守りたい人達
明日イーサンが来る……。
そう考えるだけでぞっとする。
ぽかぽか心地よい春の日差しの中から、突然真冬の吹雪の中に放り込まれたみたい。
私はどんな顔をしてイーサンに会えばいいのだろうか。
親が決めた婚約者でも、私もこの頃子供らしく彼にメロメロだった。でも彼の心の闇を知っている今では、無邪気に振舞うことなどできるだろうか。
「はぁ……嫌だわ」
思わず溜息交じりに独り言を漏らしていると、エリナが再び私を呼びに来た。
「先生がおみえになりましたよ」
「え? 先生?」
「お嬢様、お勉強が嫌だと言っても忘れたフリはいただけませんよ」
呆れたように肩を竦めたエリナ。
おおぅ、そうだった。
私、今は十歳のお子様。家庭教師が勉強を教えに来ていたのだったわ。
「今日はお逃げになりませんでしたね、アメリア嬢」
ちょっと皮肉を込めて言う若い数術の先生はコーデラ男爵家の三男のクリス様だ。家督を継ぐ予定の長男、私のお父様が団長をつとめる騎士団にいる次男とは違い、頭の良かった彼はこうして貴族の子女の家庭教師をしているのだ。
そうそう、思い出したわ。私、このころ数術が苦手だった。だからよく逃げ出していたのよね。ごめんなさい、先生。
「十三歳で学園に入るまでまだ三年ありますが、基礎は押さえておきませんと」
……ん? 学園。
そうだ。私は三年後、貴族の子女が教養を身に着けるための学園に入り、四年間の寮生活が待っているのだ。
二つ歳上のイーサンは来年から。私が卒業するのを待って結婚したんだったわ。
学園での生活の中じゃなかったかしら。イーサンが私に執着するようになったのは。
何がきっかけだったのかまでは思い出せないけど―――。
「アメリア嬢、お勉強に集中しましょうか」
色々考え込んでいたのがバレて、先生にやんわり叱られた。
目の前には数術の問題のテスト用紙。
学園も卒業した知識があるのだ。流石に十の子供用の基礎問題は気もそぞろな状態でもできちゃう。すらすらと解いてみせた私に、先生は目を丸くして驚いている。
しまった、手を抜かないといけなかったのに……。
「おや、すごいじゃないですか! 一生懸命予習でもなさったのですか?」
「ま、まぁ、そんなところです」
確かに予習はしたわね。十年も。
「では、もっと難しい問題を出してみてもよいですか?」
先生の目の輝きが違う。ゴメンね、前の私は決して勉強が得意な子では無かったものね。よく先生に溜息をつかせていたのを思い出したわ。
「お願いします。先生」
それもささっと解いてみせたので、もう先生は大喜びだ。
「アメリア嬢は実は天才だったのでは?」
「いえ、やる気を出して努力しようと心を入れ替えてみただけですわ」
……適当な事を言ってすみません。ただ単に一度やってるだけなんですけどね。
「素晴らしい心がけです!」
先生も喜んでおいでなのでいいわよね。
「こうなったら学園で主席をとれるくらいに今から頑張りましょう!」
「ハハハ……」
なんか、先生に変なスイッチが入ってしまったけど……。
まだ漠然とだけど、今後の行動方針が見えて来たかもしれない。
二時間ほどみっちり勉強をした後、俄かに玄関の方が賑やかになった。
お父様がお帰りになったみたい。
お迎えしなきゃ。
廊下に出ると、フェリクスが目の前をとてとてと走って行くところだった。
「そんなに走ると転ぶわよ、フェリクス」
「ねえさま、父さまのおむかえ、いっしょ行こう!」
お父様が帰って来たのがそんなに嬉しいのね。
そういえば、よくこうやってフェリクスと手を繋いでお父様を迎えに行ったわ。フェリクスが生まれる前はお母様と手を繋いで行ったのもなんとなく覚えている。
玄関で、お父様が執事に外套と手荷物を渡している後ろ姿が目に入ると、フェリクスが駆け寄って大きな背中に飛びついた。
「父さまおかえりなさい!」
振り返って笑み崩れたその顔は……ああ、なんて優しくて若々しいんだろう。お父様、記憶の中にある大好きだったころの顔。
ひょいとフェリクスを抱き上げて、お父様が薄金色の頭を撫でまわしている。
「フェリクス、いい子にしてたか?」
「うん! 今日はね、ねえさまと散歩して絵本をよんでもらってぇ……」
早口で報告をはじめたフェリクス。思わず、声を掛けてしまった。
「フェリクス、お父様はお仕事帰りで今はお疲れよ。夕食の時にいっぱいお喋りして差し上げてね」
「はーい」
素直なところがホントに可愛い弟だわ。
ここでやっと、私も挨拶ができた。
「お父様、お帰りなさいませ。お仕事お疲れ様です」
そう言った私の顔を見て、お父様は驚いたようにフェリクスを床に降ろした。
「なんだろうな、アメリアが急にひどく大人っぽくなったような気がする」
ぎくぅ。
なに、中身が大人だって駄々洩れているのだろうか。もう少し子供らしく挨拶すべきだった? まあいいわ、誤魔化しておこう。
「私ももう十歳ですもの。それに婚約者もいることですし、大人にならないと、ですわ」
「君がしっかりしてくれるのは嬉しいが、父は少し寂しくもある。ゆっくりゆっくり大人になっておくれ」
そう言って、お父様は私を大きな手で抱きしめてくれた。
……お父様、私、お父様が大好きだったわ。
流石に、イーサンもお父様には手を出さなかった。出す必要が無かったというのが正解ということろだけど。
妻を失い、娘を嫁にやり、唯一の跡継ぎの息子を失ったお父様の憔悴ぶりは凄まじかった。フェリクスの葬儀の時、涙も流さず、一言も発せず、ただ遠い目で空を見上げるだけのお父様は、帝国屈指の剣豪と謳われた騎士団長の面影はすでになく、抜け殻としか言いようが無かったもの。
もし、あの後、お父様が動かなくなった私を見ていたら……考えもつかない。
ここにも、助けたい人がいた。
ねぇ、私の時間を巻き戻した神様? そういうことなんでしょう?
私だけでなく、沢山の人達の運命を変えろと……そんな御大層なことが私に出来るかはわからないけれど。
久しぶりの家族揃っての夕食は、公爵家でイーサンと共にしていた豪華なものとは程遠いものだけど、温かくて愛情の籠った料理でとても美味しかった。
食後のお茶を飲みながら、私はお父様に思い切ってお願いしてみる。
「お父様。私もドレストル家の者として剣術を習いたいです」
「女の子は剣を振る必要はないのではないかな? それこそ公爵家にお嫁に行くのなら、お淑やかに、礼儀作法やダンスを習うほうがいいと思うぞ?」
お父様が困ったような顔で言う後ろで、エリナが激しく頷いている。
でも、私には思うところがあって引けないのだ。
「礼儀作法はもちろんですが、公爵家の方々ですと、命を狙われる機会もございましょう? 私が強くなって公子様を守って差し上げるのですわ。それに自分の身も守れると思うのです」
……主に、その公子様から自分を守るために強くなりたいのだけどね。
「ふむ……それは一理あるかもしれん。だがな……」
あら、お父様はまだ反対なさる?
「そんなところまでアリシアに似なくても……」
アリシアは私の亡くなったお母様だ。え? どういうこと?
「お前達の母はなかなかのものでな。それは剣が上手かった」
やだ、それ初耳なんだけど。
やり直す前にはそんな話聞いたことも無かったわ。フェリクスを産んだ時に亡くなったくらいだから、お母様には体が弱かったというイメージしか無かったのに。
「お父様、その話、もっと聞きたいですわ」
「僕もぉ」
お父様が困り顔で語ってくれたところによると、確かにお母様はそんなに体が丈夫ではなかったものの、とってもお転婆で貴族の令嬢らしからぬ人だったのだそうだ。他のご令嬢達とお茶会でお話しするよりも、体を動かすほうが好きだった。よく騎士団の稽古を覗きに来ては、一緒に剣を振り回しているうち、達人クラスになったのだそうだ。そんなお母様に、お父様は心を奪われたんだって。
面白い話を聞いたわ。では私もお母様に習ってぜひ護身以上の剣技を身に着けたいものだ。
「ますます剣を習いたくなりました。お父様、いいでしょ?」
「よろしい。だが勉強もちゃんとして、尚且つ厳しい練習に耐えられるなら、だぞ?」
「やったぁ。私、頑張りますわ。頑張って強くなります」
お父様がほほ笑んで頷いているところをみると、内心嬉しいんだろうなと思う。
「僕も! 僕も剣をれんしゅうしてつよくなるよぉ!」
「フェリクスはもう少し大きくなったらだな(ね)」
図らずとも、お父様と声が揃い、ぷうと頬を膨らませたフェリクスが可愛すぎて一緒に笑った。
こんなに楽しいのって本当に何年ぶりなのだろうか。
沢山勉強をして以前の私よりも賢くなる。そして自分や、エリナ、フェリクスの身を、お父様の心を守れるだけの強さを手に入れる。
イーサンにただただ壊れ物のように大事にされ、愛されるだけの弱い女だった私にはならない。
……そしてあわよくば婚約破棄していただきたい。
せっかく巻き戻ったのだもの。この先の運命を変えていくには自分が努力しなきゃ!
さあ、気合を入れて、明日イーサンをお迎えするわ。