第1章―【5】
うとうとしていた。ベッドに横たわったまままどろみ、陽菜は浅い眠りの中に溶け込んでいた。
「陽菜、陽菜」
「ううん……慶太……」
「陽菜? どうした、大丈夫か」
陽菜は確かに聞こえる声に反応して、目を見開いた。
上半身を勢いよく起こす。
「け、慶太?」
「ああ、さっきも話したろ」
「やっぱり……」
陽菜は少し乱れた茶色の髪をかき上げると
「頭打ちすぎた」
「何騒いでんだよ」
再び慶太の声。
陽菜は天井を見上げて「慶太? なんで?」
「わかんねぇ」
「何処にいるの?」
「さっきも言ったろ。わかんねぇよ」
陽菜は周囲を見渡して、ベッドから起き上がると、勉強机の椅子に腰掛けた。
「信じらんない……なんで……慶太、死んじゃったんだよ」
「そうらしいな」
「いままで何処にいたの?」
「どこって、俺気付いたら今だぜ。お前を助けたのはほんのついさっき、て感じさ」
「あれからもう、三年経つんだよ」
「そんなに経つのか」
慶太の声が少し途切れた。
「じゃあ、お前もう高校二年生なのか?」
「そうだよ」
陽菜は何処を見ていいのか判らず、立ち上がって窓のカーテンをあける。
夜空に星は見えないけれど、明るい月が浮かんでいた。
「元気なのか?」
慶太が言った。
「う、うん……ちょっと怪我してるけど」
「なんで?」
「うん、ちょっと転んで」
陽菜は机の椅子に座ったまま、両脚をぶらぶらと揺すった。
「お前、意外とそそっかしいからな」慶太の軽い笑い声。
――懐かしい。
「なによ、そんな事ないもん」
彼女は天井を見上げる。
何となく、そっちの方から慶太の声が聞こえるような気がした。
「慶太は、元気…………なわけないよ、ね……」
陽菜は尻すぼみに声を消す。
「まあ、どうなのかな。痛くもかゆくも、気持ち悪くも無いけど」
慶太が明るく言う。彼がどういう状況にいるのかまったく想像できないから、陽菜は少し困惑した。
「少し眠くなったから、またな」
「えっ、うん……じゃぁ、またね」
陽菜は再び辺りを見渡す。
もう、慶太の声は聞こえなかった。
陽菜は再び立ち上がってカーテンの外を覗く。
遠くに幕張ビルの航空誘導等が紅くゆっくりと点滅していた。
朝から気温は夏日に達していた。陽菜は寝汗と共に目を覚ます。
「うぐぐぐ……」
唸るように小さく声をだして、ゴロリと寝返りをうって、タオルケットを蹴飛ばした。
羽毛の枕に顔を半分押し付けたまま、目を開ける「あっ……」
昨夜の事を思い出す。
夢だったのだろうか?
いや、確かに慶太と話しをした。しっかりと、何度も言葉を交わした。
そんな事があるだろうか。
三年も前に死んでしまった人の声が聞こえるなんて。しかも、まるで何処かその辺にいるように、ケータイで話しているように。
台所に降りると、父親が朝食を食べていた。
仕事で帰りが遅い父親とは滅多に夕食を共にしないし、ましてや朝食だってほとんど一緒になる事は無い。
もちろん、父親よりも陽菜の方が夜遅い時間に帰る事もあるのだけれど。
とにかく高校に行くようになってから、どんどん父親との距離は遠のいてゆくし、髪の毛を茶色に染めてマスカラを塗る娘に、父親は興味が無いようだった。
「ねえ」陽菜はトーストにソフトマーガリンを塗りながら、伏せ目がちに父親をチラ見する。
「ねえってば」
「ん? 俺に言ってんのか?」
母親が大知の弁当をつめながら様子を盗み見る。久しぶりの父娘の会話だ。
「目の前にいんの、お父さんだけじゃん」
陽菜は、マーガリンを塗ったトーストをいったん皿に置く。
「人って、死んだらどうなるのかな?」
父親はコーヒーカップを口へ着けたまま停まった。
麻野慶太が陽菜を助ける為に命を落としてから、この家でも死というキーワードは暗黙のうちにできるだけ使わないようになっていた。
「どうしたんだ、急に?」
父親がコーヒーカップを置く。
「うん……なんとなく」
陽菜は、皿からトーストを持ち上げて、齧った。
「一昨日、子供を助けたんだって?」
「う、うん」
「よかったじゃないか、怪我だけですんで」
父親はチラリと陽菜を見た。久しぶりに見るスッピンの娘の顔は、頬に痛々しい擦り傷があるかわりに、初々しくて少し眩しい。
それを悟られないように無関心な素振りを見せる。
「うん……じゃなくて、死んだらさ……」
陽菜は話題をぶり返す。
「どうしたの?」
母親が大知の弁当を包みながら、陽菜に近づくと
「天国とか、そういう答がほしいの?」
「そうじゃないよ。もっと科学的な根拠に基づくようなさ」
陽菜が母親を振り返る。
「科学的根拠?」母親は困惑して眉を潜めて笑う。
「炭素だろ」父親がボソリと言ってコーヒーカップを再び持ち上げる。
「死んで火葬されたら、炭と灰になる。それだけだ」
陽菜は父親に向き直って「それは身体の話でしょ」
「それ以外に何がある?」
陽菜はトーストの残りを小さくちぎって口へ運ぶ。
「魂っていうか、なんていうか……」
父親はコーヒーを飲み干すと「なんか映画でも観たのか?」
そう言って立ち上がり「じゃぁ、行くぞ」
ビジネスカバンを手に、玄関へ歩き出した。
陽菜は父親の背中を見送って、ミルクをたっぷり入れたコーヒーを啜った。
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引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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