第2章―【2】
今週はちょっと遅れてしまいました。
試験休みに入って一週間が経った。それは陽菜が事故に遭って一週間と言う事にもなる。
身体のあちこちにある擦り傷の痕も、ほとんどお湯にしみなくなった。
陽菜は身体のシャンプーを流すと、湯船にざぶんっとイッキに肩まで浸かった。
バスルームの窓から、夏の夜風がゆるゆると吹き込んでくる。
天井からぽたりと湯気がアタマに落ちてきた。
「うわっ、冷たっ」
「陽菜、陽菜」
何日かぶりに聴こえる慶太の声に、陽菜は天井を見上げる。
「け、けいた」
――なんでお風呂の時に呼ぶわけ?
「慶太、何? 急用?」
「いや、急用とか、そんなの無いけど」
「いま、お風呂よ」
「そうなんだ。俺には時間の感覚がよくわかんないからさ」
「あんた、本当にこっちが見えないの?」
「なんで? 見えねぇよ」
「だ、だってさ……あたし服着てないし」
陽菜は無意識に膝を抱え込んで身体を丸める。
「少しは背、伸びたか?」
「失礼な、伸びたわよ。五センチもさ」
陽菜は折り曲げた脚を伸ばすと
「ウエストだってキュッとなったしさ」
「胸もデカクなったか?」慶太が笑う。
「む、胸は……でも、おっきくなったもん。前よりは」
「ふぅん」
「あっ、ウソだと思ってる」
「思ってねぇよ」
「だいたいなんであたしが裸の時に話しかけてくるわけ。いやらしい」
「そんなの知るか。声掛けられる時にかけてるだけさ」
「ホントにホントに見えないんでしょうね」
「見えたら見てみてぇよ……今のお前をさ」
陽菜は少しだけ、また身体を縮めた「う……ん」
膝を畳んだまま、濡れた茶色い髪を指でくるくると巻き取る。
「まぁ、困った事があったら呼べよ」
「助けてくれる?」
「無理だな」
「何でよ」
「だって、俺たち声しか通じないじゃん。何もしてやれないよ」
「そっか……」
言葉は途切れた。
夜風に虫の声が染み渡るように聴こえて来る。
「慶太? 慶太?」
小声で何度か呼んでみたが、慶太の声はもう聴こえなかった。
久しぶりの雨だった。
朝からどんよりした重い雲が頭上を覆いつくしていた。細い雨粒は何時まで経っても止む気配をみせない。
陽菜は久しぶりによそ行きの服に着替えて外へ出た。傘も差さずにバス停まで歩く。
小雨に打たれた巻き髪は、ワンピの上から羽織ったカーデガンの肩にしっとりと垂れ下がって揺れる。厚底のミュールサンダルは、静かにアスファルトを踏む。
何時もの癖でちょっとだけマスカラを塗ったが、唇は軽く色つきリップを塗っただけ。爪にも何も塗っていない。
何となく素のままで家を出た。
バスに乗り込み学校を通り越して舞浜のショッピングモールへ行くと、ぶらぶらと当ても無く歩く。
誰かを誘う気にはなれなかった。何となく、ひとりで何処かを歩きたい気分だった。
サーティー・ワンで買ったアイスを片手に、噴水近くのベンチに腰掛けると、陽菜は小さな溜息をついて腰掛けた。
――結局夏服を買っちゃった。
久しぶりに歩いて疲れた彼女は、ワッフルコーンの上に乗ったアイスにゆっくりと口を着ける。
「ヒナちゃん」
聞き慣れない呼び方と声に、陽菜は怪訝そうに振り返った。
「…………」無言で相手を見上げる。
背が高い。髪は耳が半分露出するくらいの長さで、無造作に毛先は跳ねていた。
「……だれだっけ?」
「大塔時だけど」
男は曇り空を弾き飛ばすほど爽やかに笑うと
「ほら、この前バスでさ」
陽菜は男から視線を外して、空を見上げる。少しだけ雲に切れ間ができて、光の梯子が数本出来ていた。
――あ、天使の梯子。
「あの……さ」彼は少し困ったように陽菜に呼びかけた。
「あぁ、バスの」
彼女は再び彼を見上げると「それで? なにか?」
「いや……たまたま見かけたから」
陽菜は手に持っていたアイスを思い出したように小さく舌ですくう。
「ふぅぅん」
大塔時 長道は少し間を置くと
「あの、返事は……どすかね」
「返事?」
「この前バスで手紙渡したと思うんだけど……」
陽菜は再びアイスを舐めて
「ああ、そう言えば」
すっかり忘れていた。その日の放課後、彼女はトラックに撥ねられたのだ。
大塔時は少し色白で細い身体にヒステリックグラマーのタイトなT シャツが似合っていた。穏やかな風に揺れる前髪はウザったくないギリギリをキープしている。
高校に入ってからの陽菜ならば、とりあえずキープして何かと都合よくあしらっていただろう。
買い物につき合わせたり、ご飯をおごってもらったり、アミューズメントパークへ遊びに行くパートナーの一人にしたり。
なのに、今はそんな気になれない。
天使の梯子に照らされた雲の切れ間は、大昔の裸電球のようにクリーム色に発光しているようだ。
「うぅん……」
今一度、大塔時を見上げる。
「あたしの何処が?」
「えっ、何処って、全体というか……そのキレイな巻き髪とか」
大塔時は困ったように笑う。
陽菜は肩から落ちた毛先を、空いている手の指でくるくると絡める。
「大分傷んでるよ、この髪」
「とにかく、雰囲気っていうか、いろいろ」
陽菜は瞬きしながらフゥンと鼻で頷くと「とりあえず座れば」
彼女は自分の座っているベンチに視線を落とした。
「あ、うん」
細身のジーンズに包まれた長い足が、視界の隅でスッとクロスした。腰にズリ下げない履き方が、陽菜に多少の好感を持たせる。
ダラダラした服装のチャラ夫も、メンズコスメ使い放題のナルシストも本当はいけ好かないと思っている。
でもそんな事言ってたら、遊ぶ仲間が見つからない。
そんな中で、久しぶりに近づいたノーマルな男は、何となく安堵をもたらす。
「いつもあのバス?」
陽菜は手に持ったアイスを舌ですくい続ける。
「何時もはもっと早いかな。部活あるから」
「バスケ? バレー?」彼女は彼の長い足をチラ見する。
「えっ?」
「運動部でしょ?」
「いや……吹奏楽部だけど」
「ふぅん」
陽菜は再び鼻で頷くと「もったいな」
何時の間にか海の在る方の空は雲が切れて、瑞々しい蒼い晴れ間が覗いていた。
お読み頂き有難う御座います。
まだまだ続きますので、宜しくお願いいたします。