一 呉へ③
翌年1944年、榊裏流の一座は呉市へ移った。
ここは国内最大の軍事都市。その鎮守府は西日本の海軍の中枢である。
なし崩しにアメリカと化け物の戦争に巻き込まれた日本は、引き続き戦意高揚を必要としていた。そのため偶然近くにいて、かつ評判も悪くない榊浦流が呼びつけられた形となる。
夕方になると雨も上がり、皆で仮設舞台の様子を眺めにいくことになった。
「まるで軍人になった気分だね」
「どっちかって言うと軍属ってヤツだな。民間の協力者さ」
整備を終えた二人にそう思わせたのは、呉市における榊浦流一座の待遇の良さだ。
まずは呉鎮守府の近く、使われていない練兵場に大規模な仮説劇場が構えられた。見世物が巨大なだけあって流石に屋外であるが、間口(横幅)二百五十メートル、奥行百五十メートル、仮設背景の高さも四十メートルと、格段に広いものであった。
「すげえ……」
「こんな広い舞台、使ったことないぞ」
前代未聞の部隊規模に役者陣はかつてないほど張りきった。それに対して青い顔をするのが技術側の裏方だ。
「絶対照明が足りなくなる、鎮守府に掛け合って貸してもらおう」
「音響もです。演目に近代の愛国忠君ものを増やして、軍のご機嫌を取れば借りれるかもしれません」
双方の様子を隼人は観客席から見下ろしていた。
少なくともこの一座で役者の道が断たれた彼は、裏方として、この舞台をどう支えるかを考えねばならない。隼人が合流するべきなのは、舞台での自己表現を走り回って考える役者陣ではない。どうやってこの舞台を最高の物に仕上げるか、早くも図面とにらめっこして計算している裏方なのだ。
だが、まだ年若く、夢を断たれてから半年もたっていない隼人にとって、それは余りにも非情で残酷であった。
――俺にはもう、舞台に立つ資格がないんだ――
かつて日菜に言い放った言葉は、隼人の中で何千、何万回と反響していた。
伝えねばならない事だったのだ、言ったことに後悔はない。だからと言って割り切れるものでもなかった。
「畜生……っ」
溢れた。
滲んだ。
流れた。
妬けた。
「そいつは、どうして俺には、舞台に立つ資格がないんだ?って涙か?」
背後の声にぎょっとして振り向くと、日菜がいた。慌てて涙を拭っても、今更だ。
「うるせえ……」
精一杯搾り出した隼人の台詞を無視して、日菜はすぐそこの桟敷にどっかと座り込み、隣の席をコツコツ叩いた。
「座ってよ」
「は?」
「未来の戦伎太夫が言ってんだ、座っときなよ」
日菜が強情なのは全員が知っている。言い出したら聞かないのだ。
だがバカではないし、人の尊厳を踏み躙るような奴でもない。日菜なりに考えがあるのだ。それが判っているから、隼人は一応座ってやる。
「凄いよね、この舞台」
「……ああ」
隼人は俯き、日菜は大きく伸びをした。
「広さも設備もすごいんだけどさ、この仮設桟敷(スタンド席)もいいよね。弁当売れるだろうなぁ。そこも探さなきゃ。
舞台から離れるほど高くなってるからさ、後ろのお客さんも、つま先まではっきり見える。
頭のてっぺんからつま先まで、ビシィっと気合い入れてやんなきゃだ、そうでしょ?」
「そうだな……応援してーーいってえな、何すんだよ」
小さいが硬い拳が脇腹にめり込む。
肋でも折るつもりか、こいつは。
「隼人の仕事は応援じゃないだろ」
「……判ってるよ」
「いーや、判ってないね。確かにこの舞台にあんたは立たないよ。でも。
舞台は役者のもんじゃない。一座全員のもんだ」
「……判ってる、誰が欠けても成立しねえ。そう言いたいんだろ?」
励ましか?
慰めか?
ベタな手だ。
どこまでも真っ直ぐな日菜の言葉は力強い。
と思っていたのだが、日菜のセリフの続きは違った。ぎろりと睨んで続ける。
「思いあがんなよ隼人。お前一人居なくっても舞台は変わんない。
でもそれはあんただけじゃない、私も、剣之丞の兄さんも、大道具の池さんも、照明のお吉さんも、会計の小松っちゃんもそうだ。
一人くらいの穴はみんなで埋めるさ。そのためにみんなで頑張ってるんだ」
ギョッとしたのは隼人だけではない。こいつなんて事言うんだ。舞台稽古で仕込んだ腹式呼吸だけあって、日菜の声は自然と通る。その場のほぼ全員が困惑の表情だ。
「でも。一人だけ穴埋めの効かない人がいる。
判るよな?」
「……戦伎太夫か」
榊浦剣楼。日菜の父であり、この一座の長である。
「そうだよ。殆どのお客さんは私らを見に来てるんじゃない、戦伎太夫を、戦伎太夫の作る舞台を見に来てるんだ。
賞賛も叱責も、全部戦伎太夫のもんだ」
日菜の言葉はあまりに骨太であり、彼らを取り巻く環境においては真実であった。隼人は一層打ちのめされ、反論どころか顔を上げる気力すら残っていない。
それが兄妹同然に育ってきた仲間にかける言葉か。その場にいた全員が完全に凍りついたのを見てから、日菜は続けた。
「……隼人。お前の夢は私が連れて行く。
私は絶対に戦伎太夫になる。その時は……隼人が人形使いじゃなくてもいい。裏方で胸を張れる仕事しててくれれば、隼人は私の片腕だ。
その未来と……この前まで夢見てた未来には、何の違いもない」
言葉は刃の如く鋭いが、触れるだけで焼けるような熱さがあった。
全身が燃える弾丸であり、荒々しく周りを巻き込んで支配しながらも、空気や時代を変えていく。日菜は隕石のような少女であった。
「よく言ったもんだよ……芸歴五年やそこらの小娘がよ」
「百年後も言ってやるよ、そんならいいだろ?」
「随分先だな」
機操戦伎は体格という制限があるため、他の伝統芸能に比べれば女性にも活躍の機会はある。芸事どころか攻城兵器だった頃から、女が頭目になった記録も残されている。
だが、それでも平等かと言われると厳しい。しかし日菜はそんなこと承知の上だ。この少女の形をした隕石は、茨の道を粉砕し、焼き尽くしてぶち抜く覚悟を決めているようだ。
「おおよ。そこまでいけるのは早くて三十年先、奇跡が起きても二十年先だろうな。
いいじゃん、私はそっから百年居座ってやらあ。
考えてもみろよ、諦めたら何億年待っても来ないんだぜ?
一億年を二十年に縮めちまえば、そんなもん一瞬だよ、一瞬。痺れる話だろ?
二十年後、花形やってる私を見て……隼人はどうしてたいんだ?」
数秒の沈黙。誰かが唾を飲むのが聞こえると、隼人は立ち上がった。
「……さっきの動作弁貰えないか、軍に口きいてくるわ。
今は添え物でも、いつか最高の舞台を……お前に踏ませてやる」
その言葉に、日菜はにやりとした。互いの拳を火花が出るくらいに強く突き合わせる。
「そうだよ、それでいいんだよ。
頼んだぜ、相棒」
その言葉が隼人の尻を叩いた。完全に吹っ切れるのには時間がかかるだろうが、その第一歩を踏み出したのは確実であった。
そうして、珍しく一箇所に腰を据えた一座の生活が始まった。




