第3章―【2】
「滝口先輩は、お祭り行かないんですか?」
美智は、水道の水で顔を洗っている二年生に声をかけた。
「ああ、俺混み合ってる場所が苦手でさ」
小柄だけれども気さくで後輩の面倒見もいい滝口剛は、女子陸上部からの評判も上々だった。
美智は小学校の頃からずば抜けて脚が速かった。
細い身体はしなる様に地面を蹴って跳ねる様に走る。その姿は誰の目にも綺麗だった。
中学に入って本格的に陸上の短距離走を始めた美智に、いろいろ教えてくれたのも女子の先輩より滝口だった。
もちろん同性の先輩のアドバイスより、ちょっと気になり始めた異性である彼の声がより耳に入り込んだのも確かなのだろうけれど。
「えぇ、じゃあ先輩お祭り行った事ないんですか?」
「いや、小さい時に親と一緒には行ったよ。人に酔って具合悪くなったけどさ」
滝口はスポーツタオルで顔を拭き、それを首に巻きながら言った。
彼はスパイクの入ったケースを掴むと
「朋平は行くの?」
「え、ええ。判んないけど、どでしょ。一緒に行く人がいれば……」
美智は日焼した顔でえへへと笑い、脱いだスパイクの土をほろってシューズケースに仕舞い込む。
「なんだ、一緒に行くやつイネェのかよ」
滝口は首に巻いたタオルの両端を手で掴んで笑うと、後ろから声をかけられた同級生に振り返る。
美智はタイミング的に話しを切り上げなくてはいけなくて、高跳びのマットを仕舞い始めた一年生の仲間の方へ走った。
「いいなぁ、美智は滝口先輩と仲良くてさ」
高飛びをやっている一年生の佳奈が、教室で声をかけてきた。
一年生は更衣室を使えないため、みんな教室で着替える。夏休みは運動部の部活が時間単位で区切られているので、校舎の中は何時もがらんどうだ。
今日は最後の時間だった陸上部の練習が終わる頃、西日が差し込む教室にはヒグラシの声が注ぎ込む。
「べ、別に仲いいってわけじゃ。いろいろ教えてもらってるだけ」
「そうかな。先輩もまんざらでもないんじゃないの」
佳奈はそう言ってバックを手に取ると
「もう帰る?」
「うん。帰るよ」
「じゃぁ、一緒にいこ」
二人は教室を出ると、昇降口まで歩いた。
一階の昇降口まで来ると、佳奈のクラスの担任教師が偶然職員室から出てきて
「あ、ちょっと佐々木、ちょうどよかった。ちょっと」
「あぁ、掴まった」
佳奈は苦笑して
「あたし、期末ダメダメでさ。補修出てなかったから」
彼女はそう言って、「じゃぁ」と小さく美智に手を振ると、呼ばれた職員室へ向う。
美智は小さく息を着いて、一人で昇降口を出た。
陽菜にでもメールしようかと思ってケイタイ電話を取り出して校門を出ようとした時、滝口の姿に気付いて立ち止まる。
「今、帰り?」
「え、ええ……」
滝口は独りで、何となく美智の横に並ぶと二人でゆっくりと歩き出した。
グラウンドでいる時とは違っていた。
自分よりも少しだけ背の高い彼の向こうから西陽が降り注いで、滝口の顔がよく見えなかった。
少し伸びたスポーツ刈りの毛先が逆行に黒く浮かんでいる。
美智の細い身体の奥で、バクバクと鼓動が高鳴る。小さな胸が肋骨に押し出される気がした。
蝉の声が住宅街の何処かから降り注ぐ。
「お祭り行くの?」
毎年、総合運動場で盆踊りを含んだお祭りがある。国道から駅まで屋台が並び、運動場も色とりどりの提燈で飾られる。
町では一番おきな盆踊り祭りだから、お祭りと言えばそれの事だ。
「どうしようかな。去年は陽菜と行ったけど」
「陽菜って、何時も一緒にいる友達?」
「ええ」
美智はカバンを持ち替えながら滝口を見ると、直ぐに前を見た。
口から心臓が飛び出そうになりながら、口を小さく開いて
「先輩、行きます?」
「えっ?」
咄嗟に言ってしまった美智の言葉を、滝口は聞き返す。
美智は鼓動が高鳴りすぎて、嗚咽が出そうだった。唾を飲み込んで息を着くと小さな声で
「今日、一緒に行きませんか?」
肋骨が軋むほどに、鼓動が高鳴っていた。
* * *
美智が家に着く頃、ケイタイの着メロが鳴った。液晶には陽菜の名前が浮かぶ。
「あ、美智、部活終わった? 今日、お祭り行くでしょ?」
「あぁ……うん……今日はちょっと」
「どうかしたの?」
「うん……ちょっと、体調悪くてさ」
「えっ? 大丈夫?」
「う……ん。たいした事無いんだけどさ、ちょっと眩暈もするし、なんか頭も痛いし……に、日射病かな……あ、熱射病かも」
「そ、そう」
陽菜が声のトーンを落とすと
「じゃ、明日行こうか。今日は休んだ方がいいよね」
「うん……ゴメン」
美智が沈んだ声で言った。
「そんな、大丈夫だよ。ゆっくり休みなよ」
美智は静かに携帯電話を折りたたむと、玄関のドアをゆっくりと開けた。
今年の夏は暑いですね。
皆さんも、夏バテしなように気をつけましょうね。