第2章―【4】
『9年前』
静岡市は工業・商業ともに盛んで、オフィス街の外側にミカン畑が広がる。
旧商店街の呉服町通りが通学路だった。コンクリートと石畳の細い路地を抜けて、雑貨屋の横を抜けると並木の路地が伸びる。
細い路地を小中学から高校生まで、朝はひしめき合って歩く。
噴水の在る常盤公園の横を抜ければ、校舎が視界に入る
由木陽菜はその賑やかでどこかノスタルジックな通学路を1年間と少し通い続けて、転勤になった父親に従い千葉へ引っ越した。
「今日からこのクラスの仲間入りをした由木陽菜さんです」
担任の吉岡は、朗らかに彼女を紹介した。
富士山を隔てた関東方面は、ディズニーランド以外来た事がないまるで未知の世界だった。
テレビでよく観る新宿・渋谷を通り越して来た土地は、汐風の香る方角にビルが並び無駄に拾い道路と湾岸高速が一直線に伸びる何処かへんぴな場所だった。
初めての転校で環境が変わるというのは、子供にとって友達付き合いを造り上げるうえで非常に困難極まりない事だった。
考えが違う、話題性が違う……フィーリングが違う。関東弁の飛び交うクラスメイトが、同じ日本人に感じなかった。
桜の木が緑色に葉をいっぱいつけて強い春の強風に煽られていた。浜風が流れ込む幕張は、同じ海に近い静岡の風とはまったく違う。
高層ビルや高速道路を行きかう大量の車の匂いが、汐風に混濁しているのかもしれない。
校舎の四階からはマリンスタジアムの屋根が見えた。
マクドナルドの店員が、やたらオバチャンな事に奇妙な違和感を感じた。
小学校から新しい一軒家の自宅まで徒歩で十五分ちょっと。
登下校は何時も独りだった。
けれど、どこか違和感を醸し出すクラスの誰かといるよりは、独りで歩く登下校時間が僅かな安堵をもたらして好きだった。
何時ものように独りで正門を出て歩く。
小柄な陽菜は、同学年の集団に紛れると一瞬姿を消してしまうほど目立たない存在で、それを彼女自身意識するようにもなっていた。
駆け足で正門を抜け出す男の集団を目で追う。まだ新しさの残る大き目のランドセルが、カランカランと背中で音をたて揺れながら遠ざかってゆく。
陽菜は独りでも俯く事はあまりしなかった。
独りが嫌いでないせいかもしれない。
群れを成すことしか知らない連中を見て、少しだけ嫌悪も感じる。
考えてみれば静岡に住んでいた時も、仲の良い香代意外とはあまり一緒の行動はしなかった。
サーティーワンも独りで行ったし、路地裏の駄菓子屋だって独りで行った。
よくよく考えれば、以前とそう変わりない周囲の環境に気づく。学校帰りに商店街はないけれど。
パタパタと足音が背中から聞こえる。それはたいてい自分の存在に無関係に近づいては通り越してゆくか、背中の路地に消えて行く。
しかし、その足音は彼女の背中の少し後ろで停まった。実際は停まったのではなくて、陽菜の靴音と同じリズムになったのだ。
後ろを誰かが歩いている。
陽菜はそれを感じながら、素知らぬ素振りで歩き続けた。振り返る理由なんてないから、彼女は最近ようやく見慣れてきた景色を真っ直ぐに見つめて歩く。
枝の短い銀杏並木。洗車した事がないようなホコリ塗れの古い外車。何時も寝てばかりの大きな犬のいる古い洋館。
陽菜のランドセルに着いていたミニーマウスのキーホルダーが揺れる。
住宅街の路地を曲がった。
汐風が彼女の長い黒髪を揺らす。サラサラと艶の在る毛先が、ランダムに踊る。
「由木」
後ろから確かに声がした。自分の名を呼ぶ声だ。
名前を呼ぶ声が景色に飲み込まれないうちに思わず怪訝に振り返る。歩く足は止まらなかった。
ヒョロリと背の高い男子が独り、自分の後をつけるように歩いている。視線は自分を見ていた。
眼差しは暖かく、怪しげな雰囲気は微塵も無い。澄んだ瞳に魅入られて、陽菜は思わず足を止めた。
「由木の家も、こっちだろ?」
同じクラスにいる男の子だとわかったが、まだ言葉を交わした事は無いと思う。転校初日に全員に自己紹介されたけれど、クラスのほとんどは顔も名前もまだよく判らない。
「俺もこっちなんだ」
彼は白い歯を見せて笑う。
「ていうか、三軒しか離れてないって、知ってた?」
陽菜は立ち止まったまま、顔をぶんぶんと横に振る。
そんなこと全然知らないし、彼がどうしてそんな事を知っているのかさえ疑問に感じる。
近所に住んでいるのだから、そんな事知っていても不思議じゃないのに。
「由木、クラスであんまり喋んないよな」
男の子は立ち止まった陽菜の横に並ぶと、そのまま歩き出す。陽菜も何故か後を追うように歩き出した。
「だって、あんま喋る事ないし」
「そんな事ないだろ」
「あるよ」
陽菜は彼の足元から伸びる影を見つめて歩く。
「なんか違う。やっぱ静岡の子たちとはなんか違う」
「別に変わんないよ。静岡も幕張もさ。おんなじ、おんなじ」
男の子は陽菜をチラリと振り返った。午後の陽射しに瞳の虹彩が優しく輝いていた。
陽菜が彼を見上げると、もう男の子は前を向いている。彼女は男の子の影を踏むように歩いた。
「でもさ、この辺、学校帰りに何もないね」
「何も無いって?」
「サーティーワンとかマックとかさ」
「へぇ、通学途中にそんな所に寄れたの?」
「たまにね。いつも通り道に在ったから」
男の子は急に陽菜の手をとった。
熱いくらいに暖かい手は、自分の手を完全に包み込む。男の子の手って、大きいんだ。と思った。
グイッと引っ張られるようにして、何時もは通り過ぎる路地を曲がった。
「えっ?」
「こっちこっち」
男の子は少し足早に彼女を引っ張る。陽菜は足が縺れてしまわないように慌てて左右の脚を運んだ。
古い垣根は葉がバラバラに伸びきっている。その横を曲がると、路地はさらに細くなった。ねずみ色のブロック塀が日陰で少し湿っている。その上を鼻にブチのある猫がゆっくりと歩いていた。
見たことのない景色の中を、彼女は男の子に手を引っ張られるまま歩いた。
「何処行くの?」
「いいから、いいから」
陽菜の心臓は高鳴っていた。何処に向かっているのか判らない不安と期待と、自分の手を包み込む熱のせいだ。
細い路地を抜けると、住宅街がそこで切り取ったように終わっていた。
国道が走る大通りに出る。
「こっち、まだ来た事無い?」
男の子の問い掛けに、陽菜は再びぶんぶんと首を横に振る。
直ぐ先にミスドが見えた。歩道沿いにのぼり旗がたなびいている。
男の子はミスタードナツの前で足を止めた。
「ミスドなら在るよ」
手を離される瞬間、まるで電流が途切れる気がした。今まで彼の動力を貰って動いていたみたいに。
陽菜は笑顔で頷いていた。何度も頷いた。
二人は100円均一でセール中のドーナツを一つずつ買って、外に設置して在るウッドデッキ風のベンチに腰掛けて食べた。
ミニチュアダックスをつれた派手な女性が歩道を歩いてゆく。ドーナツの匂いに、ダックスは振り返って鼻をヒクヒクさせていた。
ここは少し時間がゆっくりと動いている気がする。高級外車が常に路上駐車されて観光客が行き交う大通りとはまるで景色が違った。
ちょっぴり汐の香りはする風で、のぼり旗がはためいている。心地よかった。
陽菜はドーナツを食べ終わる頃に小さな声で
「でさ……あんた、誰だっけ?」
お読み頂き有難う御座います。
多忙の為、投稿が不定期になりがちですが、出来るだけ火曜日か水曜日には
UPしたいと思います。
宜しくお願いいたします。