公爵令嬢の心は、
「貴女、主人であるわたくしの婚約者に色目を遣うだなんて、はしたないとは思わないのかしら?」
メイドの顎を扇で持ち上げながら、わたくしはそう言った。
メイド……たしか、ジニアという名前だったか……は、目の縁に涙を溜めながら、必死で首を横に振る。
「わ、わたしは、色目だなんて……っ」
「嘘をおっしゃい!ティナス様は、貴女から誘われたと仰っていましてよ!」
勢い良く扇を振りかぶれば、小柄なジニアはその場に倒れ込む。
怯えたように肩を震わせながら、それでもこちらを睨みつけてくる様子は、いかにも生意気だ。
結局、ジニアが素直に罪を認めるまで、わたくしは何度も彼女を打ち据えなければならなかった。
「も、申し訳、ございませんでした……」
「はじめから、そう言えば良かったのよ。……明日の朝までに、荷物を纏めて屋敷から出て行って頂戴」
「お嬢様、それは……!」
「この話は終わりよ」
ジニアは、まだ何か言いたげだったが、わたくしが睨みつけると部屋から出ていった。
それにしても、なんて腹立たしい。
数日前、ジニアとティナス様が口づけをしているのを見て、ティナス様を問い詰めると「あの娘から、無理に迫られて……油断した僕が悪かったんだ」と苦しげに告白してくれた。
ティナス様にあんなお顔をさせてしまうだなんて、もっときつく仕置きをしておくべきだったかもしれない。
(ティナス様は、いまも心を痛めていらっしゃらないかしら……?)
居ても立っても居られず、わたくしは馬小屋へと向かった。
馬の毛並みを整えていた御者のアルダートに、わたくしは声をかける。
「アルダート。悪いけれど、馬車を出してくれるかしら」
「今からですかい!?もう、だいぶ日が落ちておりますが……」
「お願いよ。どうしても、ティナス様にお会いしたいの」
そう言って、わたくしが頼み込むと、アルダートは苦笑する。
「なら、仕方ないですな」
「ありがとう、アルダート」
「お嬢様には敵いませんよ」
では急ぎましょう、とアルダートは馬を連れ、王宮まで馬車を走らせてくれたのだった。
***
王宮に到着したのは日暮れだったが、門前から灯されている明かりのおかげで、それほど暗さは感じなかった。
どの時間に訪れても、やはり王宮は美しいと、訪れるたびに思う。
工匠が技術の粋を集め、国中の財宝を使って建造された、造形美の極致。
わたくしも、そう遠くないうちにこの王宮に部屋を与えられ、やがては王太子妃、王妃として采配を振るうのだと思うと、誇らしさに胸が震えるようだった。
感慨に耽りながらも王宮内を探していると、ようやく庭園でその姿を見つけることができた。
薄闇でも煌めく髪は、さながら銀糸を思わせる。
薔薇を愛でる灰銀の瞳からは慈愛と知性が溢れ、その白皙端麗な横顔は、何度お会いしても見惚れてしまう。
わたくしがティナス様に声を掛けようとした、その時だった。
「ティナス様!」
甲高い声が、遮るようにティナス様の名前を呼ぶ。
服装からして、王宮の侍女だろう。
だが、いかにも馴れ馴れしい態度で、彼女はティナス様へとしなだれかかった。
「しばらくお会いできなくて、寂しかったですう。また婚約者の御機嫌取りに行かれてたんですか?」
甘ったるく、耳につくような声に、わたくしは眉を顰める。
あからさまに媚を売って、なんて浅ましい女なのか。
だが、聡明なティナス様ならば、あんな女は相手にしないはず……そう思ったわたくしの予想は、見事に裏切られた。
「ああ、まったく、気位の高い女の相手は疲れるよ。……ラナに会えなくて、僕も寂しかった」
そう言って、ティナス様は、ラナと呼んだ侍女を抱きしめる。
わたくしが呆気にとられていると、ラナが口端を上げるのが見えた。そして、わたくしと目が合うと、ティナス様には見えないように舌を出す。
その瞬間、わたくしの手の中で握りしめていた扇が、ばきりと音を立てて割れた。
***
「最早、お前の面倒は見切れん!」
執務室に入るなり、お父様はわたくしを怒鳴りつけた。
そのお顔は、いままで見た事がないほど険しい表情で、わたくしに対する怒りが感じられる。
「王宮に仕える侍女の暗殺を謀るなど……!いったい、何度悋気を起こせば気が済むのだ!」
「ですが、お父様!あの女はティナス様に色目を……!それに、たかが侍女の一人や二人を害そうとしたことくらい、大したことではございませんでしょう!?」
「……普通の侍女であれば、な」
苦々しく、お父様が溜め息をつく。
そして、わたくしを睨みつけ、吐き捨てるように告げた。
「あの侍女は、表向きは子爵家の三女だが、実際には王族の血を引いている。あの侍女の父親は……」
そして、お父様が口にしたのは、王族出身で社交界でも発言力のある、大貴族の名だった。
中立派ということで目立った動きは見せていないが、もしも彼が動いたならば、貴族内での勢力図が一気に塗り替えられるだろうことは容易に想像がつく。
「公爵家といえど、必ずしも地位が盤石ではないことは、お前もよく知っていよう。それこそ、中立派のシドミ大公が、敵対する派閥に力添えすればどうなるか……」
お父様は、再びわたくしを睨みつける。
だが、その瞳には、最早怒りも失望も浮かんではいない。ただ、興味を失ったガラクタを見るような目だった。
「お前は、トゥーレ修道院へと送る事にする。……シブレ殿下との騒動で、お前が陥れたタゲテス男爵の娘と同じ修道院だ」
お父様の言葉に、シブレ様が恋焦がれていた、あの男爵令嬢の面影が浮かぶ。
かつて、わたくしは、あの女を陥れ、最果ての修道院へと追いやった。
あの女が、シブレ様に一方的に言い寄られていたのだということは、事前の調査で分かっていた。
それでも気に食わないからと、シブレ様ともども罪を着せ、あの辺境へと追放したのだ。
何もない、魔獣だけが彷徨く見捨てられた土地。
幾人もの女性が送り込まれ、誰一人として帰ってはこなかった、過酷な場所だ。
執務室を飛び出したわたくしの背に、お父様の声が追いかけてきた。
「せいぜい、仲良くやれるように努めるのだな。あの娘は、さぞやお前を恨んでいるだろう」
***
わたくしにとって、マリーゴールド・タゲテスという令嬢は、どうしようもなく気に入らない存在だった。
身分も低く、出自もけして良いとは言えない。
身に纏うのは、安物のドレスや宝飾品で、公爵家のわたくしとは比べ物にもならない。
それなのに、シブレ様が愛したのは、わたくしではなく彼女だった。
いや、それだけならば、まだ良かったかもしれない。
これまでにも、シブレ様は、数多の令嬢や夫人と浮き名を流している。
麗しい貴公子に甘い言葉を囁かれて、悪い気がする女はいない。皆、誰も彼もがすぐに靡き、そしてシブレ様が飽きると捨てられた。
それでも、皆がシブレ様の美貌に見惚れ、王太子の肩書きに欲望を抱き、媚を売るのだ。
ただ一人、マリーゴールドさんを除いて。
マリーゴールドさんだけは、はじめからシブレ様に対して冷ややかな目を向けていた。
シブレ様がどんなに愛を囁いても靡かず、常に一定の距離を置いて接して、けして媚びるようなこともしない。
だが、シブレ様は、それまで出会ったどんな女性よりも、彼女に夢中になった。
どうして?
わたくしは、いつだってシブレ様の言う通りにしてきたのに。
もう少し華奢になったほうが良いと言われれば、食事を抜いてダイエットに励んだ。
ドレスや宝飾品は、自分の好みではなく、いつもシブレ様の瞳の色と同じものを選んだ。
もちろん、他の女性との関係を知っても、シブレ様本人を問い詰めるようなことはしていない。
家の為に、王太子の婚約者という地位を失わない為に、シブレ様に嫌われないよう、わたくしは必死で努力してきた。
それは、シブレ様が廃嫡となり、ティナス様と婚約してからも同様で……
ああ、そうか。
ラナという侍女に抱いた嫌悪感の正体は、これだったのだ。
媚を売って浅ましい、なんて……それは、わたくしだって同じだったのに。
***
修道院へと向かう馬車の中で、わたくしが考えていたのは、彼女のことだった。
どんな顔をして会えば良いのだろう。
きっと、酷く恨まれているに違いない。
罵られ、睨まれ、復讐されたとしても文句は言えない。
わたくしが、かつて彼女にした行為を考えれば、それは当たり前のことなのだから。
せめて、彼女に会ったら、謝罪しよう。
己の罪を認め、心から彼女に詫びるのだ。そんなことで許されはしないだろうけれど、それでも……
「カルミア様」
声に振り返れば、こちらの返答を待つことなく、乱暴に扉が開かれる。
「修道院に到着いたしました」
愛想のない、ぶっきらぼうな声だった。
かつては、この御者も、わたくしにいつも笑顔で接してくれていたのにと、心の中で溜め息をつく。
「そう、御苦労さ……」
「それでは、俺はこれで」
そう言うなり、アルダートは手も貸さず、そのまま御者台へと戻っていく。
仕方なく、わたくしが自分で荷物を持って、馬車から降りると、すぐさまアルダートは馬に鞭を入れ、声もかけずに去って行ってしまった。
あとに残されたのは、鞄一つを持ったわたくしだけ。
泣きそうな気持ちになりながら、修道院の門を潜った、その時だった。
「ふんっ!ふんっ!」
目の前に、高速で兎跳びをする何か……否、修道服を纏った大柄な人物の姿が、目に飛び込んできたのだ。
(わたくし、目までおかしくなったのかしら……?)
そう思って目を擦るが、やはり幻は消えない。
頬をつねっても、相変わらず、目の前では修道女(?)が兎跳びをしている。
どうやら幻ではないらしいと気づくまでに、たっぷり三分ほど時間を要してから、わたくしはその人物に声をかけた。
「……あ、あの、お取り込み中に申し訳ございません。修道院長がどちらにいらっしゃるか、ご存知ではございませんこと?」
修道女は、わたくしの声に振り返ると、兎跳びをやめてこちらに歩いてくる。
遠目から見ても大柄だったが、立ち上がった姿は見上げるほどに大きい。
だが、その長身に驚く間も無く、目の前の人物は意外な言葉を口にした。
「ああ……お久しぶりです、カルミア様」
「……はい?」
公爵令嬢として、けして交友関係は狭くないほうだったが、少なくとも高速で兎跳びをする大柄な修道女の知り合いはいなかったはずだ。
訝しがるわたくしに構わず、修道女はわたくしの手から鞄を受け取ると、手前の道をしめす。
「修道院長からお話は伺っておりますので、御案内致します。この時間は、中庭で武器の手入れをしているはずですから」
「ぶ、武器の手入れ……?あの、失礼ですけど、以前どこかでお会いしましたかしら?」
「私は一介の男爵令嬢でしたので、公爵令嬢のカルミア様が覚えていらっしゃらないのも無理はございません。……元タゲテス男爵令嬢、マリーゴールドと申します」
目の前の大柄な修道女は、そういって微笑んだ。
瞬間、わたくしの脳内に、走馬灯のように学園時代の思い出が駆け巡る。
マリーゴールド・タゲテスは、砂糖菓子のように繊細で可憐な美少女だった。
肌は透き通るように白く、輝くばかりの亜麻色の髪、どこか憂いを含んだマンダリンガーネットの瞳は、目が合った者の心を捕らえて離さない。
その華奢な手足、小柄な身体つきも含めて、男子生徒がこぞって守ってやりたくなると噂していたものだった。
断じて、高速で兎跳びなんてしてはいなかったし、見上げるほどの偉丈夫でもない。
「その……だ、だいぶ変わりましたわね」
「まあ、成長期ですからね」
「たった一年で、完全な別人になる成長期があってたまるかですわ!」
目の前のマリーゴールドさんを名乗る修道女は、記憶の中の彼女より二回りほど大きい。
むしろ、背丈だけでなく肩幅まで含めて、普通の男性より一回りくらい大きく感じられるほどだ。しかも、それだけではない。
「背が伸びたとか、体型や雰囲気が変わったくらいなら、まだ分かりますけれど……!どうして、そんなゴツくて陰影が濃く……」
言いかけて、ハッとする。
まただ。彼女に謝罪しようと決めたのに、わたくしはまた彼女を傷つけるような言葉を口にしている。
後悔と自己嫌悪に、思わず唇を噛み締める。
だが、返ってきたのは、意外な反応だった。
「あ、分かります?トレーニングのおかげで、だいぶ引き締まった顔つきになったんですよ」
嬉しそうに、どこか誇らしそうに、彼女はからりと笑う。
学園時代の彼女は、けしてこんな風に笑ったりはしなかった。やはり人違いなのではと、もう一度まじまじと目の前の人物を見つめる。
だが、そこには、かつて嫉妬し、そしてひそかに憧れたマンダリンガーネットの瞳があって……目の前の現実と、かつての記憶とのあまりのギャップに混乱したわたくしの口をついて出たのは、またしても非難めいた言葉だった。
「そ、そんな筋骨隆々な女性など、殿方には好まれませんでしょう!?」
「そうかもしれませんね」
あっさりと、マリーゴールドさんは首肯する。
「ですが、私は、いまの自分が一番好きですよ」
彼女は、そう胸を張った。
その顔に、学園では見たことのない、晴れやかな笑みを浮かべて。
***
「シスター・カルミア。貴女、顔色が良くありませんね」
修道院長に会うなり、挨拶もそこそこに言われたのは、そんな言葉だった。
そして、わたくしの目の裏を、手慣れた動作で診ると「やはり」と呟く。
「貧血気味のようですね。夜はよく眠れていますか?」
「いえ、あまり……」
わたくしが答えると、修道院長は、背後に控えていたマリーゴールドさんの名を呼んだ。
「シスター・マリーゴールド。彼女にココアを飲ませなさい。朝晩、欠かさずに一杯ずつですよ」
「修道院長、貧血の改善を考えるのならば、牛乳よりも鉄分を多く含む豆乳で作る方が、より効率的ではないでしょうか?」
「良い提案です。採用いたしましょう。……ああ、まもなく夕餉の時間ですね。シスター・カルミア、皆に挨拶してもらいますので、食堂に向かいましょうか」
***
そうして辿り着いた食堂には、マリーゴールドさんにも引けを取らない、屈強な修道女たちが集まっていた。
挨拶もそこそこに席につけば、これでもかとばかりに大盛りの温野菜や鶏肉が運ばれてくる。
「シスター・カルミア。あなたは貧血気味のようですので、こちらのスープもどうぞ」
そう言って差し出されたのは、スープ皿というよりも、丼に近い大きさの器に並々と注がれたほうれん草のスープだった。
「あ、あの、わたくし、そろそろお腹いっぱいで……」
恐る恐る、そう声を上げる。
すると、周りの修道女たちは、信じられないものを見るような目を、一斉にわたくしに向けてきた。
「お、お腹いっぱい?たったこれだけで?」
「食が細すぎます!まさか、病気かしら?」
「見てくださいまし、シスター・カルミアのこの腕!こんなに細いだなんて……」
隣席の修道女が声を上げると、周りの修道女たちが息を呑む。
痛ましいものを見るような視線に耐えられず、わたくしは大きくかぶりをふった。
「あ、あの、わたくしは健康ですので!むしろ、王都では婚約者にもう少し痩せていたほうが良いと言われたことも……」
「なんですって!?」
「こんなに細いのに!?」
「これ以上痩せてしまったりしたら、それこそ骨と皮になってしまうではありませんの!」
健康だとアピールしようとしたわたくしの意図も虚しく、修道女たちはさらにヒートアップしていく。
ついには、修道院長までもが、重々しく口を開いた。
「王都では、女性に無理なダイエットをさせる傾向があります。特に、貴族令嬢はデビュタントをすればコルセットを着けられて、食事量も少なめにと指導されますから……」
「なんて酷い……!健康を害してまで優先すべき美など、あるはずがありません!」
「女性に健康な子供を産めと言いながら、矛盾していますわ!」
修道女たちは憤慨し、あれこれとわたくしの体調を気遣う言葉をかけてくる。
そんな彼女たちの態度に戸惑いながらも、わたくしはふと思った。
……こんなふうに、誰かに体調を心配してもらえたのは、いつ以来だろう、と。
公爵家では、常に正しいマナーを守れているかをチェックされ、食事量や体調などを心配されたことはなかった。
夜会や茶会では、公爵令嬢としての品位や体面を気にして、どんなに豪華な食事やお菓子が並んでいても、満腹まで食べられたことなど一度もない。
もっと華奢に、もっと淑やかにと、わたくしもわたくしの周囲の人間も、気にするのはそればかりだったのだ。
ほうれん草がたっぷりと入ったスープを、一口啜る。
それは、これまで食べたどんな料理よりも、温かかった。
***
トゥーレ修道院に送られて、一ヶ月が過ぎた。
普通、修道院といえば、朝から晩まで祈りを捧げて、前線で負傷した兵士達の手当をする。
だが、ここでは違った。
「魔獣襲来!総員、戦闘態勢を取りなさい!」
「ようやく来ましたか……!」
「今回は、骨のある魔獣がいるかしら?」
「血祭りにして差し上げましょう!」
魔獣が襲来するたびに、狂喜乱舞しながら駆け出す修道女たちの手には、それぞれ武器が握られている。
その腕は、もはや王都の騎士が華奢に見えるほどに鍛え上げられ、丸太のように太く逞しい。
「わ、わたくしは……」
「シスター・カルミア。あなたは、まだこの修道院に来て日が浅い。無理をせず、こちらで祈りを捧げていて下さい」
修道院長にそう言われ、立ち上がりかけていたわたくしは、再び腰を下ろす。
マリーゴールドさんをはじめとして、ここの修道女たちのほとんどは、祈りを捧げるよりも肉体を鍛え、自らの手で魔獣を屠る。
しかし、わたくしのように戦闘に躊躇いがある者にまで戦いを強いることはせず、通常の修道女と変わらない生活を送る者も一定数は存在していた。
身を守る為に最低限必要な護身術を習い、修道女として祈りを捧げる日々は穏やかで、次第に心が澄んでいくのを感じる。
だが、そうした時間がもたらすのは、必ずしも良いことばかりではない。
身体を鍛え、祈りを捧げ、己自身を見つめ直す時間が出来たことで、これまで目を背けてきた事実が見えてきてしまうのだ。
本当は、はじめから分かっていた。
ティナス様は、ジニアから誘われたのではない。
あの子は、真面目な子だった。
他のメイド達は、バレない程度にいつも手を抜いて仕事をしていたが、彼女はそんな事をしようとはしなかった。
主人であるわたくしの婚約者を自分から誘惑するだなんて、そんな子ではない事は、わたくしが一番分かっていたはずなのに。
ラナという侍女にしても、それは同様だったのかもしれない。
仮に、ラナから誘っていたのだとしても、それにティナス様が応じたからこそ、あのように親しげだったのだろう。
いまも王都では、ティナス様は何人もの令嬢と浮き名を流していると、風の噂に聞いている。
……これまで、わたくしは、いったいどれだけの間違いを犯してきたのだろう。
***
トゥーレ修道院に送られてから、三ヶ月が過ぎた。
最近では部屋に引き篭もり、ほとんど食事もとっていない。
護身術の訓練や、祈りの時間にも、わたくしは顔を出さないようになっていた。
これまで、散々他人を傷つけてきたわたくしが、安穏とした暮らしを送る事など、許されていいはずがない。
そう思うと申し訳なくて、わたくしが祈りを捧げるだなんて烏滸がましいのではないか、いっそ魔獣に喰われてしまうべきなのではないかという思いに囚われ、何もする気が起きなくなってしまったのだ。
ベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめる。
空腹のせいなのか、意識ははっきりとせず、なんとなく頭が痛かった。もう、起き上がる気力さえない。
いっそ、このまま……
「シスター・カルミア」
聞き慣れた声が、耳朶に響く。
わたくしが答えずにいると、閉じたままのドアから、もう一度「シスター・カルミア」と呼びかける声が聞こえた。
「最近、まったくお顔を見ないので、体調を崩されたのかと思いまして。お食事をお持ちしましたので、入ってもよろしいでしょうか?」
わたくしは、返事をする気になれなかった。
頭から布団を被り、狸寝入りを決めこむが、それでもノックの音が響く。
コンコンコン。
コンコンコン。
コンコン、ゴンッ。
ゴコッ、ゴゴ、ゴンッ。
途中から、ノックに混じって変な音が聞こえてくる。
訝しげに思い、わたくしが振り返ったその瞬間、バキッという音ともに扉が外される。
もう一度言うが、扉が外されたのである。
「あ、おはようございます、シスター・カルミア」
「え、あの、扉……」
「食事を取らないだなんて、健康にも筋肉にも良くありませんよ?具合が悪いようなら消化の良い物を作りますから、少しでも食べて……」
「いや、だから!扉が外れているのですけど!」
思わず、わたくしが声を張り上げれば、マリーゴールドさんは気まずそうに目を逸らす。
よく見れば、その背後には数名の修道女たちもいて、マリーゴールドさんに「扉外すのはもう少し後でしょ」などと言っていた。
「まあ、緊急事態だったということで。……後で直しておきますから、ね?」
そして、マリーゴールドさんは、わたくしに向かって笑いかけた。
「まずは食事をしましょう、シスター・カルミア」
その笑顔は屈託なく、わたくしへの恨みや憎しみなどというものは、まるで感じられない。
だが、今はかえってそれが、わたくしの自己嫌悪を強めてしまう。
「……ませ」
「はい?」
「わたくしのことなど、放っておいて下さいませ!」
顔を上げ、マリーゴールドさんを睨みつける。
なおも心配そうに、わたくしの様子を窺う彼女に腹が立って、わたくしは感情のまま声を上げた。
「貴女は、よくご存知のはずでしょう。わたくしがどれだけの人間を苦しめてきたのか。……そして、どれほど救いようのない人間なのかを……!」
ああ、もう、止まらない。
こんなことを言ったところで、どうしようもないのに。
そんな思いとは裏腹に、口からは言葉が滑り出していく。
「わたくしは……王太子の伴侶として、未来の国母として、シブレ様を心から愛し敬うよう、いつも言い聞かせられて育ちました。けれど、シブレ様は他の女性とばかり仲良くなさって……」
シブレ様が、他の女性に心を移すたびに、わたくしは相手の女性に嫌がらせをした。
それでも、シブレ様は、次々に恋の相手を見つけて、わたくしだけを見てくれたことなど一度もなかった。
「わたくし、知っていましたのよ。貴女には、何の非もないのだと……それを知っていて、わたくしは貴女を陥れたのです」
「……シスター・カルミア」
「そして、ティナス様と婚約してからも、また同じ過ちを……わたくしは、貴女をこの修道院へ追いやった時から何も変わってなどいない、愚かで救いようのない人間ですわ」
「それは、あなたの愛した男性が不誠実だったからでしょう?……あなただけが悪いわけではないと、私は思いますが」
こちらを真っ直ぐに見つめ、語りかけるマリーゴールドさんの言葉に、ほんの一瞬心が解けそうになる。
「……それでも」
貴族の社会なんて、矛盾だらけだ。
貴族の娘は、純潔ではない、それだけで傷物だなんだと言われるのに、婚前の貴族男性が娼館に通う事は咎められない。
貴族の夫人は、健康な子供を産むのを義務とされながらも、健康を害してでも美しく、夫に愛される妻であることを求められる。
「大半の貴族の女性は、そうした理不尽や矛盾に、黙って耐えてきたのです。わたくしのお母様だって、貴女のお母様のせいで苦しんだ男爵の先妻だって……」
自分の言葉に、はっと口を噤む。
まただ。
またこうやって、わたくしは八つ当たりをして、優しい彼女を傷つけてしまう。
自己嫌悪に、思わず彼女から目を逸らす。
……だが。
「シスター・カルミア。御自身がおかしいと、そう思われたのなら、それを信じて良いのではありませんか?」
耳朶に響いたのは、穏やかな声だった。
おそるおそる顔を上げれば、マリーゴールドさんが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「誰だって、自分だけが我慢を強いられて、他人が好き勝手にしているのを見たら、我慢ならないものです。……食事制限中に、目の前でチョコレートたっぷりのプロテインバーなんて食べられた日には、それこそ殺意が湧いてしまう」
わずかに険しい顔つきになった彼女が、背後に控える修道女の一人をじっと見る。
決まり悪そうに目を逸らした修道女を、それでもマリーゴールドさんが見つめていると、ついに根負けしたらしい修道女が「ごめん、今度プロテインおごるから」と言う。
マリーゴールドさんは満足そうに頷き、再びこちらへと向き直る。
「これまで、皆が我慢していたからといって、それが正しいとは限りません。あなたは自分の心を守るために、必死に足掻いただけでしょう?……方法は間違っていたかも知れませんが、シスター・カルミアは自分なりに戦ったのです」
一歩、また一歩と。
ゆっくり歩んできた彼女が、ついにわたくしの目の前まで辿り着く。
そして、しゃがみ込むわたくしへと視線を合わせた。
「この修道院には、戦士を侮るような不粋者はいませんよ」
その笑みは、その声は、あまりにも優しくて。
まるで全てを許してくれるような、受け入れてくれるような力強さに、縋りつきたくなって。
思わず、ずっと抱えていた疑問が、口から滑り出てしまう。
「どうしてなんですの……?どうして、貴女は……わたくしなどに、そんなに優しくできますの……?わたくしは……あ、貴女を、陥れたんですのよ……」
そんなわたくしの言葉に、彼女は晴れやかに笑って、手を差し伸べる。
「過去のことは、トレーニングの汗が洗い流してくれましたから」
その顔には、ただ一片の曇りもない。
気づけば、わたくしはマリーゴールドさんが差し伸べた手を取っていた。
その手は、淑女というにはあまりにも力強く、逞しい。
「……わたくしも、貴女のようになれるかしら」
「残念ながら、同じトレーニングをしても、同じ成果が出るとは限りません」
それでも、と彼女は言葉を続けた。
「筋肉は、努力した者を裏切りませんよ」
***
五年ぶりに見る王宮は、相変わらず壮麗だった。
広大な庭園は手入れが行き届いており、柱の一本一本には手の込んだ彫刻が施され、外壁は時間帯によって微妙に色味が違って見える。色彩豊かな飾り窓などは、もはや芸術品の域だ。
だが、この場所に立っても、かつてのような憧れは抱かない。
「どうしました、副修道院長」
音も気配もなく、背後からかけられた声。
それが誰かなど、振り返るまでもない。
「少し、昔の事を思い出していただけですわ。……ねえ、修道院長。ひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」
「あなたが私にお願いとは、珍しいですね。なんでしょう」
「ティナス様……いえ、国王ティナス二世に関しては、わたくしにお任せ頂きたいのです」
かすかに、背後から息を呑む音が聞こえた。
戦場ではいつも冷静沈着な彼女が珍しいと、内心で苦笑してしまう。
「よろしいでしょう。……露払いは、私達に任せておきなさい」
バン、と力強い掌が、わたくしの背中を押す。
触れられた背中に、じんわりと熱が伝わって、やがてその熱が駆け巡るように、総身に勇気が湧いていく。
もう、どうするべきか、心は決まっている。
わたくしは、愛用のハルバートを構え、王宮へと向かう道を歩き始めた。
拙作をお読みいただき、ありがとうございます!
ジャンル別ランキングで日間一位をいただきました!
前作から間が空いてしまったので『はたしてこの作品に需要はあるのか……?』と不安だったのですが、予想外に沢山の方に御覧になっていただけて、本当に感謝です……!
***
【登場人物紹介】
◯カルミア
元公爵令嬢。
かつて陥れたマリーゴールドと再会し、紆余曲折を経て和解した。
以降は、ともに筋トレに励み、厳しい訓練にも必死に喰らいついていく。その努力の甲斐あって、王都襲撃前に副修道院長に就任した。
王宮にて壮絶な死闘を繰り広げ、元婚約者のティナスを討ち取るのだが、それはまた別の話である。
愛用の武器はハルバート。
◯マリーゴールド・タゲテス(学園時代)
男爵令嬢。
身長152センチ、小柄で華奢な美少女。
亜麻色の髪にマンダリンガーネットの瞳で、瞳は光の加減によって赤みがかって見える。
幼少期は平民として暮らしていたために、あまり周囲には馴染めていないが、その可憐な容姿から男子生徒の人気を集めている。
学園における『守ってあげたい女子ランキング』において、二年連続一位を受賞した。
◯マリーゴールド(修道女)
元男爵令嬢、現トゥーレ修道院長。
全体的に顔の陰影が濃く、鋭い眼光には一分の隙もない。辛うじて、儚げ美少女の面影もかすかに残っている……ように見えなくもない。
その戦闘力と鍛え抜かれた肉体から、修道女たちの圧倒的な支持を集めている。
トゥーレ修道院における『背中を預けたい修道女ランキング』において、殿堂入りを果たした。