第4章―【1】
最終章に入りました。
暇つぶしになっていただければ幸いです。
陽光が乱反射するような青空と上空に競りあがった積乱雲が、真夏の到来を告げていた。
陽菜は半袖のパジャマを脱いで着替えると、ちょっとだけ眉を描いてから部屋の窓を開けた。
ベランダに出ると、隣の蒼い屋根越しにその向こうの家が見える。
隣の家のカーポートの柱に見え隠れしながら、三軒となりでは慶太の父親と母親が黒色の服装で車に乗り込むのが見えた。
手で顔を仰ぎながら、母親はせかせかと助手席に乗り込む。
彼女はベランダから部屋に後ずさりして、家の前を通り過ぎるカローラフィルダーを見送った。
凪いだ風が、彼女のこげ茶色の髪を揺らす。
「なぁ、何か見えるのか?」
慶太の声がした。
陽菜はベッドにドッと腰を下ろす。昨夜近所の美容室に駆け込みで行き、カラーリングし直した茶色の髪に手を触れる。
「さぁね」
わざと素知らぬ返事をする。
「なんかさ、俺も行かなくちゃいけないような気がするんだよ」
慶太はやっぱりここにいるのだろうか? 実体が無いのに、何処にいるとかという所在感覚があるのだろうか?
「行くって何処に?」
「何処って言うのは解んないけどさ」
ストパーで消えたサイドの巻き髪に手を触れると、陽菜は何時もの癖で指をクルクルと絡める。
「慶太ってさ、ここにいるの?」
「ここって?」
「ここは、あたしの部屋」
「ああ、そうか。そうなのかな? でもヒナの存在を近くに感じるだけで、見えてるわけじゃないから何処にいるのかは正直解んないよ」
陽菜は部屋の中をぐるりと見渡す。
大分黒に近づいた髪色と巻き髪を取り除いただけで、なんだか慶太と面と向かえる気がした。
「あたしも出かけようかな」
「何処に?」
慶太はまだ話しかけてくる。
最近は会話をする時間が最初の頃よりも長くなった気がする。
もちろん、急にその声は消えてしまう事も多いけれど。
陽菜はテーブルの上に置いてあったピアスに指で触れると、手に取らず
「ないしょ」と言って部屋を出た。
玄関を出ると陽射しが暑かった。黒いミニスカートから露出した生脚があっと言う間に熱を帯びる気がした。
「暑っ」
彼女は思わず口に出して歩き出す。
慶太は声を掛けて来ない。もう眠ってしまったのだろうか。
近くのバス停から普段は乗らない路線バスに乗り込むと、次第に記憶から遠ざかる景色を陽菜はボーっと眺めていた。
国道から県道に入って小高い丘を登り、下る前のバス停で降りる。
登っているバスの窓から、下ってくる一台の車が見えた。
慶太の父親と母親の乗った白のカローラフィルダーは、バスの中の陽菜には気づく事もなく静かにすれ違う。
陽菜は振り返り、車の後姿を少しだけ見送った。
上りきった所でバスを降りると、周囲の林から蝉の鳴き声が溢れだしていた。
風が吹いている。緑の匂いを含んだ風は、少しだけ心地いい。
陽菜のストレートに伸びた髪の毛は、ゆるい風を受けてサラサラと揺れた。
バス停のすぐ横には大きなお寺が在って、その脇の小道をさらに登ると墓地が広がっている。
丘の斜面を利用して段々に積み重なった墓石の集団。
杉林が周囲を囲んで、時折カラスが鳴いている。
「ここは?」
慶太の声がした。
陽菜は三年ぶりの場所を無言で歩いた。風に乗って香の匂いが漂って、彼女はそれに導かれるように足を運んだ。
麻野家の墓石の前で脚を停める。
慶太の両親が備えっていった花とお供え物が、燃え尽きそうな線香の煙に霞んでいた。
「慶太、見えるの?」
「いや、風の匂いを感じる。あと、土の匂い……普段は感じない土の匂いだ。それに、線香……」
「そう……」
陽菜は麻野家の墓石の前で両手を合わせると
「慶太……ここが慶太のお墓だよ」
彼女は手を併せて目を瞑ったまま続ける。
「ずっと来れなかった……怖くて、淋しくて……ここに来たらもっと淋しくなると思ったから、ずっと来れなかったの」
「俺の墓があるんだ」
慶太は他人事のように言う。
「そうだよ、だって慶太死んじゃったじゃん。あたしだけ残して死んじゃったじゃん」
陽菜は併せた手を解いても瞼を開こうとはしなかった。
蝉の鳴き声がじわじわと夏の大氣に入り乱れ、周囲の墓石に吸い込まれた。
「ありがとう。ってずっと言いたくて、でも言えなかった。言えないまま、慶太いなくなっちゃうし。あたしなんかの為に死んじゃうんだもん」
陽菜の固く瞑った睫毛の隙間から、雫が染み出す。それは夏の風に負けない熱さをおびていた。
三年間我慢し続けた涙の雫は、自分でも驚くほどに熱く頬に沁みる。
「そんな事いうなよ。俺、陽菜が助かってほっとした。きっと、ホッとしたら、なんか気が抜けたんだな」
「気ぃ抜くなっ」
陽菜は小さく鼻声で叫んだ。
カラスの鳴き声が聴こえて、バッサバッサと羽音がした。
携帯電話が鳴った。
香の煙が風に流れて、旻天に消えて行く。
『もしもし……ヒナ? 今日、杉原たちとお墓行くけど……たまには一緒に行かない?』
美智の声だった。
陽菜は瞳を閉じて、息を殺すように
『うん……あたしはいい。また、今度ね』
『そう……』
淋しそうな美智の声が、受話器の向こうで消え入りそうに応える。
陽菜は俯いて少しだけ、独り笑みを浮かべ
『美智? ありがと』
頭の旋毛にジリジリと陽射しが照りつけて、午前中の時間が大分少なくなった事を告げていた。
陽菜は携帯電話を閉じると、もう一度墓石に手を併せて踵を返した。