プロローグ・4
増水した川の流れは想像を遥かに越えたスピードで流れ始めていた。
大分川下から数人の生徒が岸に這い上がって来るのを見た教師が、重いジャージを震わせて走った。
「大丈夫か? 他にもまだいるか?」
「判んないです。あたしたち、水から上がるのに必死で」
女生徒のひとりが、半ベソで言う。
もうひとりは息を荒げたまま「まだ何人かいると思うよ」
黒い髪の毛がべっとりと頬に張り付いている。
教師は川の方を見る。豪雨と飛沫で景色は霞み、川の流れは大小の波を立てていた。
足元の川辺はどんどん広がってくる。
上半身が見える。生徒だ。
教師は川へ入って行った。
中学生の胸の辺りまで川の水は増水している。
「俺に掴まれ」
「ヒナが、ヒナが流されちゃったよ。早くヒナを」
教師に腕を掴まれた美智が泣きながら叫んだ。
「由木か……何処だ、何処にいる」
「そこではぐれたの。すぐそこ」
美智が振り返っても、そこに由木陽菜の姿はない。
「生徒がひとり流されたようです」
教師は岸に向って叫ぶ「この生徒を誰か」
もう、ひとり男性教師がざぶざぶと川へ入る。
「気をつけろ、この生徒を頼む」
「先生は?」
「由木が流されたようだ。少し探してみます」
「あぶないです」
「いいから、この生徒を」
後から来た教師は、美智の身体を抱えると、岸に上がった。流れが酷く、大人でも歩くのに苦労する。
尋常でない事態に気付いた生徒数人が、河沿いに移動していた。
「由木が流されたってさ」
「由木って……陽菜か?」
その時慶太は少し遅れて川岸の雑木林を足早に歩いていた。
川幅がみるみる広がるのを見て、豪雨の直前まで確かに川の中にいた陽菜の姿を探していた。
「陽菜ちゃん、川で流されたって」
琴柱ヒカリの声がした。声が高くて、普段はうるさいとしか感じないけれど、豪雨の騒音の中でそれは確かに聞こえた。
教師の集まる川岸は直ぐに見えた。
慶太は河原の石を蹴って、走った。
美智の姿が見える。
女性教師に肩を抱かれて雑木の影に促されている。
「陽菜は?」
「慶太、ごめん、ヒナとはぐれた。ヒナ、流されちゃって……ゴメン、ゴメンね。ゴメン……」
美智は再び泣き出した。
慶太は再び走り出していた。
「麻野、危ないから木陰まで下がってろ!」
四組の担任が川岸で、水に入った教師の行方を見守っていた。慶太も視線をめぐらす。
あれだけ澄み切った川の水は、アマゾン川のように褐色に淀んで激流と化している。
「なんなんだよ、これ」
黒い影が遠くに見えた。学年主任の岩間だ。
身を呈して激流に入り、ひとりの生徒を必死で探す。しかし、教師の探す陽菜は、それよりも大分先にいたのだ。
慶太は教師の横をすり抜けて走った。
「麻野、何処行く?」
「あっちだ、陽菜はもっとあっちだよ」
相変わらず景色は煙っていた。
突然の豪雨が降り出して僅か十数分しか経っていなかった。
「麻野、川に入るな。戻れ!」
岩間が、川の中で叫んだ。
「先生、陽菜がいる。こっちだよ」
慶太は真っ直ぐに進んだ。
岩間は彼を制止させようとしたが、上手く身動きできない。
慶太はかまわず川を渡った。あっと言う間に胸まで水に浸かった。ジャージが重い。うまく歩けなかった。
それでも彼は、水に流れ乱れる陽菜の黒髪をしっかりと確認できた。
「陽菜っ」
陽菜は突き出た石にしがみ付いていた。自分の体力では、動いたら流される事を既に悟っていた。
「陽菜」
陽菜に辿り着いた慶太は、彼女の肩をしっかりと捕まえる。
「慶太……来てくれたんだ」
背の低い陽菜は、首まで水に浸かって目を開ける余裕はない。
「歩けるか?」
「駄目、手を離したら流されるよ」
「大丈夫だ、俺が支えるから」
「駄目だよ」
「大丈夫だって。俺、歩いてきたじゃん」
慶太は陽菜の身体を両腕で掴んだ。
「行くぞ。どんどん水が増えてるから、ここだって危ねぇよ」
慶太は陽菜の身体を強く引いた。二人で歩き出した途端、流れに阻まれて横によろめいた。
陽菜が慶太の身体にしがみつく。
「大丈夫だ、楽勝だよ。遊びだと思えば、行けるさ」
二人は流れに完全には逆らわず、斜めに川を横切った。思った以上に前に進む事は出来たが、岸までの距離は長くなってなかなか辿り着かない。
陽菜の足が、もう川底には着いていなかった。
水に浮かんでしがみつく彼女を、慶太が引っ張った。
増水は止まない。慶太はみるみるうちに体力を水に吸い取られた。
景色が煙る。
川辺は波打って、自分が何処にいるのか判らなくなった。
ただ、微かに人影の見える方向……それが岸辺だと確信して歩いた。
声がする。
担任の石川先生だ。まだ若いが、妙に威張るときが在る。嫌いではない。
「ゴメンね」陽菜が小さく呟いた。
「何が?」
慶太にしがみついた彼女の腕にキュッと力がはいる。慶太の足腰にも力が漲った。
川を渡りきれると確信した。
豪雨は耳鳴りとなって慶太の鼓膜に響いていた。
突然の豪雨が降り出して、まだ二十分も経っていないのに、川の地形はすっかり形を変えていた。
◆ ◆ ◆
鳥の囀りで目が覚めた。
窓から夏の陽射しと蝉時雨が降り注いでいた。
一度開きかけた瞼を、陽菜は再び閉じる。
「あ、眩しい?」
音楽教師の田中が、カーテンを閉める。
「ここ……?」
陽菜が再び目を開いて、周囲を覗う。
「病院よ。すぐふもとの総合病院」
教師は陽菜の髪の毛に触れると
「大分水飲んだみたいだけど、具合どう?」
「うん……気持ち悪い」
陽菜は部屋を少しだけ見渡す。ひとり部屋だ。
「慶太……麻野くんは?」
「……」一瞬の沈黙。しかし、田中は口を開いた。
「大丈夫だから、今は休みなさい」
教師とは思えないほどに、母親のような優しい眼差しの笑みだった。それなのに、瞳が微かに濡れている。
陽菜は自分でも知らないうちに、頬を涙が伝うのを感じた。
お読み頂き有難う御座います。
やっとプロローグが終わって、次回から本編突入です(^^;