第4章―【2】
今回の作品はフラッシュバック方式を多様している為、時系列が混乱するかもしれません。
あえて「何時」という見出しはあまりつけていないのですが、全編通して眺めていただければ解るようにはしてあります(^^;
すこし疲れる構成かもしれません…。
「あら、ヒナちゃん久しぶり」
声をかけられて彼女は振り返った。
懐かしい笑顔がそこにはあった。近所に住んでいるその人を懐かしいと思うのは、もう何年も会話を交わしていないからだった。
時々見かけても、陽菜の方から遠ざかった。その人と会話を交わすと涙が零れそうで怖かったから。
その行為は感情を殺して誰かと接する現在の陽菜を象徴している。
それでも向こうから声を掛けられれば、昔の由木陽菜がぶり返したかのように、そこから退く事は出来なかった。
「こ、こんにちは……」
静かに声を返す。
「最近見かけないから淋しかったのよ」
彼女は自分の息子がいなくなった事と、自分に逢えない事を混同して寂しさという感情で統合しようとしている。
陽菜はそう思った。
「あはは……そんな……」
引き攣っていたけれど、何とか笑顔を返す。
「ずいぶん綺麗になって、まぁ」
綺麗なのだろうか?
今の自分が綺麗に見えるのだろうか。
陽菜は柔らかく揺れるサイドの巻き髪に、何時もの癖で指を絡ませる。
「そんな事……あたしなんんて」
「どんどん可愛くなるのね。女の子は」
こころの奥で、ピキッと何か鳴った気がした。まるで肋骨の内側にヒビでも入ったのかと思った。
心臓と肺の隙間が痛んだ。
一児の母親は、亡くなった息子に何を思い日々を過ごすのだろうか。
成長、変化を遂げる事の無い遺影と毎日顔を逢わせては、何を思うのだろうか。
――おばさん、あたし慶太と話したよ。最近何時も話してるよ。
声を出しそうになった。
昔のように、自分の母親と変わらぬタメグチで会話をしてしまいそうになる。
慶太はどうだったか知らないけれど、あの頃陽菜は母親が二人いるような気がしていた。
自分の息子と同じように世話を焼いてくれる彼女を、もうひとりのお母さんのように感じていた。
飛び出しそうな馴れ合いの言葉を急いで呑み込むと、もう片方の肺が痛んだ。
無言で笑顔を崩さなかった。
「黒もいいけど、茶色い髪もステキね。ヒナちゃんにとても似合うわ」
彼女は優しい笑みで語り掛ける。
午後の陽射しが眩しくて、陽菜は少し目を細めて彼の母親を見つめた。
「辛いかも知れないけれど、たまには逢いに来てあげてね。慶太は意外と淋しがりやだから」
嗚咽が込み揚げて慌ててそれも飲み込んだ。
彼女は知っているのだ。自分の気持ちを誰も解ってくれないと思っていた。
去年の三回忌に参列しなかった自分を、誰もが非難していると思っていた。
「綺麗になったヒナちゃんを、きっと慶太も見たいと思うから」
陽菜は嗚咽を呑み込んで息を着きながら笑う。
「でも……」
「大丈夫よ、ヒナちゃんが髪を染めた事、慶太には伝えて在るし」
伝わっているわけが無い……。
母親が勝手に仏壇かお墓に向って呟いただけだろう。
それでも母親はその声が彼に届いていると信じているのだ。いや、本当はそんな事在るわけが無い事も知っての行為かもしれないけれど。
それよりも、やっぱり彼女も自分を見ていたのだ。
陽菜が慶太の母親から遠のいたように、彼女もまた迫ることなく遠くから自分を見ていたのだ。
自分の息子が命をかけて守った魂の欠片を拾い集めるように、きっと少しずつ屈折しながらも成長する陽菜を見守っていたのかもしれない。
きっと彼女も、幾度と無く躊躇しながらやっと今、陽菜に声を掛けて来たのかもしれない。
込み上げた涙も嗚咽も堪えきった陽菜の笑顔は、彼女に声を掛けられた時よりもずっと明るく朗らかだった。
小学生の無邪気さが頬に浮かぶ。
「でもあたし、そろそろ黒髪に戻そうかと思って……」
「そうなの?」
「ええ」
言ってしまいたかった。誰かに言ってしまえば、きっと実行に移す事になる。
彼が消えてしまわないうちに、自分を取り戻したかった。
本当の由木陽菜の姿で、慶太と向き合いたいと思った。
「そうね……ヒナちゃんは黒髪が一番似合うかもね」
住宅街に蝉の声が響き渡る。
暑さは感じなかった。
ただすぐ目の前にいる懐かしい面影を背負った彼女の眼差しだけが、熱く胸に染み入る。
「それじゃね」
暖かい笑顔の背中は、やっぱり淋しそうだった。
呼び止めようと思ったけれど、陽菜は再び声を呑み込む。
明日の命日は言われなかった。
慶太のお母さんは、そんな事を話題に出してさり気なく強要するような人ではない。
昔、陽菜の母親が盲腸で入院した時には、何食わぬ顔で由木家の分まで夕飯を作ってくれた。
父親が他人行儀にお礼を言うと「いいの、いいの」と大きく笑って顔の前で手の平をヒラヒラと動かした。
慶太と似て背が高いと思っていた彼女は、何時の間にか陽菜と同じくらいになって、大分疲れたように歳を重ねている。
バス停の前の小さなスーパーから、小さな買い物袋を提げて彼女は去って行った。
陽菜は暫くその後姿から目が話せなくて、目の前をツバメが横切るまで彼女を見つめていた。