でんでらりゅうば
長崎で耳にした、一つの童歌。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、録音した歌声は、聞くたびに人数が増えていく。
調べるほどに深まる違和感。
旅の最後に残されたものは、偶然では片付けられなかった。
でんでらりゅうば
長崎へ来たのは、旅行だった。
特別な理由はない。
昔から一度、この町を歩いてみたかった。
坂道。石畳。教会。港。六月の雨。
ガイドブックには、「雨も長崎の景色です」と書かれていた。
なるほど。
本当に、その通りだと思った。
傘を差して坂道を歩いていると、子どもたちの歌が聞こえた。
♪でんでらりゅうば でてくるばってん でんでられんけん でてこんけん こんこられんけん こられられんけん こーんこん
私は足を止めた。
「……え?」
子どもたちは笑っている。
ただの遊び歌。
そのはずだった。
けれど。
私だけが歌を聞いていた。
いや。
言葉を聞いていた。
「Dentro da chuva……」
思わず口に出していた。
雨の中に。
そんなはずはない。
私は苦笑した。
偶然だ。
そう思いながら、私はホテルへ戻った。
夜。
ノートパソコンを開く。
『でんでらりゅうば』
検索結果は、長崎のわらべ歌だった。
長崎弁。
古くから伝わる童歌。
意味については諸説ある。
私は頷いた。
それで終わるはずだった。
だが。
耳が納得しなかった。
私は辞書を開く。
ポルトガル語。
Dentro da chuva.
雨の中に。
私はゆっくり声に出した。
「デントロ・ダ・シューヴァ」
もう一度。
「……でんでらりゅうば」
私は眉をひそめる。
偶然だ。
そう思った。
念のため、スペイン語も調べる。
Dentro de la lluvia.
こちらも。
雨の中に。
私は椅子にもたれた。
ポルトガル語。
スペイン語。
違う言語なのに、意味は重なる。
もちろん、これだけでは何も言えない。
音が少し似ている。
それだけだ。
それだけなのに。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感だけが残った。
念のため、と思い、スマホを取り出した。
さっきの歌を、録音していたことを思い出す。
再生する。
子どもたちの歌声。
数えると、四人分。
多い。あの場にいたのは、三人だったはずだ。
「……聞き間違い」
私はそう呟いて、スマホを閉じた。
翌日。
私は図書館へ向かった。
郷土資料。
長崎節。
童歌。
古い採集記録。
どの本にも、「でんでらりゅうば」は載っている。
だが、誰も外国語との関係には触れていない。
当然だ。
証拠がない。
私は本を閉じる。
「……そうだよね」
もし、本当にそうなら。
証拠など残るだろうか。
そう考えた瞬間、自分で苦笑した。
「考えすぎ」
私は首を振った。
午後。
教会を訪れた。
静かな堂内だった。
雨音だけが聞こえる。
私は十字架を見上げる。
その瞬間。
頭の中で、童歌の続きを思い出した。
でてくるばってん
童歌
私は立ち止まる。
バッグからノートを出した。
ポルトガル語。
スペイン語。
英語。
辞書を並べる。
一つ一つ、音だけを拾う。
意味ではない。
意味にすると、きっと間違える。
だからまず、音だけ。
私はそう自分に言い聞かせた。
調査メモ
でんでらりゅうば
Dentro da chuva
Dentro de la lluvia
雨の中に。
でてくるばってん
de te...
cruz
cruzar
cruzeiro
cruz...
×
候補が多すぎる。
音は近い。
でも、決め手にはならない。
でんでられんけん
dentro...
de la...
além...
quem...
×
無理がある。
でてこんけん
de te...
com quem
con quién
?
ここで止まる。
意味は書かない。
書いたら負ける気がする。
こんこられんけん
con...
com...
cor...
além...
quem...
×
こじつけ。
こられられんけん
cruz...
além...
quem...
ren...
×
違う。
たぶん違う。
こーんこん
com...
con...
?
私はペンを置いた。
「……何してるんだろう」
自分でも分かっている。
これは研究ではない。
ただの思いつきだ。
耳が拾った音を、都合よく辞書へ押し込んでいるだけ。
そんなものに意味はない。
私はノートを閉じようとした。
けれど。
一番上の行だけが、どうしても目に残る。
Dentro da chuva.
Dentro de la lluvia.
雨の中に。
そこだけが、あまりにも綺麗だった。
「一度なら偶然」
私は呟く。
窓の外では雨が降っている。
「二度も偶然だろうか」
そう書きかけて、線を引いた。
違う。
証明はできない。
証明できないものを、答えのように扱ってはいけない。
これは、私の想像に過ぎない。
私はノートの端に、そう書いた。
夕方。
港へ出た。
霧が、少しだけ海を隠していた。
長崎は昔から、多くの船が訪れた町だ。
ポルトガル。
スペイン。
オランダ。
遠い海を越えた人々。
彼らは何を話し、何を歌い、何を残して帰ったのだろう。
私は答えを知らない。
たぶん、これからも分からない。
それでも。
子どもたちの声だけが、耳から離れなかった。
でんでらりゅうば
雨の中に。
そう聞こえてしまった。
ただ、それだけのことだった。
帰る日。
駅へ向かう坂道。
雨が降っていた。
傘を開こうとして、私は手を止める。
遠くから子どもたちの声が聞こえた。
♪でんでらりゅうば……
いつもと同じ。
そのはずだった。
けれど、一か所だけ。
節の途中に、聞き慣れない音が混ざった気がした。
まるで、私の名前を呼んだような。
私は振り返る。
姿は見えない。
聞こえるのは歌だけだった。
「……気のせい」
そう言い聞かせて、私は歩き出した。
私の耳には、また二つの言葉が重なる。
Dentro da chuva.
Dentro de la lluvia.
どちらも。
雨の中に。
私は小さく笑った。
「……きっと、偶然なんだろう」
そう思いながら駅へ向かう。
新幹線に乗る。
座席に着いて、なんとなくスマホを開いた。
昨日の録音。
もう一度、聞いてみる。
一回目。四人分の声。
二回目を再生する。
五人。
数え間違いだろうか。
三回目。
今度は、はっきり数えられた。
六人。
――いや。
それだけじゃない。
幼い声の底に、もう一つ。
地を這うような、低い声が混ざっていた。
大人の声だった。
「……で‥く...て……」
歌ではない。
祈るような。
あるいは、呪うような。
掠れた呟き。
イヤホンを外す。
車内は静かだった。
なのに。
歌はまだ、耳の奥で続いていた。
♪でんでらりゅうば……
私はスマホの電源を切った。
それでも。
歌は止まらなかった。
帰りの新幹線の中でも。
家へ帰ってからも。
何度歌を聞いても。
私はもう、あの歌を昔と同じようには聞けなくなっていた。
それでいい。
答えがないからこそ、歌は何百年も歌い継がれたのかもしれない。
数日後。
私はノートを開いた。
あのときのメモが残っている。
でんでらりゅうば。
Dentro da chuva.
Dentro de la lluvia.
そして、最後のページ。
自分でも、いつ書いたのか覚えていない。
そこには、二行の掠れた文字だけが残っていた。
Dentro de la red, ¿quién?
De tu cruz, va también?
私はしばらく、それを見つめた。
それから、そっとノートを閉じる。
窓の外では、今日も静かに雨が降っていた。
この作品は、一つの童歌から生まれた創作です。
作中の考察は、主人公個人の想像であり、史実を示すものではありません。




