第1章―【6】
一日中家でゴロゴロしていた。
部屋でテレビを見て、本棚から掘り出したハチミツとクローバーを全巻読んで、それでも時間は有り余る。
少し、頬っぺたのキズがヒリヒリする。
「あぁ、退屈」
ベッドの上で、ゴロゴロと寝返りを繰り返す。
陽菜はピョンとベッドから起き上がると部屋を出た。台所に下りて、グラスに麦茶を注ぐ。
小学生の騒がしい声がした。学校が早く終わったらしく、初夏の陽射しがガラスに弾けるような笑い声が、吹き抜ける風のように裏手の路地を通り過ぎてゆく。
彼女は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出すと、大き目のグラスに注いで手に取った。
指先と手のひらに冷んやりとした冷たい雫の感触が沁みる。
「陽菜、陽菜」
声がした。
「慶太?」
麦茶の入ったグラスを、彼女はテーブルに置いた。
「そうか、三年も経ったって事は、陽菜は高校生なんだな」
「うん……」
「何処の高校に行ったんだ? お前頭いいから、成北か? 城南か?」
「う、ううん」
陽菜は麦茶の入ったグラスを再び手に取ると
「谷津高校だよ」
「谷津? 谷津かぁ……あそこ、派手な女多いから、お前浮いてないのか? 黒髪の方が少ねぇよな」
陽菜は茶色い艶を発する自分の髪を指先で撫でながら
「う、ううん……何とかやってるよ」
陽菜はリビングに移って、大きな窓から庭を眺めた。茎を伸ばしたライラックの周りには雑草が茂り、青葉の匂いがする。
母親は出かけているのか家の中に誰の気配もなく、留まった空気がしんと静まり返っていた。
小さな庭にある花壇に、マリーゴールドの花が陽射しをあびている。
「そうか。お前もケバくなってたりしてな」
慶太は小さく笑った。
まるでケータイで話ているようだ。違うのは声が頭の中に直接響いてくる事。
今気付いた。
彼の声は、耳の鼓膜を通して聞こえてくるのではない。もっと意識の奥深い所で、直接頭の中に響いてくる。だから、気絶して病院のベッドに寝ている時も、鮮明に声が届いたのだ。
「そんな……そんな事ないよ。あたしは……前と変わんないよ」
陽菜は髪に触れていた片手を離して、グラスの麦茶をグッと飲んだ。
「慶太は? あんたはいったい、今何処にいるの?」
「さあな。昨日も言ったけど、俺にもわかんねぇ。陽菜から遠い所なのか、すぐ近くなのか、判んないんだ。ただ声が届きそうな時って、お前の気配がすぐそこに在る気がする」
「そっか……でも……慶太は、今も中学生ってこと?」
「どうだろうな。死んだ人間は、その人を心に留めて生きている現世の人と一緒に年をとるって聞いたことが在るよ。昔、婆ちゃんから」
「心に留めて生きる人と一緒に?」
「お前も、俺を心に留めてる?」
彼は照れ隠しにハハッと笑う。
陽菜は再び麦茶を飲む。
「さあ、どうかしら」
フフッと笑った。
確かに、慶太の話し方は昔のままだけれど、年下になったという感じはない。
それはきっと、自分と共に年をとったからなのかもしれないと、陽菜は思った。
「あたしが思わなくても、慶太のご両親が心に留めてるよ」
「まぁ、そりゃそうだろうけどさ」
「ご両親とは? おばさんとは話ししたの?」
彼と話していると、どうしてだろう、昔の話し方になってしまう。
今よりももっと清楚で上品で粗雑さの欠片も無く、薄いガラスのように繊細な気持ちが蘇える。
夏の陽射しが庭を満たしている。緑の雑草が、門扉の両脇を青々と占領していた。日を追うごとに本格的な夏が足早に近づいて来る。
遠くから蝉の声が聞こえた。
「声が届くのは、お前だけ。陽菜だけなんだ」
「えっ? そうなの」
「妙だろ」慶太は再びハハッと笑う。
明るい笑い声。この世にいないとは思えない、無邪気な笑い声だった。
フフッと陽菜も思わず笑う「そうなんだ」
どうして自分には彼の声が聞こえるのだろう。
「少し休むから。またな」
「えっ、うん……」
家並みを越えて聞こえる蝉の声がいっそう激しくなった気がする。
「慶太? 慶太?」小さく呼んでみる。
慶太の声はもう聞こえなかった。
陽菜は自分の部屋に戻ると、床に立てかけた姿見を見つめた。
茶色い髪と両耳のピアス……慶太が知っているあの頃の由木陽菜はそこにはいなかった。
黒髪を伸ばして、体育の時には必ず二つ結びにお下げを作った。三つ編みなんて、もう二年以上した事も無い。
ベッドサイドの小さな鏡台に並んだマニュキア。無造作に置かれたファンデーションのケースとマスカラ。散乱したビューラーやシャドーブラシなどのメイク用具。
陽菜はベッドに腰掛けると、それらを眺めながら自分の茶色くてクルクルとよじれた髪の毛をぎゅっと掴んだ。
静かに溜息をつく。
部屋の空気が淀む気がした。