることだった。だが、直接板垣らが手を下すのではなく、彼らはただ、ヒットマンに依頼を伝達するだけ。
一般人に殺し屋と繋がりを持つ者はそういない。しかし、人は人を憎み、殺したがるものだ。それでも自分は助かりたい。罪を被りたくない。そう
思う者たちのために、彼らがいる。殺人依頼請負人。
彼らのような者は普通、表世界にまで触手を伸ばさない。表には警察という犬たちが徘徊しているからだ。
犬たちに存在を悟られることなく触手を張り巡らすのには、それ相応の時間がかかった。しかし、徐々にその知名度は広まり、彼らのもとに押し寄せる依頼の数は確かに増していった。
いずれ警察勢力ですら手が出せなくなるほどに腹を膨らませると、その行動はより大胆になっていく。専属の殺し屋を雇ったり、外国から武器を購入するなど、より仕事をスムースに行うために。そして独自の暴力をも手中に収めるまでになると、もはや彼らを止められる者はいなくなった。海外マフィアも手を出さない危険な組織の仲間入りを果たしたのである。
今は亡き一郎はこんな言葉を残している。
誰もが不当な死を許さぬ日を追おう
つまり、憎い者を殺せる世の中になればいい、ということだ。
キャビンアテンダントの女は順番に機内を巡っていく。しからば、こんな普通の表情をした人間にも、殺したくて仕方のない人間がいるかもしれない……
「お飲み物は如何ですか?」
「リンゴジュースを」
「……!」
突然の英語に戸惑った。
見ると、二十歳くらいの青年だった。日本人……、いや、中国人?
「かしこまりました」
すぐに英語で対応し、カップに注ぐ。手渡すと、青年は「センキュー」と小さく礼を言った。
ほとんどがおっかない顔をしたオジサンばかりの中、比較的若い方だ。
――飛行機はあと一時間もすれば着陸に入る。
まるで暴れる前のウォーミングアップのように、青年は指の骨を鳴らしていた。惨劇は、いつの世にも変わらず訪れる。その引き金に自分たちがなるであろうことを、彼らがわかっていたかどうか、それは誰にもわからない。そう、誰にも……
朝だ。
朝がきた。
「おはよう」
人々は目覚める。
家の中で寝ていた者は天井を仰ぎ、路上で寝ていた者は、照りつける太陽光に目を細めた。
この国は一年を通して温暖だ。国土の大部分が砂漠のため、降水量は少なく乾燥している。主要都市でも年間降水量は四百ミリを超えることはない。
路上で寝ていた男は体を起こし、頭を掻いた。腹が減った。またどこかで盗むか。
ふと視線を上にあげると、窓から少年が顔を出しているのが見えた。
少年は今日も朝から海を眺めていた。
――しばらく地中海スルト湾をぼーっと眺めていると、下から声が聞こえてきた。知ってる声だが、家族の声ではない。
どうやら友だちのリビが遊びにきたらしい。
サッカーでもやるか。
少年はボールを持って部屋を出た。案の定、下の階にはリビがいた。
「気をつけるのよ」
母は何やら家事をしながら、二人に呼びかけた。
「行ってくるよ」
ストリートには危険がいっぱいだ。けど、大丈夫。気をつけていれば大丈夫だ。
二人はストリートに出るとサッカーボールを蹴り始めた。
「リビ!」
「なに?」
「……今日は気をつけろよ」
「なにを?」
「とにかく」
しばらくボールの蹴り合いをしていると疲れてきたので、二人は座って休むことにした。
「リビ。今日は早めに家に帰ろう」
「えー。お前、たまにおかしなこと言うよな」
「いいから、外に出ないほうがいいよ」
「何で」
「…………おっかないのがくる」
「おっかないのって?」
「さぁ……わからない」
「なんだよ、それ、変なの」
リビは帰って行った。
多くの人々が行き交う中で、リビの後ろ姿が波にさらわれ、消えてゆく。
少年はボールを小さくバウンドさせると、空を見上げた。
もうすぐだ。もうすぐそれは、やってくる。
少年は知らず知らずのうちに唾を呑んだ。ゴクリ……
何かとんでもないことが起こる。そんな嫌な予感が胸をよぎった。
……帰ろう。
人々は相変わらず、何にも気づいていなかった。
だがそれは当たり前のことだ。不思議なのは、少年の胸をよぎった不安がどこ
からもたらされたのかわからない、ただその一点なのだ。
太陽の光はまぶしい。ギラギラと照りつけている……、目を細めたくなるほどに。