第3章―【4】
中1の冬は暖冬だった。それなのに三月初旬になってから急な大雪が降った。
大分暖かくなった頃に、急な肌寒さ。雪でも降るんじゃないの? と冗談まじりに話していたやさきの天候だった。
湿り気を帯びた大粒の雪がボタボタと容赦なく降り注いで、運動部のグラウンド組みはみんな、練習が休みになった。
一斉に帰り支度をする昇降口が異様な込み具合で、陽菜と美智は下駄箱周辺が空くのを廊下に佇んで待った。
「なんでこんな人多いの?」
陽菜が壁際に寄りかかってぼやく。
「運動部が休みだからだよ。あたしだって、普段はここにいないじゃん」
美智が笑った。
「そう言うことか」
辺りを見渡す陽菜に美智は
「慶太は帰らないのかな?」
「しらない。杉原の部室に遊びに行ったよ」
「じゃぁ、あたしたちも行ってみる?」
「いいよ。なんか面倒じゃん。他の人たち知らないし」
陽菜は首に巻いたマフラーを一度といて、再び結びなおす。
「あっ、じゃぁあたし行ってこようかな。秋の新人戦の時にとってもらった写真、大っきくしてもらう約束だし」
美智は床に置いていたバックに手をのばして
「ヒナもサッカー部の写真とかもらえば?」
「いらな~い」
陽菜はわざとしらけた声で言ってから、ケラケラと笑う。
美智は少し足早に、写真部の小さな部室がある四階に向かって歩き出すと
「じゃぁね、ヒナ」
振り返って何度か手を振った。
昇降口の人混みは大分減っていた。
ドアが開くたびに外の冷えた空気が入り込んで、下駄箱をすり抜けた風が陽菜の頬に触れる。
彼女は一つ息をついて、自分のカバンを手に取った。
リノリウムの床にぼんやりと蛍光灯の明かりが映りこんで、人混みの去った静けさは、まるで氷の上にでもいるみたいだった。
「よう、今帰るとこ?」
聞き慣れた声に振り返ると、階段の踊り場に慶太の姿があった。
「うん」
彼女は小さく頷いて「美智に合わなかった?」
「ああ、俺が出てくる時に部室に入ってきて、なんか盛り上がってたぞ」
慶太はカバンを肩に担いで
「なに? あいつ来年ジュニアインターハイだって?」
「ああ、狙ってるみたい」
慶太と下駄箱に向う。
下駄箱を挟んだ向こう側から誰かの話し声が聞こえるだけで、人影はほとんどいなくなった。
外は冷たいボタ雪が相変わらず降りしきっている。
積もり損ねたような雪が、溶けかけのカキ氷のように地面を埋め尽くしていた。
陽菜は持っていた傘を開いて
「慶太、傘は?」
「持って来るわけないじゃん」
「だよね」
陽菜が呆れ顔で笑うと、慶太に傘を渡した。
彼女が持つと、慶太の背丈をカバーするのに腕を上に伸ばして傘をささないといけないから、異常に疲れるのだ。
慶太は彼女の傘を持って少し右に多くかざす。
「なんでお前、紅い傘なの? 目立ちすぎだって」
「いいじゃん。可愛いじゃん」
「別に可愛くなくていいんだけど」
溶けかけのカキ氷を踏みしめる二人の足跡が、ずっと続いていた。
住宅街を抜けて国道の横断歩道の前で二人は信号待ちをしていた。
車が往来する度に、シャーベット状の雪が大きく跳ね上がって、時折それを被った歩行者の悲鳴が聞こえる。
「少し下がった方がいいね」
陽菜が少し後ずさりをして、慶太もそれに合わせて下がる。
ちょうどその時に大型トラックが走って来た。
「やべ」
ザザッとシャーベットの飛沫が上がった。
信号待ちをしていた他の学生が悲鳴を上げた。
みんな車道から少し下がっていたが、飛沫が大きくて被ってしまったのだ。
陽菜は濡れなかった。
慶太が彼女を押して、飛沫と陽菜の間に入ったから。
「ビックリした」
彼の肩が彼女の頬にピタリとくっついて、頬っぺたがグイッと歪む。制服の生地の匂いがした。
自分の制服と同じ生地なのに、自分のモノとは何となく違う匂いがするのはきっと、彼の匂いが服に混じっているせいだろう。
「ムカツク、びしょ濡れだよ」
周囲の学生が声を荒げていた。
「あ、ありがとう……」頬っぺたを歪めたまま陽菜が言った。
「でも、ほっぺた痛いかも」
慶太はフッと、彼女を突き放して傘を傾けると
「てか俺、背中ずぶ濡れ」
家に着く頃には雪はだいぶ小降りになった。
相変わらずアスファルトの上は、溶けかけのシャーベットで埋め尽くされていた。
重く圧し掛かる空は光を遮って、見慣れない景色は時間の感覚が失われる。
三月の寒空の下を歩く時間が、二人には妙に長く感じられて、何時もよりずっと一緒にいるような気がした。
低い空が胸の内部に圧力をかけているように、少し息苦しい。
だから陽菜は思わず声をかけた。名残惜しい気持ちは、何故か初めてだった。
「お茶でも飲んでいく?」
陽菜は自宅の門の前で慶太に言った。
「背中もズボンもびしょ濡れだしなぁ」
「じゃぁさ、着替えたら来なよ。かばってもらったお礼」
彼女は笑って、慶太の差し出した傘を受け取ると
「どうせ、後はひまなんでしょ?」
「ああ、じゃぁ着替えてくるよ」
慶太は三軒先の自宅へ向かう為に歩き出すと
「俺、腹へったから食いもんもな」
陽菜は笑って手を振ると、下ろした手で傘をたたんだ。
冷たい雪が鼻の頭に落ちると、アッという間に水滴になって流れ落ちた。
「つめた……」
お読み頂き有難う御座います。
少し遅れがちですが、執筆は順調ですので今後とも宜しくお願いいたします。