ザッカーモンド公 カイル王子Side
キャァ!
何だ!?
下を向いてふらつく俺の耳に周囲の叫び声が聞こえた。
悔し涙をこらえている俺の目に、エミリーが見えた。
顔を上げると、俺の目にエミリーが走ってくる姿が見えたのだ。
いや、違う。
赤毛でエメラルドの瞳の女の子が走ってきている。
小さなエミリー?
褐色の瞳の男の子もいる。あれはオークスドンの子供の頃か……?
ダークブロンドの髪に青い瞳の女の子も走ってくる。イザベルなのか?
3人がテントの中に駆け込んできて、ロジャー叔父に突進するようにぶつかった。叔父は手に持っていたグラスの酒を反動で全部顔にかぶった。
「うわっ!」
声をあげたロジャー叔父は、顔から被った酒にしかめっつらになって、ポケットからハンカチを取り出して拭こうとしたが、イザベルがオズオズと差し出したハンカチをにっこりとして受け取り、顔を拭いた。
「君たち、はしゃぐのはいい加減にしたまえ!」
ロジャー叔父はそう言うと、涙を浮かべている俺の顔をチラッと見て、隣に立つ愛人と共にテントを出ていった。
しばらく歩いていた叔父が、ウィントー・パレスの庭園の地面に崩れ落ちるのが見えた。
えっ!?
俺は驚いて目を見張った。
パース子爵が驚いたように叔父に駆け寄るのが見えた。だが、子供の2人が呼び止めた。ダークブロンドの髪の女の子と赤毛の女の子のだ。
どうなっている?
パース子爵が後ずさるのが見えた。
パース子爵は一瞬だけ、俺の顔を見た。彼は俺が驚いた表情で見つめ返すのを、チラッと見ただけだ。
ミソサザイがすーっと俺の前を勢いよく飛んで行き、3人の子供が俺の方を見つめたのを俺は見た。
ハッとして目を開けると、俺は隠れ家のベッドの中で寝ていた。
見渡すと、エミリーの姿が見えない。
ガバッと起き上がった俺は、隣の部屋に駆け込んだ。だが、どこにもエミリーはいなかった。
エミリーが消えた?
まさか?
寝ている間に見た過去の世界は、実にリアルだった。
誰かがドンドンと鉄の扉を叩く音がして、驚いた俺は、飛び上がりそうになった。
そっと扉に近づいた俺は、頑丈な鉄の扉に耳をくっつけた。
「カイル、無事か?俺だ、カーダイアだ。ハット子爵令嬢のジーンがここにいると思うと言うんだ」
くぐもった声で、カーダイアの声が聞こえた。
俺は思い切って急いで扉を開けた。
目の前には、青ざめた表情のカーダイアと、その後ろに心配そうな顔をしたハット子爵令嬢ジーンが立っていた。
「エミリーは?」
「エミリーは見つかりました?」
2人同時に叫ぶように俺に聞いてきた。
「あぁ、さっきまで一緒にいたが、少し眠ってしまって起きたらもう、エミリーがいなかったんだ」
俺は2人に力無く言った。
「結婚の申し込みをしたんだ。結婚の約束をした」
俺はカーダイアに言った。その言葉を聞いたジーンはハッとして胸を抑えて、一瞬嬉しそうな表情になった。
「誰かがここに踏み込んで来たと言うより、エミリーは自分でここの扉を開けて外に出たんだと思う。中は安全だから」
俺はボソボソと言った。
俺から去った?
そんなバカな……?
俺はクラリッサがエミリーだと悟ったことを2人には黙っていた。
そんな話は誰にも言えない。頭がおかしいと思われるのがオチだ。
「カイルとの結婚が嫌で逃げた?」
カーダイアが口走り、思わず自分で口を塞いだ。
スパイのくせに、本当に迂闊なやつだ!
俺はすごい目でカーダイアを睨んだ。
「皆さん、お揃いですね」
ジーンの後ろから涼やかな声がして、イザベルとオークスドン子爵が姿を現した。
さっきの現場にいた2人だ。子供の彼らが、確かに俺の見た過去の夢の中では大活躍をしていた。
俺は2人をじっと見つめた。イザベル・トスチャーナとルーシャス・オークスドン子爵はそっと2人ともうなずいて合図をした。
では、やはりあれは夢ではないのか。
俺たちが馬車に乗ろうと外に出ると、街の人々が口々に囁くのが聞こえた。
「ザッカーモンド公もお気の毒に」
「あぁ、長らく伏せっていたからなぁ」
「もう10年も闘病生活だったんだから、頑張った方じゃないか?」
「葬式は国葬だよな?」
なに?
ザッカーモンド公の葬式?
闘病生活……?
イザベルとオークスドン子爵も顔を見合わせている。
「そうだ、カイル。ロジャー叔父上が亡くなったらしいぞ。エミリは通り魔的な者に襲われたんだろうな。しっかし、よくこんな隠れ家をカイルは知っていたな。王子ってやっぱりすごいんだな……」
カーダイアがそっとささやいた。俺はガーダイアの顔を見つめた。
通りに馬車が新たに停まり、ルーニーが飛び出してきて、こちらに転がるように駆けてきた。
「王子!」
彼は慌てた様子でやってきて、ぐっと身を近づけてきた。
「ザッカーモンド公はお隠れになられたとのことです!」
耳打ちされて、ルーニーの顔を見つめた。ルーニーは生真面目な顔で俺を見つめていた。
「ジュディスとは……?」
その途端、ルーニーは真っ赤になり、俺を叱るように言った。
「こんな時にわたくしの恋愛などにかまっている場合ではございませんっ!即刻お戻りになるようにとエイドリアンに言われております」
ルーニーはキッパリと言った。
となると、ジュディスとルーニーの恋は存在しているようだ。
変わったのは、ロジャー叔父上だけだろうか?
「母も視察についてきてくれていました。エミリーの言葉が大変勉強になったと言っていましたのに、エミリはーどこに行ってしまったのでしょう?」
ジーンはエミリーを気遣って、顔を曇らせていた。そこにそっとオークスドン子爵が寄り添っていた。
母も視察についてきた?
どういう意味だ……?
あぁ、クラリッサは生き残っているということだな!?
俺は安堵したと共に、クラリッサはハット子爵夫人に戻ったのだと思い、悲しくなった。
胸が締め付けられた。
あぁ、生き残ってくれた。
だが、遠く俺からは離れてしまったのか……。
クラリッサ、俺は君とは会えないな……。
メイドのエミリーは、どこかに姿を消した。ハット子爵夫人クラリッサは生き残ってこの世に生きていてくれるようだ。
クラリッサは、元の場所に戻れたと言うことになる。俺は喜ぶべきだ……。
俺はもう感慨深いような、悲しいような、どうしたら良いのか分からない感情に襲われてうろたえた。
「大丈夫か?カイル?」
カーダイアがそっとささやいた。
「前の記憶があるか?」
俺はカーダイアにささやいた。彼は俺を見つめ返した。
「ある」
彼はささやいた。
「俺の記憶は2つある。ハット子爵夫人はカイルの身代わりで亡くなった。だが、同時に、ザッカーモンド公が心臓病で倒れた記憶の2つだ。なぜか、2人の出来事は同じ場所で起きた」
俺は安堵して、彼を抱きしめた。
「カイル、ハット子爵夫人に会ってみよう」
ガーダイアはささやいた。そして、イザベルに合図をした。
「イザベル、ちょっとこっちの馬車に乗ってくれ」
ガーダイアの言葉に、イザベルはうなずいた。
イザベルの行動からすると、黒幕はザッカーモンド公だったと言うことだろうか?
俺は、永遠にクラリッサとは関われない運命だったと思うしかない。
俺も死なずに、クラリッサも死なずにすんだ。
俺は寂しさでいっぱいになった。予想はついていたものの、心にこたえた。
言いようのない悲しみに襲われる。
だが、一方で、37歳になったクラリッサに会えるのだ。ハット子爵夫人として生きていてくれているのなら、よかったではないか。
もう一度クラリッサに会ってみよう。
クラリッサの記憶はどうなっているのか。
すっかり雨が止んで晴れ間が見えてきたピットチェスターの街で、俺は『ブロン通り』という看板の上にミソサザイがいるのを見つめて、3年後の処刑ルートも消えてくれたのだろうかと思った。




