第2章―【1】
試験休みに入って五日が過ぎていた。陽菜は二日間病院にいたから、退院して三日が経った。
その間ほとんど外へは出なかった。
少し汗ばむと頬っぺたの擦り傷がヒリヒリして、外出する気になれない。近所のコンビ二へ行くのがせいぜいで、あとはさややあずさと電話で少し話す程度だった。
階下でチャイムの音がした。
ベッドの上でゴロゴロして、本棚から取り出した桜井亜美の小説を手にしていた。小説なんて久しぶりに読む。
イメージ写真に活字をあてがった、比較的字の少ないやつだ。
どうせ何かの勧誘や集金だろうとチャイムはシカトしていたが、再び鳴る。さらに2度、一度で3回鳴る仕組みのチャイムが連打された。
「お母さんいないのかな?」
陽菜はダラダラとベッドから起き上がると、階段を下りる。
スリッパを引きずるように廊下を歩き、面倒臭そうに玄関のドアを開けると、久しぶりに見る顔がそこにあった。
「ひ、久しぶり……友達に聞いてさ、大丈夫なの?」
谷津高校で唯一、中学からの同級生である朋平美智だった。しかし、中学時代親しかった彼女とも、高校に入ってからはまったく行動を共にしていない。
一年の時からクラスが違ったし、彼女は陸上部に入って部活動をしている。
でも本当はそんな事が理由で彼女との付き合いをやめたわけではない。
「う、うん。平気だよ」
陽菜は少し驚いた顔を作り笑顔に変えて応える。
美智は、陽菜の頬に貼られたガーゼを見つめながら苦笑して
「そう……」
「わざわざ来なくたってよかったのに」
陽菜は肩から胸に落ちた巻き髪を手で触れた。
昔からの黒髪を今はショートカットにして、よく陽に焼けている美智。彼女の健康的に細い身体には、スキニージーンズがよく似合っていた。
ノースリーブのチェニックにサマーニットの黒いベスト。ヤッパリ高校生なんだと主張するように、柑橘系の爽やかなフレグランスの香りがした。
上下ジャージ姿の陽菜は、久しぶりに対面した彼女をマジマジと見る。
「陽菜と話すの、久しぶりだよね」
「美智は部活、忙しそうだからね」
「身体は大丈夫だったの?」
美智は、自分の頬っぺたを指差す。
「うん……こんだけ。あとアタマ思い切り打ったみたいだけど、なんか平気」
陽菜は腕まくりをして肘のすり傷を見せる。
「それと、あちこち擦り傷」
少しぎこちなく笑ってみせる。
「あはは、大変だ」美智の笑いも、どこかぎこちなかった。
中学の卒業式の時にはもう、あまり話しはしなかった。同じ高校に入った事も、入学式の時に見かけて初めて知った。
あの頃親しかった仲間とは、中学の後半からほとんど一緒にいないし、話もあまりしなかった。
彼だけを置き去りに、他のみんなとだけ元通りにはなれなかった。
慶太が自分の前から消えてしまったように、他の友達も陽菜は心から消し去り拒絶するようになった。
プライオリティーなど存在ない、無条件の拒絶だった。
小学校から仲のよかった彼女だけれど、今は当然のように会話は弾まない。彼を犠牲にしてしまった罪悪感が、静かに陽菜を変えていった。
「もうさ、せっかくの夏が台無しだよね」
陽菜はわざとらしく頬っぺたをガーゼの上から摩る。
「なんかさ、やっぱ陽菜だな。とか思ったよ、あたし」
「なんで?」
「だって、道路に飛び出した子供を助けて怪我するんだもん」
美智が笑う。
陽菜は笑いをやめた。
「あたしは……自分が死んでまで誰かを助けたりしないよ」
暑さを拒絶するような涼しげな声だった。
「そ、そういう意味で言ったんじゃ……」
国道から蝉の声が聞こえる。
陽菜は小さく旻天を仰いだ。
夏空から陽光がギラギラと二人を照らしつけていたが、流れる大きな雲がそれを遮って大きな影を落とすと風が冷たく感じた。
「お墓まいり行くの?」
「なんで?」
「もうすぐほら……命日だし」慶太の事だ。
「別にいつも行ってないし」
陽菜は再び髪の毛に手を触れると、指先で毛先をクルクルと巻く。再び降り注ぐ陽射しを浴びても、髪は不健康に渋く輝くだけだ。
「行ってないの?」
「美智は行ってるの?」
「うん……杉原も毎年行ってるよ」
「そう……」
陽菜は眩しそうに家並みを眺めて
「じゃぁ、なおさら大丈夫じゃん。あたしが行かなくても、みんなが行けばオーケーじゃん」
遠くを見つめながら笑った。空虚な笑み。
空回りするような、乾いた笑い。
「そう言う問題じゃ……」
「ごめん……まだちょっと疲れてるから」
陽菜は美智に向かって目を細めて笑う。
「う、うん。じゃあ、お大事に」
美智は困惑した笑みで陽菜を見つめると、右手を上げ『バイバイ』と胸元で小さく手を振った。
陽菜も小さく右手を上げて振る。最後にちょっとだけカラ元気な笑顔をおくる。
雑草の生い茂った門扉をくぐって歩いてゆく美智の後姿を、陽菜は少しだけ見送った。
短い襟足から伸びる細い首筋に、中学時代のままの彼女を感じて、少しだけ羨ましくなった。
鬱屈した思いが込み上げると同時に、きゅんと、胸が苦しくなる。