第1章―【4】
「陽菜、お風呂入るの?」
陽菜が洗面所に入る気配を感じた母親が、台所から声を出した。
「うん。だって気持ち悪い」
陽菜はそう言いながら、着替えを脱衣カゴに放り込む。
病院から帰って直ぐに着替えた時には気づかなかったけれど、両腕と両脚の膝にも小さな擦り傷と黒い痣があった。
「あっ、なんか痛いと思った……」
陽菜はひとり呟いて、下着のホックを外す。
浴室へ入ると最初に湯加減を手で確かめる。擦り傷に沁みないように、水道から水をジャージャー出して浴槽のお湯をぬるくした。
髪を洗って身体を洗って、ひと息ついて湯船に浸かると、思わずと息が零れる。
「ふぅ……」
キレイ好きの陽菜は、昔から一日たりとも入浴しない日が我慢できない。
風邪とか怪我とかでお風呂に入れない日は、それだけで憂鬱になる。
湿気で天井に溜まった湯気の雫が、湯船にぽたりと落ちた。
「陽菜、陽菜?」
声が聞こえた。
「け、慶太?」すぐに判った。
陽菜は何処から聞こえるか判らない声に、反射的に応える。
「陽菜、俺の声が聞こえるか?」
「うん……慶太、何処にいるの?」
陽菜はそう言ってから、急に自分の居場所を再度認識し、腕を伸ばしてタオルを取る。
湯船の上のほう、胸の周囲をタオルで覆った。
「慶太、何処?」
「わかんねぇ。俺も、ここが何処だかわかんねぇ」
「あ、あたしが見える?」
「いや、見えない。何も見えないんだ。ただ、ミルク色の霧が立ち込めているだけだ」
陽菜は浴室の壁や天井を見渡す。窓の外も、首を伸ばして覗う。
誰の気配もない。それどころか、慶太は三年前からこの世にはもういないのだ。
なのに、どうして彼の声が急に聞こえるだろうか? 陽菜は困惑した。
「陽菜? 陽菜は今何処にいる?」
「えっ? あ、あたしは……お、お風呂」
「風呂? 何で?」
「何でって、お風呂はお風呂じゃん」
陽菜は再び周囲を見回す「慶太、本当にこっちが見えないの?」
「見えねぇよ」
「覗いてんのかと思った」
そう言いながら陽菜は、湯船に潜り込むように身体を屈めた。
「じゃぁ、また後でいいや」
「えっ? 慶太? 慶太?」
陽菜が呼んだ。
「陽菜、誰と話してるの? 大丈夫?」
浴室の声が漏れていたのか、母親が心配して脱衣所から声をかけて来た。
「えっ、だ、大丈夫。何でもないよ」
「本当? 気分悪くなったら言いなさいね」
「大丈夫だよ。もう上がるから」
母親の気配が遠のいてから、陽菜はもう一度浴室の中を見渡した。
湯気が天井を濡らしている。
浴槽に立ち上がって、すりガラスの窓をそっと開ける。
夏の夜気が、どんよりと広がっているだけだ。帳には、虫の声が響いている。
「だいぶ頭打ったのかなぁ……」
陽菜は自室に入ると、ドライヤーで髪の毛を乾かしながら呟いた。
慶太はもういない。
三年前の夏、氾濫した川から自分を助け出す為に力尽きて、身代わりにこの世を去ってしまった。
残りの中学生生活は地獄だった。罪悪感に苛まれた日々は、ただ繰り返すだけの無意味な時間との戦いだ。
陽菜は高校に入って変わった。
自分を変えなければ生きてゆけないような気がした。
艶のある黒髪を、躊躇なく染めた。
両耳にピアスの穴を開けて、毎朝マスカラを塗って、学校と放課後用の塗り分けができるようにもなった。
アナスイの甘いフレグランスを使うようになったのも、高校に入ってからだ。
長い髪の毛を片手ですくいながら、ドライヤーを当てる。
手に絡みつくような湿った髪が、次第に重さを失ってゆく。
夕食前に風呂に入るのなんて、大分久しぶりだった。
台所の食卓に行くと、弟の大知が部活から帰って来ていて、ご飯を頬張っていた。
「ネェちゃん大丈夫だった?」
「うん。まぁ、平気」
陽菜は彼を見ずに、自分の席に座る。
「頬の擦り傷、ガーゼ貼りなおす?」
母親は味噌汁を陽菜の前に置いて言った。
「別にいいよ」
入浴前に頬のガーゼを剥がしたから、紅い擦り傷が痛々しく露になっている。
「ネェちゃんが子供助けるなんて、チョーびっくりだよね」
言葉に悪気は無いのだが、母親は大知の言葉に苦笑した。
「お姉ちゃんだって、人くらい助けるわよ」
陽菜は黙々と卵焼きやエビフライに箸を伸ばしては小さな口へ運ぶ。
「大知、帰ったら着替えな」
「何でだよ、めんどくせぇ」
大知は中学でサッカー部に入っている。そのユニホームは三年前と変わりなく、慶太が着ていたものと同じデザインだ。
ユニホームでなくとも、弟の運動着姿を見るたびに、陽菜は彼を微かに思い出して焦燥する。
陽菜は早々に食事を切り上げると、席を立つ。
「もういいの?」
母親が箸を止めた。
「うん。今日は早く寝る」
「ちょっと待って」
母親が冷蔵庫から何かを持ってくる。四角い箱に入っているのは、近所のアンジェリーナというケーキ屋の箱だ。
笑顔の母が箱を開けると、真っ白なホイップクリームが眩しい。
「昨日、あんた誕生日でしょ。買って置いたのよ」
「あぁ……そうだった」
陽菜は椅子に座りなおすと「すっかり忘れてた」
とりあえずケーキは食べた。
せっかく母が買ってくれたケーキを無下にもできなかったし、上に乗っかっていた巨大イチゴをどうしても食べたくなった。
それでも弟の大知の方が、彼女の倍は食べていたのだけれど。
陽菜は台所を出ると、ゆっくりと階段を上った。やっぱり頭が少しクラクラするような気がする。
「お風呂、ヤバかったかな……」
溜息をついて陽菜はベッドに腰掛けると、そのまま脚を上げて横たわった。
彼の声が、静かに脳裏でリフレインする。