第2章―【6】
春のクラス替えで一緒になった朋平美智は、脚の速いやせっぽちの娘だった。
彼女によって運動会のリレーに推薦された陽菜は、美智の態度に少々困惑した。
放課後の春の陽射しは暖かくて、そのわりに風が吹き荒んで校庭の砂が少しだけ宙に舞ったりしていた。
帰り道はなんとなく慶太と一緒になって、西日が降り注ぐ紅の中をゆっくりと歩いた。
「脚いたっ」
陽菜はコトコトと背中でランドセルを鳴らす慶太を見る。
「俺は平気。全然平気だよ」
「毎日疲れた……」
陽菜は路地のブロック塀の陰に咲くタンポポを見つけて、何となく呟く。
慶太はそんな彼女をチラリと見て
「ミスドよってく?」
陽菜は顔を上げて直ぐに頷くと
「100円かな?」
「いいよ、俺だすから」
「やった」
陽菜は少し元気な足取りになって、日陰のタンポポを見送った。
「ヤダなぁ、もう直ぐ運動会じゃん」
「土曜日は総練習でしょ」
「あたし、授業が無いだけでいいな」
ベランダで話していた三人組みの声が聴こえる。
陽菜も少し離れた所で何となく空を仰いでいた。
蒼い空に流れる雲が速い。
「昨日も麻野くんと帰ったの?」
背中から小さな声がして、陽菜はハッと振り返る。
「えっ?」
窓越しに朋平美智がいた。
「今週は毎日一緒に帰ってるね」
「だ、だから、帰り道が同じだから」
「昨日はミスドに寄ってたじゃん」
美智はまるで二人の後をつけていたように言う。
「な、なんで慶太にこだわるの……?」
「べ、べつに」
少し俯いた美智の顔が何となく紅潮して、彼女はそのまま振り返って教室の奥へ歩いて行った。
毎日の放課後の練習は陽菜にとって疲労の種だった。
一番脚の速い美智に、この時ばかりはみな従順で、陽菜に時折浴びせられる彼女の冷たい視線が居心地の悪さを感じさせた。
別に意地悪をするわけではなかったけれど、なとなくサバサバした乾いた態度が気になった。
普段教室では感じない居心地の悪さは、放課後の疲れを増幅させて風に吹かれるとよろめきそうになった。
金曜日の給食の時、担任が不意に言った。
「今日から給食は残さないで下さい。配られた分は、責任を持ってちゃんと食べましょ」
にこやかな笑顔の眼は、笑っていない。
ようするに好き嫌いは許さない。と言う事だった。
陽菜は特に嫌いなものが無かったから、あまりに気にも留めなかった。牛乳はあまり好きではないけれど、何とか毎日一パックは飲める。
配られた給食は特に風変わりなものではなかった。ナポリタンと野菜炒めと揚げパンと牛乳、それとプリン。
陽菜は何となく美智を見た。
そう言えばよく給食を残している彼女が、ふと気になった。
好き嫌いが多いのか、もともと少食なのか、だからあんなに身体が細いんだな。と、以前思ったことがあったから。
美智の箸はあまり進んでいなかった。
「今日は、全部食べるまで各々片付けないでね。ちゃんと食べてから片付けてください。当番はそれまで待つ事」
明るい声だったが、言い方は何となく冷たく厳しいものだった。
給食係の連中がざわついた。
陽菜は普通に何時も通り食べて食器を片付けていた。
再び美智を見る。
野菜炒めがほとんど残っていた。
俯いた顔は、なんだか青ざめている。
どうしてだろう……彼女の少し孤高なところが陽菜は気になっていた。
運動会の練習の時にはあんなにリーダーシップを発揮しているのに、普段は風すらも気付かずに通り過ぎてしまいそうなほど存在感が無い。
自分と少しだけ似た匂いがする。
今はあまり意識していないけれど、転校して来たばかりの頃はまったく同じだった。
給食を残して食べきれない娘は他にも数人いて、それぞれ困惑して俯いていた。
担任教師は自分の昼食を終えると
「それじゃ当番のひとよろしくね。給食センターにはいってあるから」
とだけ言っていなくなった。
陽菜はゆっくりと美智の机に近づいて、何処かへ遊びに出かけたらしい前の席を引いた。
椅子に後ろ向きに腰掛けると
「野菜、ダメなの?」
美智は黙ったまま小さく頷いた。
「でも、食べないと片付けられないよ」
美智は少しの間黙っていたが、不意に思い出したように
「麻野くんは、幼稚園の時からあたしが一番仲良かったのに……」
「えっ?」
陽菜はとっさで今は無関係な話題に全部が聞き取れなくて、思わず聞き返した。
「あんたが転校してくるまで、あたしが一番仲良かった。クラスが違っても、一番だった」
「そ、そんな、あたしは別に一番じゃないよ」
「麻野くんはきっと一番だよ」
そんな事を意識した事がなかった陽菜は、思わぬ美智の発言に壁易した。
彼にとって自分が一番だなんて考えた事も無かったし、もちろん自分からの感情も考えた事が無い。
誰かを好きだと意識した事もあまり無い。
話しやすいとか、居心地がいいとか……そんな感覚は意識するけれど、それから好き嫌いを識別することはなかった。
でもきっとこの娘は麻野慶太の事が好きなのだと認識した。
自分と同じ年で同じクラスで同じ学校で暮らす目の前の彼女が、人を好きだと感じて、そして自分に対抗意識を抱いている事がショックだった。
陽菜は美智の机に乗った給食のおぼんに手を伸ばすと、野菜炒めのニンジンとピーマンを手掴みで口に運ぶ。
美智は突然の陽菜の行動を、呆気に取られて見つめた。
「どうせ食べられないのはピーマンとニンジンでしょ? キャベツくらいはあんたが食べな」
美智は思わずキャベツを箸で摘むと、目を瞑って口へ運んだ。
校庭からは昼休みの喧騒が窓から吹く風に乗って聴こえてくる。開け放った窓のカーテンがパタパタと鳴っていた。
皿の中の野菜炒めを二人で食べた。
半分以上は陽菜の口へ運ばれたけれど。