1章 突然の事件と求婚6
エリーゼは父親から問われて、はっと視線を正面に向けた。
見たことがないレオナールの表情と態度が衝撃的すぎて、うっかり盗み見てしまっていたのだ。
大切な話をしているときにすることではない。
「私は、レオナール様のことは信頼しています。この方は、きちんと約束を守る方です」
エリーゼがレオナールを信頼しているかどうかは、嘘偽りなく答えることができる。
何せ、結婚の条件を先に契約書で確認する人なのだ。商会で長く手伝いをしていたエリーゼが信頼できないはずがない。
父親は、なおも質問を重ねてくる。
「公爵様と何処で知り合ったんだ?」
エリーゼは緊迫した場であるはずなのに、つい溜息を吐いた。
エリーゼだって気付かなかった。気付かなかったけれど、自分以外の人が騙されて──語弊があるか。気付かずにいるのを見せつけられると、何とも言えない気持ちになる。
「お父様は、この人に見覚えはありませんか。茶髪の鬘を被って、目を隠して……」
エリーゼの説明に父親が首を傾げた。
レオナールが助け船を出すように、少し前のめりに口を開く。
「ここにはレオンと名乗って来ておりました。身分を偽っていたことは申し訳ありません。そうでないと不便もありますから」
父親が目を見開いた。
瞳の色も顔立ちも同じなのに、うまく隠していたものだ。
「あああ! レオンくん!? ……え、私は失礼なことをしておりませんでしょうか!」
「お父様、声が大きいです」
「ああ……すまない、エリーゼ。だが」
慌てる父親に、レオナールは苦笑するばかりだ。それでも優しげな顔で微笑んで見せるところは流石と言うべきか、それとも胡散臭いと言うべきか。
「大丈夫ですよ。私も自身の都合で、商家の息子を名乗っていましたので」
父親がほっと息を吐く。
「二人の出会いは分かった。それで、うん。そうだ。エリーゼは公爵様のことを、その──」
「もう。貴方いつまでもごもごしているの?」
口を挟んできたのは母親だ。
エリーゼにとって父親よりも怖いのはこの母親だった。
元々商会の従業員だったところをその能力の高さでのし上がり、最終的に祖父の勧めで父親に嫁ぎ子爵夫人となってしまったすごい人だ。エリーゼから見て素晴らしく貴族らしい礼儀作法も、結婚後に習得したというのだから驚きだ。
子育てのために一線を退いた今も、父親よりも有事のときに強いのは母親だった。
「私が聞きたいのは一つだけよ。エリーゼ、貴女はこの方を愛していて、求婚に頷いたのよね?」
エリーゼはその質問につい体を硬くした。
相変わらず母親は、エリーゼが答えたくないことを聞いてくる。
同時にそれに気付いたレオナールが、繋いだままの手にぎゅっと力を込めた。それがエリーゼには、契約を思い出せ、と言われているように感じられた。
そんなに念を押さなくても、エリーゼだって分かっている。
契約を反故にしてはいけないのだ。
もう、エリーゼは覚悟を決めているのだから。
「はい。私はレオナール様のことがす、好きだから、結婚することにしました」
言ってしまった。
これでもう、引き返せない。
決死の覚悟でぎゅっと目を閉じたエリーゼには、母親がどんな顔をしているのか見ることができなかった。
しかし判決を待つ囚人のような気分でいたエリーゼの耳に届いたのは、母親が心から面白いというように吹き出して笑う声だった。
「あら……ふ、ふふ。公爵様はそんなにエリーゼのことを愛していらっしゃるのね」
どうしてそんなことを言うのだろうと。エリーゼは隣にいるレオナールに目を向ける。
その頬が赤く染まり目が潤んでいることに気付いて、エリーゼは目を見張った。
「……それは当然のことです。そ、うでなければ求婚など」
レオナールの僅かに乱れた呼吸が妙に艶っぽい。
さっきまで演技がうまいと思っていたが、これはあまりに過剰ではないだろうか。
顔が整っている人はどんな表情をしていても素敵に見えるものだなあと思ってはいた。それでもこんな表情を見せられたら、それは嘘だと分かっていても狼狽してしまう。
この色気は何だ。
「ちょ、ちょっと。そんなことでそんな顔しないでよ」
「エリーゼが私に好きだと言ってくれたのはこれが初めてだから……」
「はい!?」
これまでお付き合いすらしていないのだから当然のことなのだ。どれだけ練習をしたら、こんな顔を作れるようになるのだろう。
しかし、母親はそうは受け取らないに決まっている。
「あらまあ、ちゃんと言わないと可哀想よ。──でもこの様子なら、心配しなくて大丈夫そうね。それで? これからどうするの?」
レオナールはまだ僅かに赤い頬のまま平静を装っているかのように口を開いた。
「本当はこのままエリーゼを連れて帰りたいのですが、そういうわけにもいきません。急ですが、エリーゼには一週間後に我が家に来てもらいたいと考えています。必要なものはこちらで用意しますので、無理に揃えなくて構いません」
「エリーゼとは話し合っているのでしょうし、その方が良いと思いますわ。公爵夫人になるのなら、少しでも早く勉強をしなければどうにもなりませんもの」
エリーゼは何も聞いていないとは言えなかった。
頭の中が、一瞬で仕事の引継ぎのことでいっぱいになる。
「これから私は辺境と王都に連絡をして、騎士を動かします。同時に陛下との謁見をとりつけますので、私に任せて──」
すると、それまで黙っていた父親が立ち上がった。
「いいえ、私の商会と領地のことですから。私にも同行させて下さい。助けていただけることには感謝しておりますが、責任は私にあります」
レオナールも続いて立ち上がり、父親の覚悟に頷く。
すぐに荷物を纏め始めた父親を横目に、レオナールがエリーゼの側に片膝をつき目線を合わせた。
「──エリーゼ。一週間後に迎えに来るから、支度をしておいて。式の準備は結婚してからで大丈夫だからね」
エリーゼが返事をする前に、父親が母親に言う。
「君に任せてすまないね」
「構わないわ。大切な娘と商会のことですもの」
微笑みながら答えた母親に、エリーゼはそうかと納得した。
一週間後にここを出るということは、デフォルジュ公爵家に嫁ぐということだ。
つまりするのはただの引っ越しではなく嫁入り支度だ。
途端に緊張してきたエリーゼの手の平に、レオナールが何か硬くて小さいものを握らせた。
「……しばらく会えなくなるけれど、これを私と思って持っていて」
立ち上がろうとしたレオナールが、少し屈んでエリーゼの額に唇を触れさせる。
突然の口付けにエリーゼが放心している内に、レオナールは荷物を纏め終えた父親と共に執務室を出て行ってしまった。