1章 突然の事件と求婚4
書かれている文字は読めるのに、内容を認識できない。
エリーゼはおずおずと顔を上げた。
「デフォルジュって……え? 冗談──」
「ではないよ。ごめんね、エリーゼ。でも先に確認しなかったのは君だから」
眉を下げたレオンが自身の髪を掴む。その手をするりと引き下ろすと、鬘の下から艶やかなプラチナブロンドの髪が現れた。
長かったはずの前髪は短く、手櫛で雑に整えただけで自然に波打つ短髪は、どこか遊び人だと思わせる軽さがある。
初めてはっきりと正面から見た青い瞳は、エリーゼが想像したよりも美しく輝き、まるで世界に二つしかない宝石のようだった。
その容姿から、レオン──レオナールの言葉が嘘でも冗談でもないと分かってしまった。
レオナール・デフォルジュは本名なのだ。
「そんな……! 結婚って冗談ですよね!?」
「冗談じゃないよ。エリーゼ、その契約書に署名しただろう?」
「無理! 無理、無理です!!」
エリーゼは全力で首を振る。
結婚なんてできるわけがない。
だってエリーゼはただの商会の手伝いをしている地味な田舎貴族だ。容姿もぱっとしないし、礼儀作法も商会で使う範囲しか覚えていない。
社交界デビューなんてやらず、夜会にも参加することがないと思っていた。
それなのに、レオナールはとんでもない無茶を言っている。
「私に公爵夫人なんて、務まるわけがないじゃないですか……!!」
デフォルジュ公爵家はかつての王兄が臣籍降下して作った公爵家で、現在も王家の相談役として国から重用されている由緒正しい名門一族だ。
この一族の当主継承方法は変わっていることで有名だった。
長男が一人前になったと判断したところで当主の座を譲って、先代は領地経営に専念するのだ。
というのも、このデフォルジュ公爵家が管理する領地は大きく、かつ飛び地のように国中に散らばっている。
領地を領地管理人に任せることもできるが、自らの領民は自ら守るべしという初代の教えの元、王都で王族を支える相談役には若い当主を、領地経営には先代を、と決めているのだそうだ。
そのため、まだ二十五歳だというこのレオナールも、既にデフォルジュ公爵家の当主なのである。
だからたとえエリーゼと結婚を決めたとしても、確かに反対されることはない。
とはいえ、そんなものは机上の空論ではないか。
レオナールが余裕の表情で笑って、鬘をひょいとテーブルの端に置いた。
輝くプラチナブロンドのレオナールの姿は、華やかで美しくて、目が眩みそうだ。
「大丈夫。契約書にも『妻としての勉強をする』って書いたから。これから勉強すれば良いよ」
たとえ見せかけだとしても、公爵夫人として立てるほどの勉強とはどれほどだろう。考えると気が遠くなってくる。
「そうは言っても公爵様との結婚なんて」
「だってエリーゼ、俺から条件を聞いた時点で俺がそれなりの家の人間だって思っただろう?」
思った。しかしまさか超名門の当主本人だとは、これっぽちも考えてはいなかった。
だって、ここは王都から離れた田舎の小さな子爵領だ。公爵がほいほい現れるような王都や大都市ではないのだ。
「それはそうですけど、せいぜい伯爵家の息子とかくらいかと思いますよ!?」
「普通の伯爵令息は、騎士団を動かせないけれど」
そんなことを言われても、エリーゼは商いのことは分かっても貴族の仕組みや役割はさっぱりなのだ。田舎令嬢でも一般的に知っていることしか知らない。
「や……やっぱりこの話は」
「それじゃあ契約を破棄する? 船員達も商会も領地も投げ捨てて」
「そんなことできるわけないじゃない!」
反射的に叫んだエリーゼは、すぐに自身の矛盾に気付いた。
エリーゼに残された道は、従業員と商会と領地を生かすか殺すかである。生かそうとするのなら、レオナールの手を取る必要がある。
「答えは最初から決まってるんだし、いちいち文句言わなくて良いって」
レオナールの言葉にエリーゼは反論することができない。
「わ……分かりました、公爵様」
「その呼び方は寂しいかな。……覚悟はできた?」
レオナールから差し出された手に、今度は自分から手を重ねた。この契約結婚を成立させなければいけないのは、エリーゼも同じだった。
レオナールが満足げに口角を上げ、本物らしい笑みを作る。
そのまま手を引かれ、エリーゼは執務室から連れ出された。
「──ほら、早く行くよ」
「行くってどこへ?」
「決まってるだろ、君のお父様のところだよ」
エリーゼの実家同然であるアルヴィエ商会の建物を、たまにしか来ていなかったはずのレオナールが我が物顔で闊歩する。
早足でそれについていきながら、エリーゼは慌てた。
「お父様!?」
「そう、結婚の許しをもらわないとね」
レオナールの足が、エリーゼの父親である商会長の執務室の扉の前で止まった。
室内からは悲鳴と怒声に近い父親と従業員達の阿鼻叫喚の声が漏れ聞こえてくる。
「ああ、そうだ。これからは俺のことはレオナールと呼んで。エリーゼの父親にも、ちゃんと恋人同士だと思ってもらえるように頑張ろうね」
レオナールはエリーゼが口を開くよりも早く、ノックもせずに勢いよく扉を開けた。
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