第2章―【3】
「事故に遭ったってほんと?」
和人がZ8の革シートにもたれて言った。
「うん。ほんと」
陽菜はフルオープンの頭上から巻き込む風の匂いを嗅ぐように虚空を仰ぐ。
「連絡取れないから、焦った」
医大生の彼は何時も羽振りがよくて、BMWのオープンカーを足代わりにしている。陽菜は彼のZ8で走る夕張浜の海岸線が好きだった。
「たいした怪我じゃなかったの?」
「まぁね」
陽菜は少し気だるそうに笑ってみせる「やっぱ普段の行いのおかげだね」
「行いね」
和人が笑って髪をかきあげる。
亀有の自宅から、陽菜が声をかければ何時でも来てくれる。彼にとって陽菜は本当の彼女ではないし、陽菜にとってもその方が都合がよかった。
ナルシス系の和人に、内心あまり興味はない。
スポーツカーをフルオープンにして、夕方の海岸線をドライブするのが好きなだけだ。
憂鬱な日々が、頬をすり抜ける風と一緒に何処かへ吹き飛んでゆく気がして、定期的に陽菜は彼と会う。
減速して路肩に車を停めると、和人はハンドルを片手で掴んだまま視線は真正面だった。
「今日は? 時間大丈夫?」
陽菜は満面の笑みを浮かべて見せる。
「夕飯は家で食べないと父親に殴られるから……」ウソだ。
「お茶は平気?」
「いいよ。何処か寄っても」
和人は余裕があるのかプライドなのかポーカーフェイスなのか、無理に迫ったりはしない。陽菜にも彼の思惑は読み取れない。
ただ、無理に迫ってこられたら、1年も中途半端な関係は続かないだろう。
彼女は今まで付き合った誰にも、身体を許していない。
医大生や美大生、銀行員、区役所の人事部にいた男、陽菜は機会があればいろんな男と付き合う。
まるで慶太の亡霊を振り払うかのように、沢山の男に関わってきた。それでも今のところ、身体を許した男はいない。
「じゃ、高速使って都内にいこう。取って置きのカフェがある」
和人の唇が近づいて陽菜のリップに触れた。
1、2、3。陽菜は心の中で数を数えて顔を引く。3秒ルール。彼女は3秒だけならキスを許す事にしている。
自分だけのルールだ。
水平線に大きな夕陽が落ちかけている。海面がオレンジ色に焼けて、融けかけたような太陽は波に揺らいでいた。
和人は一瞬だけ残念そうに瞳を細めて笑った。陽菜はそれに気付かない振りをしながら
「みてみて、夕陽きれい」無邪気な振りをする。
彼はハザードを消して、勢いよくアクセルを踏む。
Z8のリヤタイヤがアスファルトを蹴飛ばすと、陽菜のゆるくカールされた茶色い髪を、汐風がさらってゆく。
* * *
『一年半前』
白い綿毛が蒼穹を埋め尽くして、微かに照らす弱い陽射しにそれは煌いていた。
3月の雪は珍しい。校庭の乾いた土は、薄っすらと白い化粧を施して、淡々とした足跡が無数に残されていた。
周囲の喧騒が降り注ぐ雪に飲み込まれてゆく。
彼女は校舎の正面玄関のエントランスに一人で立っていた。校庭に残された無数の足跡に刻まれないひとりの足跡を探す。
在るはずの無い足跡。
「卒業おめでとう」
担任の市川公江は、由木陽菜に後ろから声をかける。
陽菜は振り返らずに頷いた。
「高校、頑張ってね」
市川の言葉に、陽菜は目を閉じた。
「何を頑張るんですか?」
一歩前に出ると、上空から舞い降りる綿毛が彼女の黒髪にふわふわと纏わり付いた。
「高校に行ったからって、何を頑張るんですか?」
市川は陽菜の淋しげな背中を見つめる。
「勉強とか遊びとかさ。部活だって中学とは違うし、高校に行くと視野がずっと広がるから」
教師の微笑みは、背中から陽菜を優しく包み込もうとしている。彼女はそれを拒絶するように、再び一歩前に出た。
「部活なんてしないよ」
チャコールグレーのダッフルコートのフードが、黒髪と一緒に白く染まってゆく。陽菜はまた一歩足を踏み出すと、そのまま歩き出した。
「頑張ってね」
控えめの声が雪に吸収されて、やけに遠くに聴こえた。それはいかにも他人事で、自分には関係ない者への枕詞。
陽菜は無数に足跡の残った校庭を真っ直ぐに横切って歩いた。
卒業式に来ていた父兄も生徒も、正門からちりぢりに消えかけていた。
体育館の横に数人の生徒が足を止め、名残を惜しむように談話している。
その中にいた美智と杉原は校庭の真ん中を独り歩く、由木陽菜を見ていた。
白い綿毛に囲まれた人影は、ゆっくりと霞んでゆく。
美智と杉原もまた、校庭に在るはずの無い足跡をさり気なく探していた。
* * *
家の庭を出ると、隣の庭木の梅の花が歩道を白くしていた。
前日に降った雨でアスファルトはまだ少し濡れ、少しだけ暖かい風に濁った花の匂いが鼻孔をくすぐる。
真新しい水色のブラウスにグレーのブレザーが春の陽を浴びて、こげ茶色の長い髪が風に揺れた。
入学式の日、通学バスで陽菜は美智の姿を見かける。自分と同じ制服を着る彼女を、陽菜はそっと見つめた。
同じ高校へ美智が入学した事を始めて知った。彼女と楽しく話したのは、中二の夏の河原が最後だ。
あの豪雨の後、彼女とはほとんど会話していない。三年になってクラスが別々になり進路が決まった時、彼女がどこへ行くかも気にしなかった。
でも同じ制服の美智を見た時、何故か少しだけホッとして、未開の地へ独り足を踏み入れる直前のような不安は何処かへ吹き飛んだ。
それでもやっぱり声は掛けなかった。
美智は彼女のキレイな黒髪が失われた事を知った。
混雑した車内で、窓から入る陽射しは人混みの隙間をすり抜けて彼女の茶色の髪を艶やかに映し出していた。
人混みをすり抜けた光の中で、無数の塵がキラキラとゆっくり渦を巻いている。
美智は彼女が無事入学式に出て来た事に安堵を感じた。
あの日以来、どこか無気力に毎日を送る彼女に、美智は困惑してどう接していいのかも判らない日々を送っていた。
揺れるバスの振動で人混みが揺らめくと、陽菜の影は時折見えなくなった。
二人共声は掛けなかった。
春の陽射しが窓枠のステンレスに反射している。
混雑した通勤ラッシュのせいにして、二人はお互いを一定の距離の中で認識するだけだった。