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こんとらくと・きりんぐ

雄牛の角は老司祭の腹をぶちぬいた(こんとらくと・きりんぐ)

作者: 実茂 譲

「残念ですが、閣下。現在の医学ではお嬢さんを治すことができません」

 ずんぐりした医者は国で一、二の医者で、大統領の水虫を治したことで国家功労勲章を受けたこともあったが、知事の八歳になる娘の命を助けることはできなかった。

「どうしてです!」知事はつかみかかって、医者の体を前後に揺さぶった。「昨日はすぐに快復するって言っていたじゃないか!」

「検査の結果、かなりの難病だと分かったのです。一億人にひとりの難病で、原因も分からないのです。お気の毒ですが」

 知事はハンマーで殴られたみたいにふらふらと医者から離れた。そして、ふらふらと市民病院から離れた。病院は教会のような支え壁や司祭館のような建物がある大聖堂に似ていたが、それもそのはずで以前は宗教団体の慈善病院だった。それを無神論者の知事が没収し、公的経営の市民病院に変えたのだ。

 町にはそんな建物がいくつもあった。市民学校。市民救貧院。市民食堂。

 宗教は特権階級が人民をだますための道具であり、教会は敵の総本山とさんざん攻撃した大聖堂似の市民病院を前に知事は膝を屈した。

 帽子を取った。

 ステンドグラスは無理やり作り変えて工具を手に額の汗をぬぐう〈模範的市民〉の絵姿にしたのだが、いま、彼が祈ったのは前の絵姿――女神に対してだった。

 それ以外、何に祈ったらよいのか分からなかったのだ。

「お願いします、女神さま。娘を助けてください」

 そう言うか言わないうちに、さっきの医者が市民病院の、高すぎて分厚すぎる、開きっぱなしの扉から飛び出してきて、知事に抱き着き、手に接吻した。

「奇跡です!」大統領の水虫を治した名医が叫んだ。「閣下の娘さんが持ち直したのです! 娘さんは助かりますよ! おめでとうございます!」



 大きなポスターには知事の署名入りで〈儀式ヲ禁ズル 違反者ハ禁固刑 逮捕ニ抵抗スレバ射殺〉とあった。

 そのポスターは殺し屋が狙撃銃で狙う三階建ての建物に貼りつけてあった。

 そもそも、このポスターはどこにでも貼りつけてあった。

 カフェ。地元料理屋。書籍商。繕いもの屋。家畜用の囲い。闘牛場。

 殺し屋が依頼されたのは何年も州当局の目をかいくぐっているシスターの暗殺だった。一か月ほど、あちこちまわった末に、ようやくシスターと隠れ信徒たちが葡萄酒とパンの儀式をする場所を突き止めた。

 州警察やそのタレコミ屋が何年も探しても見つけられなかったシスターがなぜ殺し屋に見つけられたのかは簡単で、殺し屋はショートヘアの少女、または長髪の少年にしか見えなかったので、隠れ信徒はまさか相手が殺し屋と知らず、秘密儀式の場所を口を滑らせてしまったのだ。

 その結果、儀式は三階建ての二階にある造花倉庫であることが分かったのだ。

 これはなかなかの作戦だった。

 というのも、造花倉庫のある建物の一階は警察の分署だったからだ。

 警官たちはまさか自分の頭上で神を信じるものたちが集まって、儀式をしているとは考えもしなかったようだ。

 それに信徒たちの儀式が神秘主義者の儀式なら早晩彼らは捕まって、銃殺刑の壁に並んだことだろう。なにせ神秘主義者は麻薬モドキを飲み込んで、ギャアギャアわめきながら、ぐるぐるまわって精神的にも肉体的にもメロメロになった瞬間、神さま的な存在に触れられると信じていたからだ。

 だが、ここの信徒たちはそんなことは邪教だ、異端だと蔑み、葡萄酒とパンをこそこそ食べるネズミみたいな儀式で満足していた。

 警官隊は知事が殺し屋を雇ったことを知っていた。独自に調査をして、新聞用パルプ工場の倉庫が怪しいと睨んだ。

 そんなトラックの出入りの激しいところなんて隠れるには最悪だったが、警官たちは割と本気で信じていて機関銃まで持ち出して、あのシスターをエンチラーダにしてやると勢い込んでいた。

 殺し屋は警官たちを「なんて素晴らしい洞察力だろう!」と持ち上げた。商売敵が――それも警察が間違った手掛かりに固執するのは見ていて気分の良いものだ。福利厚生のひとつと言っても大げさではない。

 殺し屋の照準鏡には倉庫の窓の奥、シスターの額をぴたりととらえている。

 蝋でつくったバラに囲まれたシスターが信徒へちぎったパンを与えていた。美しい女性で、その美しさは白と黒の法衣でも隠せないくらいだった。

 信徒たちの何人かは信仰以外の目的でここにいるのかもしれないな、と思うが、そのシスターはガンベルトを左肩から斜にかけていた。その弾はみなライフル弾で、ホルスターに入っている銃はライフル弾を使用するかなり強力な六連発銃だった。

 いま話していることも、表情の穏やかさとは正反対のことを唱えているのかもしれない。

 不信心者は焼き尽くせとか、蛮族に慈悲を見せるなとか、知事と警官たちを殺してもそれは罪とならずむしろ天国への道であるとか。

 殺し屋はこれまで依頼人として標的として狂信者とかかわったことがあったが、六割が目のぎらついた分かりやすい狂人で、残り四割はこのシスターのような穏やかな表情をしていた。そして、狂信の度合いは穏やかな連中のほうがひどい。人間として取り返しのつかないところまで行っていた。

 これはむしろ世界の善の総量を増やす、いい暗殺なのかもしれないな、と思いながら、殺し屋は引き金を絞った。

「ちょっと待った!」

「うわっ!」

 狙撃の最中に後ろから声をかけられると、殺したいほどむかつくものだが、そこにいたのが、知事の補佐官――殺し屋との交渉を一切任されていた執事みたいな男だった。

「いま、すごく大事なところなんですけど」

 殺し屋はジトッとした目を補佐官に向けた。

「だから、急いで止めたんです。仕事はなしになりました」

「……は?」

「ですから、シスターを殺害してほしいという仕事はなしになったのです」

「なんで?」

「知事が神の愛に目覚めました」

「……は?」

「ですから、神を信じることにしたのです。いえ、それどころかこの州を我が国で最も神を信じる州にすることにしたのです」

「えーと、あなたのいう知事っていうのは、平均年齢六十歳以上の司祭たちに真っ赤なポンチョを着せて、闘牛場に放り込んだ、あの知事と同一人物ですか?」

「はい」

「分かりませんね。どうして急に?」

「奇跡が起きた。そう閣下はおっしゃっています」

「前金と経費は返さないし、こっちは後は人差し指一本のところまでいったんですから、後金の七割は請求しますよ」

 補佐官はその後金が入っている封筒を殺し屋の手にポンと置いた。

「十割ちゃんと入っています。それにわたしは大幅な昇給をしてもらいました。もう、言いますが、閣下ほどしみったれた人物をわたしは知りませんが、そのわたしでも、今日の知事の気前良さには何か恐ろしいものを感じますよ」



 列車は七両、どれも薄汚れて鉄道会社から払い下げられた客車で、なかにはリピーター・ライフルと山刀で武装した政府軍兵士たちが乗っていて、彼らの知事を讃える歌を歌っていた。その客車の上には兵士たちの妻と子どもと内縁の妻と隠し子が乗っていた。女たちは石臼でトウモロコシ粉を挽きながら、子どもたちが列車から落ちないよう、胴に結んだ紐をときどき引っぱった。

 この七両の家族連れを黒い鋼の機関車が一台で曳いていた。ドラゴンのしゃっくりみたいな音をたてながら、機関車は平野から上り坂へのろのろと入った。

 地形が谷へと落ち込んでいて、線路はその深みに沿って続いていた。渇いた谷底からハゲワシが飛び立つと、列車の窓から一発の銃声がして、ハゲワシは首を仰け反らせ、そのまま後ろに宙返りをするみたいにして、まっすぐ谷底に落ちていった。

 シスターはその様子を線路とは谷を挟んだ岩盤の上で見ていた。ガンベルトを肩から斜にかけていて、双眼鏡で列車を追いながら、左手を箱型起爆装置の押し込みレバーに乗せていた。

 目印になるサボテンの前へ機関車が進むと、レバーを押しこんだ。

 爆発が起き、機関車が歪んで右へと――谷のほうへと横転した。

 機関車が客車を引きずり込もうとし、客車はそれに巻き込まれまいとしているようだが、レールのほうが曲がってしまい、客車は次々と脱線した。

 客車は女と子どもをまき散らしながら、凄まじい轟音を鳴らして谷底へ叩きつけられた。

「無神論者のみなさん。これは天から下された罰です」

 シスターはそっとつぶやくと、すすり泣きに満ちた谷底へダイナマイトを投げた。

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― 新着の感想 ―
無神論者だからか、政府軍だからなのか、それにしても改心入信に導く方向が宗教の正しいありかたですからまともじゃないです。で、どっちかというと宗教に殺される人よりは騙されてて呆然ぐらいが見てて楽しいと思う…
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