1章 突然の事件と求婚3
しかしレオンは途端に作り物の笑顔を貼り付けて、エリーゼの手を離した。
「よし、交渉成立だ。早速契約書を作ろう」
「待ってください。結局『協力』って何をするんですか?」
エリーゼは慌てて確認する。犯罪以外はするとは言ったが、だからといって何をするか言われていないままでは落ち着かない。
レオンは笑顔を崩さないまま首を傾げた。
「最初に言っただろう。俺と結婚しないかって」
「本気だったのですか!?」
咄嗟に叫んだエリーゼに、レオンはしっかりと頷いた。その様子から、エリーゼは本当にレオンの妻になるのだと思い知らされる。
結婚への憧れもほとんどなく、いつか親が決めた誰かと家のために結婚するだろうとなんとなく思っていた。
それなのに、こんなところで結婚相手が決まるとは。
「こんな状況で冗談を言うつもりはないって。俺にも事情があるんだ」
「事情?」
「長くなるから、契約書を作りながら聞いてほしい」
そう言うと、レオンはエリーゼの執務室にある応接セットのソファに我が物顔で腰かけて、持っていた鞄から複写用紙を取りだした。
同じ内容の書類を用意するときに重宝する便利な文房具だ。
エリーゼはレオンの向かい側に座って、その手元を見つめる。
レオンは当然のようにすらすらと契約書を作っていく。
その手つきは、とてもではないがまだ実務を任されていない後継ぎ息子には見えなかった。
「端的に言ってしまえば、結婚をしたいから弱みにつけ込もうとしているんだけど」
「どうしてそうまでする必要が?」
長い前髪のせいでよく見えないが、レオンは身なりをきちんと整えれば、きっとそれなりにかっこよく見えるだろう。
わざわざ大金を払ってエリーゼのような地味な人間を選ばなくても良さそうなものだが。
そんなことを考えていたエリーゼの前で、レオンはペンを持つ手を止めて溜息を吐いた。
「二十五歳にもなると、周囲が煩くて。でも俺に寄ってくる相手は、貞淑な女性とはほど遠い」
今度はエリーゼが首を傾げる番だった。
「レオン様は、しっかりと身だしなみを整えれば素敵になると思いますが……」
綺麗な青い瞳は魅力的で、見える範囲ではそれなりに整った見目をしている。情報力と対応力があり、仕事もできそうだ。
エリーゼがレオンが結婚できない理由をあれこれ考えていると、レオンは僅かに目を伏せる。
「……友人から悪い噂を立てられて、まともな女性には相手をされないんだ」
「それは……」
可哀想かもしれない。友人と言うからにはきっと親しかった者なのだろう。裏切られたのだろうか。
悪い噂くらい気にするなと言いたいところだが、それではレオンが落ち込むのも仕方がないと思えてきた。
「それに、エリーゼは子爵令嬢だろ? 社交界デビューこそしてないけれど、それはたいした問題じゃない。貴族令嬢が相手なら、文句は言われないはずだ」
エリーゼはここまでのレオンの話を反芻する。
つまり、結婚をせっつかれるが相手がいない。その『悪い噂』のせいで、口説こうとしてもうまくいかないのだろう。
だから困っているエリーゼを助ける代わりに、結婚をしてもらいたいということか。
そういう理由なら、エリーゼもレオンに対して同情はできる。
商会の仕事が楽しくて一生懸命していても、婚約者すらいないことで周囲から勝手にとやかく言われることがあったからだ。
正直勝手なことを言うなと思うことは多いが、相手が親や客では言い返すのも難しい。
レオンがペンをおいて、エリーゼの方へ契約書の正面をくるりと向けた。
「できたよ」
「契約書、確認します」
エリーゼは早速レオンが書き上げた契約書を確認し始める。
前半は先程レオンがエリーゼに提案してきた内容がそのまま書かれている。その後から、レオンの言う協力してほしいことが並んでいた。
──社交の場では仲睦まじく振る舞うこと。
──契約期間中は互い以外と恋愛をしないこと。
──妻としての勉強をすること。
──使用人に契約を悟られないこと。
──周囲には契約を漏らさないこと。
最後に、定める事項について疑義が生じたとき、 または定めのない事項について意見が異なるときは誠意をもって話し合いを行う、と書かれている。
契約は一年ごとに自動更新されるが、どちらかに解約の意があるときにも話し合いをすることになっていた。
どうやらエリーゼが想像したよりも良心的な内容のようだ。
「問題がなければ、ここにサインをして」
言われてエリーゼは署名欄にサインを書いた。
普段の癖でしっかりとフルネームを書いてから、エリーゼはレオンの名前をきちんと聞いていなかったことに気が付いた。
裕福な商家の息子なのだろうと思っていたエリーゼの甘い考えは、レオンが契約書にサインをした瞬間に打ち砕かれた。
レオナール・デフォルジュ。
レオンが書いたその名前は、社交界デビューをまだしていないエリーゼでも聞いたことがある名前だった。