挙式と、そこから3ヶ月前のメイドのエミリーSide
大国ネメシアの隣にあるボーデランドは、貴族社会だ。
1987年の今、私はボーデランドの未来の国王であるカイル王子との挙式に挑んでいる。メイドの身分でありながらだ。
私の心臓はかつてないほどドキドキと鼓動を打っていた。ヴィクトリア女王の治める大繁栄を遂げるイングランドから少し距離がある世界で、とんでもない身分差の結婚式が行われていた。
国王は厳粛な面持ちながらも、優しい笑顔で私とカイル王子を見守っている。カイル王子の花嫁に最も相応しいと議会や世論を説得したのは、何を隠そうこの国王だった。民の世論の先陣を切って、身分差の結婚を実現しようと尽力された。
私の魔力が国益に叶うこと、これからの世は身分で超えられない壁の存在を取っ払うべきだと、王国の民を説得したのだ。
私は美人でもない。
スタイルも良くない。
少し太っているぐらいだ。
生まれも貧しい。
王子の服飾デザイナーを務めるが、その前は子爵家のメイドだった。
「愛しているんだ。君がどんなでも、俺は君を愛すよ、クラリッサ」
カイル王子が耳元でそっと囁いた。彼の青い瞳は最初に私を振った時とは打って違って煌めき、私を期待を込めて見つめている。
このハンサムな彼が私の20歳年上の38歳。私は18歳のメイドだ。出会ってすぐの電撃婚と思われているが、私たちの間には実は20年前に遡るドラマがあった。
「エミリー・ノース。いかなる時もカイル王子を愛すことを誓いますか?」
司祭が今の私の名前で誓いの言葉を言っている。
「誓います」
私は力強く答えた。
これは、私と彼の誰にも言えない秘密のラブストーリーだ。
経緯は3ヶ月前に遡る。
◆◆◆
まずは、私ではない本物のエミリー・ノースが子爵夫人である貴族の奥方の私になるところからスタートする。2話進むと、私であるクラリッサの話になる。
*〜本物のエミリーSide〜*
「ジーン様っ!」
私は走った。太った体をゆすって。
どんどん走った。
お嬢様のお店までは、結構な距離がある。まず屋敷の玄関から出て、広大な庭を突っ切らなければならない。
夕暮れ時の美しく赤く染まった空は、私の興奮した心を表しているかのように、どこまでも魔法がかかったかのように煌めいていた。
私は18歳のエミリー・ノース。ハット子爵家のメイドだ。子供の頃にメイドとして引き取られて以来、お嬢様と一緒に過ごしてきた。
お嬢様の丸みを帯びた頬と輝くような青い瞳、ゆるくカーブした艶やかな褐色の髪を頭に思い浮かべて、私は思わず笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。
息が切れる。
はあはあと荒い息を吐きながら、長いスカートの裾をたくし上げて、走った。煌めく夕日の中で私の息はあがっていた。
綺麗に今朝まとめあげた私の赤毛の髪は、こんなに勢いよく走ってしまっては無惨に崩れてしまっただろう。でもかまやしない。
私の敬愛するお嬢様はこの時間帯は鳩郵便屋の方にいるはずだ。
お嬢様は私より1歳上だ。
地平線の向こうに沈む太陽はここからは見えない。広大な敷地の端には大きな石が積み上げられた壁が敷地内を囲み、その門の向こうにお嬢様の経営する2軒のお店があるのだ。その先には大きな街が広がる。
ハット子爵家はこの街一番の大金持ちの部類に入る。世界中に鉱山、ホテルやリゾート地を所有し、縫製工場も多数持っている。
ジーンお嬢様は大金持ちの女相続人だ。お母様はアメリカの大富豪の娘でいらした。子爵の家に嫁いで苦労されたお母様は、寄宿学校を退学になったこともある自由奔放なお母様だったらしい。
そのお母様がよくジーンお嬢様に言って聞かせていたらしい。
「ジーン、あなたは好きに自由に生きていいのよ」
そのためかどうか、ジーンお嬢様は広大な敷地の門の向こう側に、魔法の鳩郵便屋をオープンさせた。さらにその隣に仕立て屋もオープンさせた。
私は貧しい家の娘だが、子供の頃に旦那様に拾ってもらった。ハット子爵家に勤めてもう7年になる18歳の明度だ。
祖母が亡くなり、孤児同然になってしまったところを引き取られた。読み書きもお嬢様が教えてくれた。縫製もだ。
はるか遠くの庭先から転がるようにして走っていく私にお嬢様がどうしていつも気づくのか分からない。しかし、いつもお嬢様は2つの店の奥にそれぞれ備え付けられた二重の門を開けて、タイミングよく門からこちらに姿を見せてくれる。
今もだ。
鳩郵便局の方からジーンお嬢様が姿を現した。
「ジーン様っ!」
私は手を振りながら、息を切らして走る。きっと私のグリーンの瞳には涙が溢れているだろう。
風が冷たいから。
いや、冷たい風のせいだけではない。
ハット子爵邸の美しく手入れされた庭を走りながら、私が考えているのは、お嬢様に来た縁談の話のことだ。庭師のフランクが勢いよく走って行く私を見て驚いた顔をした。
ついに。
ついにだ。
ついにこの日が来た!
7軒隣に店を構えている代筆屋からの結婚の申し込みだ。
ルーシャス・オークスドン子爵からのジーンお嬢様への求婚の申し込みが、ハット子爵にされたのだ。
この話だけは、きっとお嬢様は断らないはず!
ジーンお嬢様とオークスドン子爵の間には、すでに恋が芽生えていると私は思っていた。いや、私だけでなく屋敷中の者がそう思っているだろう。ジーンお嬢様とオークスドン子爵が幸福な結婚生活を送る事を疑う者など一人もいないだろう。
ハンサムなオークスドン子爵は、街中で人気だった。代筆屋としての腕も高く、どんな依頼人の悩みも的確な言葉を紡いで依頼人の思いを代弁できると言う噂だった。
オークスドン子爵の書く手紙には魔法のような要素があり、どんなにささくれだった人の心も癒してくれると評判だった。
特筆すべきは、オークスドン子爵はここ1年半以上、平日は毎日、お嬢様の鳩郵便屋を訪れては、自身が書いた手紙をお嬢様の鳩に配達してもらっていることだ。
つまり、お嬢様と毎日は顔を付き合わせていることになる。ここ半年ほどは土日も一緒に行動することがあった。なんでも近隣の街で起きた事件を解決しているらしい。
なんとお似合いな2人であることなんでしょう!
ジーンお嬢様とオークスドン子爵が2人で顔を見つめて微笑みあっている場面に遭遇したことが何度もある。
ついにお嬢様に春が来たのです!
自分の太った体を呪いながら、私は門から私の方に歩いてきているお嬢様に向かって手を振った。
「はあはあっお嬢様ぁ!今、旦那様のところにぃぃぃっ」
私はここで心臓が破裂するかもしれないと、ふと心配になり、走りを緩めた。もはや限界だ。これ以上は走れない。
よろよろ歩き、胸のあたりに手を当てて、息を吸ってはこうとする。
今度はお嬢様がこちらに向かって全力疾走をしてきた。
私が倒れると思ったのか、お嬢様が叫んでいる。
「エミリーぃぃ!」
私は令嬢でもなんでもないただのハット子爵家のメイドだ。だから、コルセットなぞつけていない。それなのに、何かに体が締め付けられたように痛んで、思わずふらついた。
芝の上に倒れ込む瞬間に、お嬢様に抱き止められた。
「お嬢様っ!先ほど、旦那様のところにオークスドン子爵が結婚のお許しを請いにいらして…」
その先は言葉が出なかった。私は倒れて気を失った。あたりが真っ暗になったから。