幸せ カイル王子Side
エミリーのグリーンの瞳が期待に煌めき、俺の目をのぞきこんでいる。
俺が婚約破棄をしたことが4回あるという噂は嘘だ。実際は一度もない。クラリッサの時は、確かに雰囲気的に婚約が成立しそうだったが、彼女が貴族ではないと横槍が入り、愚かにも俺が彼女に別れを告げてしまった。
正式に交際を申し込んだことも一度もなかった。女性と遊ぶというのが嫌いだ。つまり、付き合うなら真剣交際しかありえないタイプなのに、クラリッサに失恋して以来、一度も人を愛したことがなかった。
心を動かされなかったのだ。これではいけないと思うものの、誰にもときめかなった。
イザベルのように積極的に俺にアプローチを仕掛けてくる女性は数え切れないほどいた。だが、その全てにうんざりさせられた。
「エミリー、こんな私でも付き合ってもらえるだろうか」
自分で言って驚いたが、生まれて初めて言った言葉だ。心臓が破裂しそうにドキドキしたが、エミリーにあっさりと承諾されて、心がとても高揚した。
俺はエミリーの手をそっと握った。荒れた手だ。労働者の手だ。
それでも俺には愛おしく思えた。
「大人の付き合いと思って良いのだろうか。その……君はまだ若い。だが、私は38歳だ」
どこまでの交際かをはっきりさせておくべきだ、と思った。初めてのことだ。彼女の承諾した範囲を間違えてはならない。
エミリーは驚いた表情を一瞬したが、目を伏せて恥ずかしそうに囁いた。
「大人のお付き合いをさせていただきたいと思います。全てを捧げますわ」
言葉と恥ずかしそうな態度が一致しない。随分と大胆な発言だ。メイドというのはこれほどはっきりとものを言うものなのだろうか。
うわっ!
ドキドキする。
「お……大人の付き合いだね。ありがとう」
俺はしどろもどろになってしまった。自分で確認しようとしたのに、期待を上回る回答がすぐに次々とされるので、面食らってしまう。
頬を上気させたエミリーは美しかった。赤毛が縁取る額にキスをしてしまいそうだった。
いや、俺がキスをしたいのはふっくらとした唇だ。
うわっ、こんなことを考えるのは初めてだ。
俺は遅れてやってきた青春の感情にドギマギしっぱなしだった。食事が終わると、俺は彼女をコテージのピアノの前に案内した。俺がピアノを演奏し始めると、エミリーが歌い出した。
僕が令嬢にピアノを弾いて聴かせたのは、ほんの数回しかない。宮廷の集まりの時に特定の令嬢に聞かせたのではなく、出席者全員に向けて弾いた時が2回、クラリッサに1回だ。
今までは誰も一緒には歌わなかった。だが、エミリーはすぐに歌い出したのだ。
そのまま演奏が終わると、俺はエミリーのそばに立ち、なぜそうなったのかはよく分からないが、彼女の腰に手を回し、抱き寄せて口づけをした。
エミリーは避けなかった。しっかりと俺の背中に手を回して口づけにこたえたのだ。
俺のファーストキスだった。
とてつもなく甘く、気が遠くなるほど気持ちが良かった。
キスとはこれほどとろけるものだったのか!
知らなかった。
俺は女性とのこれほどの親密な関係は初めてだった。エミリーが愛おしくてたまらない。クラリッサを彷彿させる女性として気になった彼女だが、なぜか、そばにいるととても心惹かれた。
自分のみっともない失恋の話ができたのも大きい。胸のわだかまりがとけたように、気持ちがスッキリとした。
俺は初めての甘い雰囲気にクラクラした。
エミリーは顔を真っ赤にさせていていた。瞳はとろけるようなとろんとした瞳で、キスの後は俺に抱きよせられたまま、俺の顔を見上げていた。
彼女がこれほど魅力的とは……。
俺は花嫁にしようと決意したことを思い、いつ頃結婚式を挙げるのかを考えようと思った。
彼女にプロポーズをするのはいつにすべきだろうか。
だが、甘い雰囲気の私とエミリーにすぐに邪魔が入った。
コテージのドアをドンドンと叩く音がして、玄関で待ち受けていた従者がドアを開けて何かを話しているような音が聞こえた。
「大変ですっ!」
「どうした」
従者のニールの慌てふためく声で、俺は平常心に戻るよう、必死で自分を立て直そうとした。
「失礼いたします、カイル王子」
それは、裏社会のリーダーと呼ばれる男と、今晩の約束の時間を取り付けたというスパイからの緊急の連絡だった。暗号を書かれた紙を渡された。
確かに俺は処刑ルートを回避するために、彼からの連絡を最優先で取り次げと従者にはお願いしていた。
だが、今ではない。
もう少し、待てなかったのだろうか。
もっと待ってくれよ。
俺が女性とこんな雰囲気になったのは初めてだろう?
俺は従者のニールを忌まわしげに見たが、若い彼ははすました表情だった。22歳のニールには、まだ時間の猶予があるかもしれないが、俺はもう38歳だ!
38歳の俺がやっとファーストキスをしたタイミングを待てなかったのか?
さてはエイドリアンの差金か!?
俺が身分の低い女性にのめり込むのをあの爺さんは止めようとしているとか?
エイドリアンは昔から国王に仕えている従者だ。
俺はイライラとなぜ良いムードを邪魔してくれたのだと、当たり散らしたくなったが、エミリーが控え目な様子で見守ってくれているのに気づいて、フーッと息を吐いて深呼吸をした。
「わかった。もう下がってもよい」
ニールを下がらせて、俺は秋の紅葉が美しい庭を眺めた。
気を取り直して、エミリーのスケッチブックのデッサンを確認して、いくつかペンで印をつけた。
「これを仕立てて欲しい。費用については宮殿のこちらに請求して欲しい。サイズは先日測ってもらったもので大丈夫だろうか?」
俺は小さな名刺を渡した。
「わかりました。大丈夫です」
エミリーはにっこりと微笑んでくれた。
「明後日の午後は会えないだろうか。午後の1時に迎えに行けるのだが」
エミリーはぱあっと顔を輝かせた。それだけで俺の心は飛び上がるほど嬉しかった。素直な感情表現は、分かりやすくて安心できる。何せ俺は恋愛初体験だ。
「はい、大丈夫でございますわ」
「その、もしも何か動物から得た情報があるならば、遠慮なく鳩屋郵便局から連絡をして欲しい。会いに行くから。それから明後日は夜まで時間を欲しい」
自分でもとんでもなく恥ずかしいことを言った気がした。だが、彼女は一瞬の間があったが、にっこりと微笑んでうなずいてくれた。
「分かりました。大丈夫でございますわ」
心の中で「よしっ!」と叫んだ。
俺は初恋を拗らせたが、2回目の恋は明確に着々とステップを踏んで行くつもりだった。
目標はエミリーを俺の幸せな花嫁にして守ること。そして同時に処刑ルートを回避することだ。
忙しくなるぞ。




