第1章―【1】
本編に入ります。
のんびりとご鑑賞ください(^^
「ヒナってばうけるぅ。で? あのオヤジどうしたの?」
「クロエのバック買ってもらった」
「マジで?」
「でもさ、ヴィトンのビキニまで買ってくれちゃって、一緒に海なんか行かねぇっての」
陽菜は、髪の毛に合わせて染めたブランの眉を上げて笑った。
「オヤジは思い込み激しいねぇ」
遠峰さやがポッキーを齧って高い笑い声を上げる。
高速道路の向こうに、夏雲が迫り出していた。
谷津高校は、習志野にある谷津干潟のすぐ近くに在る。産業道路と自然の残骸が交錯した中に、無邪気に揺れ動く制服姿が眩しい。
夕方のバス停は谷津高校の女生徒でいつも賑わい、少女の甘酸っぱい匂いの中に大人びたフレグランスの香気がアンバランスに漂う。
「久々に浦安行く?」
「え~、ららぽーとでいい」
さやのポッキーに手を伸ばしたのは、皆上あずさ。
ポッキーを咥えると、片脚を少し上げて紺色のハイソックスを両手でズリ上げる。
「あたしは今日、パスね」
「なんで?」
「なんとなく」
由木陽菜は、くるくるとゆるくカールした茶色の髪の毛を手でかき上げた。
「しかし、もう夏だねぇ」
さやが高速道路の向こうの青空に向って目を細める。
あずさと陽菜も同じ方を見上げ、マスカラで飾られた瞳をキュッと細めた。
「夏って事はさ、もう直ぐ期末テストって事でしょ」
「そうね……」
湾岸から吹く初夏の海風が、三人の短いスカートの裾をひらひらと揺らしていた。
撒き癖をつけたクネクネの茶色い髪が朝の風に揺れる。
夏服のブラウスは開襟シャツではなく、ごく普通の、胸に校章が刺繍された淡い水色シャツだ。その襟元を、第二ボタンまできっちりVの字に開ける。鎖骨が見えるくらい。
スカートはウエストで捲り上げたりしない。きっちり膝上20センチに仕立て直す。もう逃げられないその寸法は、履いている彼女たちにもちょっぴり緊張感を与える。
紺色のハイソックスにも校章が入っているけれど、普通の市販品でも特に注意はされない。
だって、校章が左右外側にしかないから交互に履けない分、どちらかのつま先が直ぐに痛んでしまう。
こげ茶色のローファーがカツカツとアスファルトを踏み鳴らす。
駄目かと思いながら小走りにバス停まで来たら、ちょうどバスが来た。
バスは何時も遅れるから、コレぐらいでちょうどいい。
由木陽菜は朝日が丘のバス停から毎日バスに乗って、谷津干潟まで登校する。
学校が谷津干潟のすぐ隣だから、降りる停留所は谷津干潟。
自然公園の周囲は野鳥が飛び交って、東京湾とは思えない。そのくせ振り返れば、工業団地の群れが無機質に立ち並ぶ。
「おはよー」
満員のバスに途中から乗り込んでくるのは遠峰さや。高校に入ってからは、クラスが変わってもよく一緒に行動している。
彼女が髪をブラウンに染めたのも、最近ネイルに懲りだしたのも、たぶん陽菜の影響だ。
「暑っ」
さやが他校の生徒を掻き分けて、陽菜に近づく。少々カバンがぶつかっても気にしない。
「今日でやっと試験終わりだね。帰りどっか行く?」
「そうだね、昨日はだいぶ頑張ったし」
陽菜は自分の手でヒラヒラと顔を扇いだ。
「ヒナは優秀だからね。あたしなんて五日間ずっと頑張り通しだよ」
「あたしだって今回はちょっとヤバイよ」
陽菜が茶色い巻髪を手で触れたその時、バスが停車した。
習志野の男子校前にあるバス停に停まったのだ。乗客が一斉にうごめいて、数人が出口から降りてゆく。
陽菜の肩に誰かが触れて、彼女は少し驚きながら振り返る。
無造作に下ろした左手に何かが触れた。
小さな手紙。
「えっ?」
陽菜は再び驚いて手元に下ろした視線を上げた。
「ゴメン、良かったら返事ください」
陽菜が見上げた男子は、伏目がちに彼女をチラ見して通り過ぎた。
陽菜と一緒にさやがその男子を視線にとらえる。
「おぉ、けっこうカッコイイじゃん」
珍しい事ではなかった。
谷津高校は女子高で、近くには男子校。通学途中のバスでナンパされる事は珍しくない。
陽菜が経験から学習した事は、学校帰りに声をかけてくるのは比較的チャラ男で、朝は真面目くん。といっても真剣というより寧ろ、どこかストーカーっぽくて気持ち悪いやからが多い。
だからさやも思わず声を上げた。
陽菜は窓の外を眺め、同じ柄の制服の中からさっきの男を探し出して目で追った。
動き出したバスが揺れて、両脚でバランスをとりながら無言で小さな手紙を開いて視線を落とす。
名前とメルアドが書いてある。たいがいそれだけなのだが、あの男子生徒はちゃんと『付き合って欲しいので、よかったら返事下さい』と書いてあった。
大塔時 長道――なんだかすごい名前だった。
「なんかすごそう……」
さやが陽菜の手元を覗き込む「でも、ちょっとカッコよかったよね。金持ちっぽくない?」
「うぅん……よく見なかった」
陽菜は興味なさそうに窓の外を眺めた。
グオンッ、と大型バイクが隣の車線を勢いよく追い越してゆく。
アスファルトが溶け出すような、穂のかな夏の匂いがする。立ち並ぶ工業団地が陽炎で揺らいでいた。