振り出しの日 カイル王子Side
目の前にいるのはクラリッサなのか?
死んだはずのクラリッサが、どういうわけか、エミリーとして存在している?
俺がおかしくなったのだろうか。
そんなことあり得るはずがないのに。
「クラリッサ、愛している」
俺はささやいた。
「私もよ、愛しているわ。カイル」
エミリーはつぶやいて目を閉じたまま涙を流した。眠っているのに泣いている。
俺はたまらず、眠っているエミリーの唇にそっと口付けをした。
桜色の唇。
燃えるような赤い髪。
見た目は全然違うのに、君はクラリッサなの?
思わず彼女の指に自分の指をそっと絡めた。もう一度口付けをした。
心に願った。
もう一度、あの日に戻りたい。
18歳の自分が17歳のクラリッサを振るあの日だ。
俺は声を殺して泣きながら、強く心で念じた。
ふと、風を感じた。
目を開けると、目の前には太陽の光に照らされて、輝くようなブロンドの髪を風に靡かせて笑っているクラリッサがいた。彼女は木陰に移動して、俺を振り返った。
木漏れ日がチラチラ当たるように陽がクラリッサの髪にあたっている。振り返って俺を見つめる彼女は、青い瞳を煌めかせて俺を見つめている。
息が止まりそうだ。
目の前にいるのは、17歳のクラリッサだ。純真無垢なクラリッサが微笑んで俺を見ている。
振り出しの最初。
俺はここで間違えた。
あの、輝くような日に、俺が誤って終止符を打った日。
俺はハッと心を奪われるような、なんとも言えないような感動を覚えて、彼女を見つめた。
「綺麗よ、カイル」
クラリッサが指差す先にローデクシャーの森の谷が広がっている。一面に広がる黄色い花の咲く野を見渡す谷の上で、黄金色に丘が染められていた。
記憶の中より、断然美しい景色が目の前に豊かに広がっていて、俺は息を飲んだ。
クラリッサが生きている……!
そう。
これは、間違いなくあの日だ。
俺がとんでもない失言をしてクラリッサを失意に陥れる間違いを犯した日。
若い2人の幸せに終止符を打った日。
大きな木の下に並んで佇むクラリッサと俺。
少し離れた所に従者や侍女たちが、若い俺たちを見守っている。
この日を境に、2度と俺とクラリッサが一緒にデートをする日は来ない。
俺はそっとクラリッサに近寄り、彼女の両頬を包んで、彼女の唇にキスをした。
クラリッサが、俺を命を投げ出すほど俺の事を愛していたと、俺は知っているのだ。
この時は気づかなかった事実を、今の俺は知っている。
あぁっ
クラリッサは驚いたように目を見開いたが、すぐにうっとりとした表情になって俺を見つめた。
こんな表情をするのか……!
何とも言えない泣きたいような感情に揺さぶられて、17歳のクラリッサを静かに抱きしめた。
生きていてくれてありがとう。
どうか、死なないでくれ。
「約束してくれる?」
俺はクラリッサを見つめてささやいた。
人生を戻すことはできない。
でも、選択肢を変えて欲しい。
娘のジーンに出会う未来を彼女から奪いたくない。
俺にできることは、17歳のクラリッサに告げるだけだ。彼女を愛しているのだ。彼女には命を失ってほしくない。
「今から10年後に開催されるはずの、ウィントー・パレスで行われるエロルーラ伯爵のウェディング・ブレックファーストに、出席しないで欲しい」
クラリッサは意表を突かれたような顔をして、俺の言葉の意味が分からないと言った様子だ。
「君を愛しているんだ。いい?愛している」
クラリッサは愛に溢れた瞳で俺を見つめる。
「君を愛している。だから、君とは結婚できない。俺を信じて欲しい。君は素敵な人と出会ってこれから幸せになれる。君は幸せになるんだ。そして、何があっても、10年後に行われるエロルーラ伯爵のウェディング・ブレックファーストに出席しちゃだめだ」
彼女は青い瞳を見開き、驚いた表情になり、みるみるうちに瞳に涙を溢れさせた。震えながら俺の顔を見つめている。
「カイル、私を愛しているとおっしゃいましたか?」
17歳のクラリッサは、涙を溢れさせて震えていた。
「あぁ、愛している。死ぬほど愛しているんだ。だから、君とは結婚できない。君には幸せになって欲しいから」
俺はたまらず、彼女の唇に熱烈に口付けをした。
あぁ……っ。
彼女が声にならない声をあげて悶えた。
「ごめん……つい……」
俺は謝った。クラリッサは、俺を抱き寄せて、自分から口付けをしてきた。そして俺の胸の中に飛び込んだ。
「お願い。私と結婚してください」
俺の胸に抱きつき、俺の顔を見上げて泣きながらクラリッサが言った。
俺の胸は締め付けられた。
だめだ。
一度選んだ人生をそんなに簡単には変えられないはずだ。何より、ジーンの存在を消したくない。
俺が愛するクラリッサに願う究極の望みは一つだ。
幸せになって生き続けて欲しい。
それだけだ。
俺のことはおいておこう。
俺は自分の運命に彼女を巻き込んではならない。
「クラリッサ。愛している。だが、君が生き続けてくれたら嬉しいという愛なんだ。幸せになって欲しい。俺は君と結婚はできない」
俺たちは2人で泣きながら抱き合った。何度も口付けをかわした。
遠くから、従者と侍女がオロオロしながら見守っているのが分かる。
俺は泣き続けるクラリッサの手をしっかり握り、手を引いて馬車まで戻った。俺の記憶の中にいるクラリッサより、ずっと彼女は純情で可愛らしかった。俺は二度とその手を離したくないという思いでいっぱいだった。馬車の中でもずっと繋いでいた。
「いいね?約束だよ。10年後に開催されるウィントー・パレスで行われるエロルーラ伯爵のウェディング・ブレックファーストには何があっても出席しちゃだめだ」
涙に濡れた瞳でクラリッサは俺を見つめた。俺はクラリッサをしっかりと抱きしめた。
彼女の手を離したくない。
これが見納めなんて、悲しすぎる。
でも、いつまでこの時間に俺がいれるのか分からない。
ふと気づいた次の瞬間、興奮した人々の話す声やグラスの音に気づいた。目を開けると、テントの中にいて、口元に酒のグラスを持って行っていた。反射的に一口飲んでしまった。
その瞬間、気づいた。
これは、エロルーラ伯爵のウェディング・ブレックファーストだ!
そうか。
あの瞬間だ。
クラリッサは来なかったんだな。
俺は一口飲んだにも関わらず、安堵の気持ちでいっぱいになった。
俺の死が確定したようだ。
生き延びても、結局13年後には処刑台に送られて殺されたんだ。この完璧な暗殺計画は、今回は成功したようだ。
俺の目の前をミソサザイが羽ばたいて飛んだ。それを目で追った視線の先には、ロジャー叔父が笑って俺を見つめていた。叔父はグラスを上にわずかにあげて、乾杯の合図をしてきた。
お前が殺そうとしたんだろ?
俺はそう思って叔父を見た。
強い酒だ。
くらっときた。
酒に思えるが、この中に何の毒物が入っているのだろう。味は全然おかしくない。
だが、酔いが回るのがやたら早い。たった一口飲んだだけなのに。
俺は震える手で、残りの酒の入ったグラスをテーブルに置いた。
さりげなく、ロジャー叔父に微笑む。
俺は死ぬんだな……。
俺は諦めの気持ちになった。
ここで俺が酒を飲んだということは、クラリッサは無事だということだ。
俺は目を瞑った。
思い残すことばかりだが、仕方ない。
クラリッサが無事なら、それは俺にとっては最高だ。
泣きたくなったが、歯を食いしばった。




