令和夏夜奇譚
令和夏夜奇譚
そろそろ終わりにしようか、私はパソコンで作成していた書類を保存すると、大きく背伸びした。時計を見ると八時を過ぎている。
けっきょく今日も残業か、先にある会議の資料をまとめる為に、ここ数日は退社する時間がこのくらいになっていた。
すでに事務所内には私一人である。私はパソコンの共有ファイルで退社時刻を入力すると、パソコンやエアコンの電源を落とし退社する準備を始めた。
窓のブラインドを下した時、ちょうど会社の横を走る線路を、ゴォーという音を立て上りの電車が通り過ぎたところだった。
鞄を肩にかけ事務所の玄関に鍵をかけると、私は最寄りの駅まで歩き出した。
駅までは歩いて大体25分ほどの距離である。私は、いつもの様に事務所を出て一つ目の角を左に曲がった。
真っ直ぐ行けば明るい大通りに出るのだが、ぐるっと大回りになってしまう為、ここを曲がるのが私の常だった。とはいえ大雨等天候の悪い日や、体調が悪く歩くのがしんどい日には大通りまで出て、そこのバス停からバスに乗り駅まで行っていた。
バスは大通りを走り、バス停を五つ過ぎた先が終点の駅の西口となる。運賃は100円だった。歩いて駅まで行く時も途中の自販機でコーヒーを買ったりするので、バスを使った方が安かったりするのだが健康のためにも極力歩くように心掛けている。
この日も歩くつもりで角を曲がった途端、道は細くなり街灯も少なくなって辺りが暗くなる。しかし、もう何年もほぼ毎日歩く慣れた道である。私はコツコツと靴音を響かせながら、いつもの様に歩いていた。
少し歩くと住宅街が途切れるのと同時に街灯が無くなり、道の先が更に闇に包まれてくる。ここからしばらく田圃の中の一本道が続く。
そこを抜けるとまた、アパート等が立ち並ぶ住宅街に入り、そのまま線路沿いまで行き、線路の横を歩いて行くと駅に辿り着くのである。
慣れない頃は脇の田圃に落ちかけ慌てた事もあったので、しばらくは小型の懐中電灯で照らしながら歩いていたが、もう二年くらい前から懐中電灯は使わずに歩いていた。
この通りは車止めがあるので車が通らないのは勿論、朝の出勤時にたまに散歩している人に会うくらいで、夜のこの時間帯では、ここを歩き始めてから人に出会ったことはなかった。
ああ、そうだ。人には会わないが猫にはたまに出会っていた。茶トラの子猫で、とても人懐こい猫である。
初め、足にごそごそぶつかるものがあるので何だろうと足元を見ると、この茶トラの子猫がじゃれついていた。私が立ち止まると、子猫も止まり、私をじっと見上げる。私がしゃがんで子猫の頭や背中を撫でると、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らしていた。
それから、時々この帰り道で見かける度に撫でて可愛がっている。首輪をしていないので野良猫だろうと思うが、それにしては小奇麗な子猫だった。一か月位、姿を見ない時もあり心配したが、次に元気そうな姿を見た時にはほっとしたものだった。
そのように人も車も通らない道であるので、私は田圃に落ちないよう悠々と道の真ん中を歩くようにしている。
この日も当然、懐中電灯は使わずに道の真ん中をずんずんと歩いていた。
いつもより夜空に浮かぶ月が赤かったのと、やけに蒸し暑く生臭い嫌な感じの風が吹いていたのを憶えている。
私はシャツの上のボタンを外し、夕食は遅くなったから途中の乗換駅で済ましていこうかとか、明日の仕事の段取りを考えながら歩いていた。
その時、ふと違和感を感じ、あれっと思った。
いつもなら、どうしてこんな所に設置してあるんだろうと思うジュースの自動販売機のぼんやりした明かりが見える筈だが、それが見えない。
節電で照明を消しているのか、それとも故障でもしたのかと思ったが、夜空に浮かんでいた赤い月も見えなくなっていた。それも、月だけでなく星も一つも見えない。
不安に駆られた私は立ち止まり辺りを見回すと、いつもは遠くに見える筈の、臨海工業地帯の高い煙突から燃え上がる炎も確認できなかった。それどころか、辺り一面闇に覆われ見えるものは何もない。
それに、この時間なら近くを走る電車の音が上り下り合わせて必ず聞こえてくる筈だが、今日はそういえば歩き始めてから電車の音も聞いた記憶がなかった。
・・・どういうこと?・・・
何が起こっているのか分からなかったが、なにか尋常ではない事態に陥ってしまったという嫌な感覚があった。しかし、このまま立ち止まっていても何も解決しないという思いがある。
「なぁに、慌てることはないわ 」
私は強がりのように一人呟くと、また恐る恐る歩き出した。もう少し歩けばいつもの住宅街に出て普通に駅に着いて有り触れた日常に戻るはずだ。
私はなるべく普通に歩こうとしたが、つい先刻まではアスファルトの感覚がコツコツと靴を通して伝わってきたが、今はぶにょぶにょとした地面に足がめり込む妙な感覚に変わっていた。
何が起こっているのかさっぱり理解できない。冷たい汗が滲んでくる。
「ひぃぃぃーーーっ 」
ついに私は恥も外聞もなく悲鳴を上げて駆け出していた。ところが、まるで泥の中を走っているように地面が足に絡みついてくる。忽ちのうちに私は息切れし、膝に手を置いて立ち止まっていた。
・・・これはもう現実じゃない・・・
これだけ走って住宅街に出ないのはおかしい。さすがに私も闇雲に動くだけでなく、この異常な状況に向き合わなければと考えた。走ったからだけでなく、不安で心臓の鼓動が早くなる。
そして、色々考えた中で一番に浮かんだのは、すでに自分が死んでいてここは死後の世界の入り口ではないかという考えだった。
突然死というキーワードが頭の中でぐるぐるとまわる。いや、そんなことはないと、頭の中でもう一人の自分が否定する。会社の健康診断も異常なしだし、変な予兆があったという覚えもない。それに、自分が死んだなんて考えたくなかった。
次は、違う次元や世界に紛れ込んだという考えだ。これは有りそうだと思った。古来から”神隠し”と呼ばれ忽然と人の世から姿を消してしまう現象が各地の記録に残っているわけだし、バミューダトライアングル等の有名な例もある。
どうしたらそこから帰れるのか。私はそんな所から生還した話はなかったかと必死に頭の中の情報を探る。
その時、スマホという単語が頭に浮かんだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。私は急いで鞄からスマートフォンを取り出しスワイプしてロックを解除しナビアプリを起動する。
アプリは起動した。が、それは真っ暗な画面の中央に赤いカーソルが点滅しているだけだった。
・・・現在地が暗黒……・・・
私は通話ボタンをタップして母親に電話してみた。が、発信音もなにも聞こえない。メールもSNSもエラー表示されて接続出来ないようだった。検索ワードで”異次元””生還”などと入力してもエラーが出るばかりだ。
私はそのまま地面に手をついて、放心したようにスマートフォンの画面をぼんやりと見つめていた。
どれくらいそうしていただろう。私はふと我に返り腕時計を見た。会社を出たのが八時二十分。普通に歩いて八時五十五分の電車に乗れる予定だった。
今は、八時二十三分……。えっ……。
そんな馬鹿な、私の感覚ではさっきから相当の時間が経っている筈なのに……。私はまた腕時計を確認する。そして、よく見ると秒針が動いていなかった。
・・・時間が止まっている?・・・
そんな事はあり得ない。私の腕時計は自動巻きの機械式なのでゼンマイがきれたのか。ずっと腕につけていたのでゼンマイは巻かれている筈だが、私は腕を振ってみる。それでも、腕時計の秒針は動かなかった。
いや多分知らないうちに何処かにぶつけて、それで故障したんだろう。私は自分に言い聞かせたが、スマートフォンの画面が目に入る。その画面の時計も動いていなかった。
「あぁぁぁーーーーっ 」
私は絶叫していた。そういえば、この空間も変だ。私は今、自分が立っているのか横になっているのかさえ分からなくなっていた。
どんどんと不安と恐怖が大きくなり、息も荒くなる。そして、さらに鼓動が早くなっていった。
ドクッドクッドクッという心臓の音がやけに大きく耳につく。
・・・どうして ついさっきまで普通に歩いていた筈なのに・・・
それまでの日常が一気に一変した感じだった。
気が付くと、いつの間にか両足が膝のあたりまで地面らしきものに埋もれていた。下に落ちていくのか、逆に上に吸い上げられていくのか全然感覚がなく分からなかったが、このままでは自分が飲み込まれて消えてしまうという恐怖があった。死ぬではなく消えるという恐怖……。
私は両手両足に力を入れ、なんとか地面らしきものから足を抜くことが出来た。靴は両足とも地面の中に脱げてしまったが、そんな事を気にしている余裕はない。
私は這うように前に進み、ゆっくりと立ち上がり歩き出す。地面らしきものの感触は粘液質の柔らかい肉の上を歩いているようで非常に不快で気持ち悪く歩きづらい。それに歩く度にぐちょぐちょと嫌な音がする。
しかし、止まっているわけにはいかなかった。止まっていると、この地面に飲み込まれてしまいそうで怖かった。
この得体の知れない空間に何故私が入り込んでしまったのか分からないが、ここに迷い込んだ入り口が何処かにある筈だ。そこから逆に元の世界に戻れる筈……。そうだ、キングの小説でも異世界に迷い込んだ主人公が生還出来たじゃないか……。
私はそこに一縷の望みを託して歩き続けた。
しかし、案の定いくら歩き続けても、そんな出口は見つからなかった。辺り一面闇で覆われた空間で、何の目印もなく前と思われる方向へ歩いていた私は嫌な言葉を思い出した。
・・・リングワンダリング・・・
環状彷徨……。何の目標物も無い所を歩く時、人間は真っ直ぐ歩いているつもりでも必ず右か左にずれていくのである。そして、結局大きな円を描いて元の場所に戻ってきてしまう。山中で遭難して、同じところをぐるぐる回ってしまうのは、こういう事だった。
これを防ぐためには数人が手をつなぎ歩くという方法があるが、私一人ではどうする事も出来ない。
それでも歩き続けるしかない私は、ぐちょぐちょと嫌な音を立て泣きながら歩いていた。
「帰りたい…… 帰らせてください 」
私の口から言葉が零れ落ちる。いつもの様に駅に着き、改札抜けてホームに降りて、今日は座れるかな、なんて考えながら電車を待つ。そんな今まで当たり前だった日常を思い浮かべると、涙が止まらない。
もう、二度と帰れないかもしれない日常……。一度、溢れ出た涙は止まることをしらずどんどん溢れてくる。
私は、左手で涙を拭った。
「えっ…… 」
その時感じた違和感で私は左手を見る。
「ひやぁぁぁーーーっ 」
私は絶叫していた。私の左手が溶け始めていた。指の先はすでに骨が見えている。私は恐る恐る右手も見た。右手も左手同様溶け初めている。しかし、不思議と痛みはなかった。
足元を見ると、両足の靴下が妙なシルエットになっている。恐ろしくてスカートの裾を捲くってみる気にはならなかった。
・・・このまま私……・・・
恐怖のあまり私は思わず両手で顔を覆った。すると、顔から何かが、ぼとっと落ちる。続いて、黒い塊がまた…… 。ぼとっぼとっぼとっ……。
・・・何が落ちてるの……? ・・・
最初に落ちたものは何なのか怖くて想像できなかったが、後から落ちた黒い塊は、おそらく髪の毛の固まりだろう。両手も、もう骨だけになっていた。
鏡がなくて良かった。もし、目の前に鏡があり、それを見てしまったら、私は発狂していただろう。
・・・まだ私、生きてるの?・・・
こんな状態になっても歩けるし、涙も流れていた。いや、しかし…… 。
私はふと、いつの間にかドクッドクッと脈打っていた心臓の鼓動を感じなくなっていた。胸に手を当ててみる。すると、シャツの下に固い骨の感触があるばかりで、命の息吹を感じるものは無かった。
おそらく私は衣服を纏った骸骨のような状態なのだろう……。それでも自分が死んだ事を認めたくない意識が、その干からびた身体に縋り付いているのだろうか……。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ…… 」
「帰りたい、帰りたい、帰りたい…… 」
普通の身体だったなら私は号泣して泣き叫んでいたのだろう。でも、もう声も出なくなっていた。今、残っている意識もだんだんと霧のように霧散してしまうのだろうか。
まだ、やりたい事が沢山あるのに…… 。
呆然と立ち止まっていた私は、すでに首の辺りまで地面らしきものに埋もれてしまっていた。こんな暗闇で何も聞こえない中、たった一人で消えていくなんて……。
・・・私の運命って酷いものね・・・
もう考えるのも嫌になってきた、その時……。
「……にゃ………… 」
何か聞こえた。
それまで何も見えない聞こえない、この空間の中で確かに聞こえた。
「……にゃーっ 」
はっきり聞こえた。私は目を見開く。もっとも、目なんてものが私にまだあったとしてだが……。
私の目の前に茶色い塊がぼんやり見える。そして、それはだんだんとはっきりと見えてきた。
「とらちゃん? 」
それは、帰り道でたまに出会う茶トラの子猫だった。
・・・どうして、ここに?・・・
この子猫も迷い込んでしまったのか。私は自分以外の生き物がこの空間に居たことに嬉しさを感じたが、このままでは、この子猫まで死んでしまう。せめて、この小さな命は助けてあげたい。子猫の小さな身体なら、抜け穴みたいな通り道があるかもしれない。
私は埋もれた腕を、力を込めて振り上げて子猫を追い払おうとした。が、振ろうとした腕は消えていた……。
・・・はは…… ごめん……・・・
もう助けてあげることも出来ないよ。もちろん、追い払ったから抜け道から抜け出せるという理由ではないが、ここにいれば確実にこの世から消えてしまう。
最後に、いい事の一つも出来ないのか。こんな人間だから、こんな所で消滅していくんだろうな。
私は、すっかり自分の運命がもうすぐそこで途切れていると諦めていた。すると、子猫が私の顔の前に来ると、ぺろぺろと私の顔を舐め始めた。
・・・あったかい・・・
子猫のざらざらした舌の感触が堪らなく暖かかった。そして、それは生命の暖かさだと感じた。
・・・そうだ、私はまだ生きてる・・・
私は身体中に力が入るのを感じた。すると、下の方から子猫の鳴き声がする。下を向くと足元で子猫が私を見上げて鳴いていた。いつの間にか私は地面のようなものの上に立っていた。
私は子猫を撫でてあげようと無意識に腕を動かすと、消えたと思っていた私の腕が元に戻っている。それも骨ではなく私の本物の腕だ。念のため、恐る恐るスカートを捲ってみると、そこにも本物の私の足があった。
私は屈みこんで優しく子猫を抱き上げると頬擦りした。
「あなたのおかげ 」
この子猫が生きる力を与えてくれた。そして、ふと気付くと……。
「えっ…… 」
思わず声が出た。そこはいつもの見慣れた帰り道だった。突然異様な空間に放り込まれた時同様、突然元の懐かしい世界に帰ってきた。混乱して頭がついてこない私は、身体毎ぐるっと回り辺りを見回してみた。そこは間違いなく、いつもの帰り道だった。
・・・夢だったの・・・
今まで出来事が全て夢のように感じられるほど、それはいつもの普通の光景だった。しかし、足元を見ると地面の中に埋もれてしまった靴は無くなっており、現実に私の身に起こった事だと思われた。
そして、抱いていた子猫の顔を見ると、良かったねというように目をきゅっと細めた。
「あなたが助けてくれたのか、ありがとう 」
そういえば、猫には”破魔の力”があるという。私は子猫を地面におろすと頭や背中を撫でながら泣いていた。
近くの線路を走る電車の音が、ゴォーッと響き消えていく。何時もは煩く感じる電車の音も、この時は懐かしく嬉しい音に感じられた。
ホラーを書いてみましたが、救いのないラストは嫌だったのでこうなりました。