第1章―【3】
サイレンの音がうるさかった。それが、自分の乗っている車から発せられている事に気付いた時、再び意識は朦朧とした。
窓から暖かな風が吹いて心地いい。そんな風に感じるのは久しぶりだった。
少し雨の匂いがする。
――雨、降ってたっけ?
コンクリートの湿った匂い。河原の石のような匂い。
「陽菜、陽菜」
遠くで声がした。
それは、とても懐かしい声だった。
小学二年生の春に初めて逢ってから、おそらくずっと好きだった人の声。少し意地悪で鈍感で、でも優しくて。
当時静岡から転校して来た陽菜は、学校でなかなか友達をつくれないでいた。そんな時、学校帰りに声をかけてくれたのが、麻野慶太だった。
「陽菜、陽菜」
懐かしい声は、何処から聞こえるのか判らなかった。
暗闇の遥か彼方から聞こえるような気もするし、頭の中から響いてくるような気もする。
外の空気を伝って、遠い旻天から耳に届いてくるような気もする。
陽菜は意識が戻った事に自分で気付いた。気付いて少しの間、耳を澄ました。
この声は、何処から聞こえるのだろう……鼓膜を伝っているのでない気がする。
陽菜はそっと瞼を開く。
少し眩しいけれど、霞んだ天井はすぐに鮮明に浮かび上がった。
「陽菜? 気がついたのね」
さっきとは違う声がした。
陽菜は確かめるように、ゆっくりと小さく首を動かして、今聞こえた声の主を見つめる。
「大丈夫? 判る? 陽菜」
母親だった。
ベッドサイドに座っていたのだろう、中腰に立ち上がって陽菜の顔を覗きこんでいた。
「あんた、子供助けたんだって?」
母親は、少し疑心な笑みを浮かべる。
「そう……だっけ」
陽菜は小さく応えた。
頬っぺたにガーゼがくっついている事に気付いて、手で触れてみる。右手の甲にも包帯が巻かれていた。
「あちこち擦りむいたのよ。昨日から眠ったままだったの」
母親は何時も通り優しかった。
高校に入って直ぐに髪をカラーリングした彼女に、母親は何も言わなかった。
家に帰る時間が遅くなっても、両手の爪にネイルをしても、両耳に18金のピアスをしても、母親は自分の何かを見透かしているような笑みで、いつも「お帰りなさい」と迎えてくれる。
「雨、降ったんだね」
「そ、そうね。夜中から今朝方までけっこう降ってたよ」
陽菜は窓の外に目を向けた。
高いマンションの間から、遠くに高速湾岸線が見える。空は白く霞んでいた。
「少し、眠るね」
陽菜はそう言って再び瞼を閉じた。
「大丈夫? 脳震盪だって、先生が言ってたから。具合、悪くない?」
「うん。大丈夫みたい」
陽菜は母親の問いに、目を閉じたまま頷いた。
遠くで聞こえたあの声は、母親ではなかった。確かに懐かしい彼の声だった。
また聞こえないだろうか。また、聞きたい。
陽菜はゆっくりと再び、眠りについた。
窓から静かに注ぎ込む夏風は、頬に優しく心地よかった。
夕方には退院した。午後の早い時間に、陽菜の助けた少年と母親が菓子折りを持って彼女の病室を訪れた。
陽菜はあの瞬間の記憶があまり無くて、ピンと来ないままただ愛想笑いを浮かべて子供に付き添ってきた母親の謝罪を聞いていた。
二日ぶりに帰った自分の家が、大分懐かしく感じた。
直ぐに自分の部屋に入って、白い壁紙などを見つめる。何も変わりは無い。試験の最終日の朝、学校へ行く前と同じだ。
携帯電話が鳴り、陽菜はその液晶画面を確認してから電話に出る。
「ヒナーッ、どうしたよ。大丈夫なの?」
さやだった。
「うん、何とか平気」
「ビックリしたよ。あんた子供助けたんだって?」
「自分でもあんまり覚えてないんだけど……そうらしい」
「ヒーローだね」
「そんな事ないってば」
さやは人助けした陽菜を絶賛した。彼女達の周囲では、非常に珍しい行為なのだろう。
誰かに迷惑はかけても、誰かを助ける事なんてないだろうと、誰もが思っているようだ。
「入院したって言うから、心配したよ」
さやは電話の向こうでひとり、高揚している。
「なんか気絶したみたでさ、今朝目が覚めたのよ」
「ほんとに大丈夫なの? そんなんでさ」
「大丈夫だよ。何でもないもん」
陽菜はベッドにドッと腰掛けると
「頬っぺた擦りむいたけど」
「マジ? 頬っぺた。ヤバいじゃん、顔」
「こんなの、直ぐに治るよ」
「乙女の頬っぺたは大事だよ」
さやが笑う。
「別にぃ」陽菜は乾いた声で応えた。
その後、たわいも無い会話で笑いながら電話を切った。
さやには「別に」と言ったものの、頬っぺたに貼ったガーゼが取れるまでは外に出るのはよそうと、陽菜は思った。
お読みいただき、有難う御座います。
暇つぶしになれば、幸いです。